見出し画像

「すごすぎる」をめぐって

こんなことを書くと、また口うるさいヤツだなとか思われて嫌われる原因になるかもしれないが、そんなことは恐れず書こう。少し前に、最近の人たちが安売りする「すごい」がぼくは嫌いだということを書いた(話した)ことがある。しかしぼくだって「すごい」と思うことがあるし言うことも書くこともあるのである。たとえば毎日、窓から空を眺めていて「すごいな」と思う。でも人のやることにかんして、「すごくいいなぁ」とか「すごく面白い」とかと思うことはあっても、それ自体を「すごい」と思うことは滅多にない。

滅多にない、と書いた。たまにはあるのである。

ここで書いておかなければならないが、最近は「〜すぎる」が流行りだ。あまりにも言われているので、「すごい」と言われてもたいしてすごくない感じだ。

「美しすぎる」「おもしろすぎる」「すごすぎる」──最近見たのでは「最高すぎる」というのがあって、そこでは「〜すぎるよぉ、いい加減にして」と文句を言っているわけではなく、最高級の褒め言葉として「すぎる」を使っている。では「最高すぎる」と言う時、「最高」は最高ではなくなったのだなぁとしみじみしてしまうのだが…

とはいえ、ぼくも「すごすぎる」と思ったり言ったりすることがあるのである。たまにある。

たとえば、昔(1990年代、ぼくが10代の頃)のことだけれど、ラジオでこれを初めて聴いた時には、「す、すごすぎる…」と思った。思ったさ。

日本における珍盤・奇盤の愛好家の間では超有名なミノルフォン(作曲家・遠藤実さんがやっていたレコード・レーベル)のシングル。

たぶんすごく真面目につくっているんだろうけど、キーがどこにあるのかもわからないし、すごい歌(というか声)、そしてこの演奏とコラース、よくわからない世界に行っちゃってる(?)けど、でもなぜか聴いてしまう、しかしこれを繰り返し繰り返し聴いていると頭がおかしくなりそうな気もする。

こういうのを、「突き抜けている」と言う。「突き抜けている」ものを見つけた時、ぼくは「すごすぎる」と思う。

いい湯加減があるから、「熱すぎるだろ!」と言える。いつも「お湯すぎる」のであれば、どうなるか。舌が麻痺するくらい辛いものばかり食べていたら、ダシの風味なんかわからなくなる。いま世の中が「突き抜けている」もので溢れているかと言えば、ぼくには全くそういうふうには思えない。むしろ、小さな庭の中で大きさを競って「大きすぎる」と言い合っているだけのような気もしている。この話、「日本スゴイ」の話と似たところがありません?

それはともかく、ぼくは「すごすぎる」から、珍盤・奇盤の世界を思い出す。

昨年(2018年)の1月1日には、ぐらもくらぶというレーベルから『へたジャズ!昭和戦前インチキバンド1929-1940』というCDが出て、たまに聴くのですけど、昭和初期の日本にも、いわゆる"インディー・レーベル"がたくさんあったのだ。

このCDのブックレットの導入で、毛利眞人さんが書いている。

下手の諸相は千差万別だ。全員が音程を外して聴くに堪えないもの、歌はうまいのに録音技術が低いために魅力を伝えきれてない不幸なテイク、出トチリをそのまま残酷にも発売されてしまった歌手、明らかに熱意のないザラザラしたルーチンワーク(これは一流バンドにもあるが)、一人一人のプレーヤーは下手だがアンサンブルな異様なグルーヴをはらんでいるテイク、なんだかわからないけど「ん?」と胸騒ぎをおぼえる演奏。理由は様々だが、愛すべき下手である。

何というか、情熱がありすぎたり、なさすぎたり、かみ合ってなさすぎたりするのである。

本当に「すごすぎる」ものって、そう一筋縄ではいかないよ? とぼくは声を大にして言いたい。

(つづく)

「道草の家・ことのは山房」のトップ・ページに置いてある"日めくりカレンダー"、1日めくって、5月9日。今日は、肉まんを蒸す斜塔の話。

※"日めくりカレンダー"は、毎日だいたい朝に更新しています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?