オトナのための文章教室①

「オトナのための文章教室」、いよいよ始まった。というか、ぼちぼち始めた。スタッフが2名参加したのを合わせて6名参加。ぼくのやる文章教室だから、風変わりな教室になるだろう。よくある講座だと、どんな感じだろうと想像する。「こうやったら上手に書けますよ。コツを教えましょう」だったり? それを胡散臭く感じる人であれば「こうやって書きます。一緒にやりましょう」だったり? そのどちらとも違う。

とはいえ、参加者に聞くと、ほぼ全員が「上手に書けるようになりたい」「書いているのだけれど人様に見せられるものじゃない」というようなことを言う。それでも参加してくださって、ありがとうございます。ははは。よくぞ来てくださいました。

「文章教室」なのに、「上手な書き方」なんて何も教えられない、なんて言うと、怒られそうだ。怒る方がいてもいい。

「ある先生には、大事なことだけを簡潔に書くのがいい文章だと教わりました」というようなことを話してくれた方もいる。おもしろい。

そういえば、ぼくの授業をとっている受験生の中には、「作文というものは自分の体験を書くものだ」と教わったと言ってがむしゃらに信じてきたような人もいたっけ(受験シーズン真っ只中なので今回は不参加)。

「こう書けば、上手く書けます」なんてことを言いたがる人はこの世の中にごまんといるだろうが、おそらくはその全てがある意味では正しく、ある意味では間違えているだろう。「あなたがそうやってみたいなら、やってみればいい」とぼくは言う。けれど、そうすればあらゆる人が、あらゆる文章を「上手く書ける」と言おうとするのはあまりにも乱暴でお粗末じゃないか。

だいたい、書くことに限らずほとんどのことは、その人が、その時にそうやって上手くいったというだけで、成功体験は必ず役に立たない時が来る。「上手く書ける」と言っているその人自身も、それでずっといけるとは思えない。そんなことより、何はさておき、「上手く書く」というのが、どういう状態をさすのか全然はっきりしない。

しかし、書き続けている書き手の成長というのは、もちろんある!

ただ「上手く書こう」とすることが、逆に「上手く書けない」ことに結びつくことは大いにあると思っている。これはぼく自身の書き手としての経験則というより、編集者としての経験則かな、と思う。自分だけでやっていたら、こんなふうには考えられなかったかもしれない。それは「最初の読者」としての経験則と言ってもいい。もちろん「上手く書こう」として「上手く書けた」と思う人もある程度はいるだろう。しかし多くの書き手は、自分の現在の書き方にかんして半信半疑で、試行錯誤しており、それがその人の向かう道を照らし出しているのではないかとぼくは思う。

簡単に言うとぼくはそういう書き手のほうが好きだ。

それにぼくは「上手な文章を読みたい」と思ったことがない。「上手いなぁ」と思って感動するということが、ほとんどない。稀にあるかもしれないが、その感動には「呆れる」感触が多少混ざっているだろう。もちろん褒め言葉ですけど、でも、それは狙ってやれる仕事じゃないなという気がする。で、おそらくそういう仕事をする人なら、ぼくが今回やっている教室には参加してないだろう。

それで、「上手く書こう」という気持ちは捨ててください、と話した。これが第一歩。

まずは、何はともあれ、書くこと。できれば毎日。とりあえず期間を限定してもいいから。

で、ぼくもこの数年やっている朝のノート(ただし各々が自分の扱いやすいように決めてやればいい)のススメ。これは、すでにやっている参加者もいる。雑誌『アフリカ』の最新号にその話が少し出てくるのだけれど、「朝の排泄」と表現することもある。「朝のジョギング」と言うほうがきれいかな。以前トークイベントでこの話をした時に、「犬の散歩」と言った方がいたっけ。何でもいい。

それから、「コミュニケーションのことば」と「表現のことば」の話。「コミュニケーションのことば」からの逃げ道をつくりたくはない。「表現のことば」へひらいてゆきたい。

どうやって書いてる? という話。

道具の話、ペンや紙の話だけではない、パソコン、スマホ、そしてSNSの話。それらの道具に、じつは影響を受けているという話。

文章というのは(当たり前と言われるかもしれないが)「ことば」で出来ているものだから、「ことば」で表現できるものなら、何でも表現できる。「ことば」を書く(「ことば」が書かれる)ものにも影響は受ける。

書く「場」にも影響は受けるだろう。そういった話。

そして書いているとき書き手の中はどうなっているだろう? という話。

日本語を意識してみよう、という話。現代の日本語がどういう「ことば」か、そもそも日本語とはどういう言語か、今回の「教室」でそれを深く追求することはできないが、少なくともぼく自身は、それも、ある程度意識しておこう。

で、「ことば」や、いろいろなことにかんして、見方というか、見る角度というかを変えてみたり、覗き込んでみたり、離れて眺めてみたりしつつ、ぼくなりに(その時々の参加者と一緒に)いろいろ試みてみます。

次回に向けては、各々の「こだわり」を書いてくる、という宿題が出た。

どうしても忘れられないこと。ずっとひっかかっていること。「こだわり」は力になる(と思う)。「表現者として、生命線と言えるかもしれないね」と話してくれた参加者もいました。自由に書く中で、そこは度々戻ってくる場所でもあるかもしれない。

次回から参加される方も、出来るだけ書いてご参加ください。とりあえずは字数制限なし。好きに書いて。

仕事に追いまくられて、書きたい気持ちはあるのだけれど、なかなか時間がとれないという方もいらっしゃるだろう。書けるだけでいい。この修行(というか何というか)は急いではいけないと思う。焦りは禁物だ。

いいものを書くには、「ぼーっとする時間」が重要ではないか、という話はしそびれた。次回か、その次回かには、ぜひ問いかけてみたいことです。いいものを書くためだけじゃなくて、私たちのような動物には「ぼーっとする時間」も重要ではないか。なんて。

「書く」ことに向かい、考えることは、この時代、この社会の中で、自分(たち)をどうやって助けるか、探ることになるとぼくは思っている。

②につづく。

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アフリカン・スクラップ・ブック

あのアフリカとはあまり関係がない個人的出版レーベル「アフリカキカク」の雑記帳。
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