見出し画像

耳の文化の上で

8月末、ある人の講座に呼ばれて、自作をひとつ朗読してほしい、ということになった。

昨年の夏にやった朗読&ひとり語りイベント「なりゆきの作法」の時に来場者にプレゼントするためにつくった冊子から、「吃音をうけとめる」を選んで、いい感じにどもりながら読んだのだが、びっくりするくらい好評だった。

ぼくは幼少の頃からの吃音者で、学校の授業で教科書を(順番に)読まされるのが苦痛で、苦痛で、仕方がなかった。そのせいで高校時代は理系クラスを選んだくらいである(本を音読するような授業が少ないと思ったから)。

自分が大人になって、人前で話をするような仕事をするとは想像もできず(やりたくないはずだから)、昔の自分に話したら嫌な顔をされそうだ。

ぼくの"読書体験"の原点は、母親が毎晩、少しずつ読み聞かせてくれた「兎の眼」だった。

「兎の眼」は、灰谷健二郎さんの書いた小説、物語だ。

その話は、これまでにも何度か、したことがある。

その時ぼくは小学5年生だったが、下に妹が2人いたから、その年齢で母親の読み聞かせを味わえたのは幸いだった。

ある夜、「兎の眼」は最終回を迎えた。ぼくたち兄妹は毎晩、楽しみにそれを聞いたはずである。

ぼくはその後、母親の読み聞かせてくれた「兎の眼」を、今度は自分の目で読んだ。何度かくり返し読んだ。それが後年の執筆活動を支える土台になったのではないか? と思う。

しばらくは、何を読んでも、ぼくの耳には母の声が聞こえていて、母の声で読んでいた。

ことばには、音が響いていた。

小学生の頃に受け取った母の声は、いまでは、その後に受け取ったたくさんの声に紛れて、一体となっている感じだが、しかしそれはぼくが死ぬまで残るだろう。

ぼくの受け取ったことばのベースにあるのは、耳の文化だった。…と、いまとなっては思うのだ。

(つづく)

日常を旅する謎の雑誌『アフリカ』最新号は、継続してジワ、ジワと販売中。ご連絡いただければ郵送で直接、びよーんとお届けすることもできますので、遠慮なくどうぞ。「どんな雑誌なの?」ということにかんしては…

をご覧ください。

「道草の家・ことのは山房」のトップ・ページに置いてある"日めくりカレンダー"は、1日めくって、9月20日。今日は、「放牧」の話。

※"日めくりカレンダー"は、毎日だいたい朝(日本時間の)に更新しています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?