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体験の中に、踏みとどまれ

今日は少し涼しくなるかな… と思っていたが、期待は失望の母となり、気温は少し下がったのかもしれないが、逆に湿度の不快感は高まった感じすらしていて、二件、仕事で出かけて(それ自体は順調に進み、いい日だったが)体力的には酷く消耗した日だった。

2001年の9月11日は、梅田のガーデンシネマ(だったかな?)のレイトショーでテルミンの映画を観て、そのラストシーンはたしかマンハッタンだったのだが、当時住んでいた大阪の下宿に戻ってテレビをつけるとニューヨークの高層ビルがパッと写って煙を上げていて、そこに飛行機が突っ込んでいくを目撃した。

テレビを捨てたのは、それから10年以上後の、2012年2月、結婚して府中から横浜に移って来た時だった。

妻は、その前から持っていなかった。

テレビをもたない暮らしを始めてみると、何に気づいたか、というと、とくに何ということもない。テレビというのは、落語の寄席みたいなもので、寄席に住むのを止めて、寄席にはたまに出かけるようにしたという程度のことだ。テレビとは、その程度のことなんだとぼくは思う。

2001年9月には、ぼくはまだパソコンも持っていなくて(原稿はノートとワープロで書いていた)、インターネットも使っていなかった。使い始めたのは、2002年くらいからだ。まずは職場で使うようになり、やがて自分でもパソコンを持つようになりインターネット環境を欲するようになった。

その時(2001年9月)には、じつはぼくは携帯電話も持っていなかった。

友人たちは全員、持っていた。ぼくは最後の最後まで抵抗(?)して、持たなかったが、携帯電話を持っていたら書けなかったことを当時、いくつか書けた。

みんなが携帯電話を持つことで、"待つ"ということばの意味、"待っている"という状態の意味が大きく変わり、ぼくはそのせいで(かどうかはわからないが)しばらく書けない状態に陥った。それは何年も続いた。

ぼくはスマートフォンを持つのも、かなり遅かった。"持たない"を諦めて、持つことにした理由は、ポケットからさっと出せて赤ん坊が生まれてくる瞬間を撮れそうなのはスマホじゃないか? と考えたことがきっかけだった。

その考えは当たって、出産の時、カメラを持ち込む余裕はなかったがスマホはポケットの中にあり、生まれてくる少し前の瞬間にぼくはそれを出し、とっさに構え、我が子が生まれてきて顔を出した瞬間を数枚、撮影した。

そんなことしないで、我が子との対面を直に楽しめば? という意見は自分の中にもないことはない。けれど、ぼくは撮って良かったと思う。

あくまでも「自分は」という話で、他人に勧める気はさらさらない。ぼくは、ある意味での"アーティスト"で、"残す"とか、"伝える"といったことにもたいへん興味があり、貧しくて生活は苦しいが、自分が子に伝えられるもの、残すことができることは何だろうと常日頃思っている。

場合によっては明日にでも死ぬかもしれない(その可能性はゼロではない)。それでもぼくは自分が大いに生きたと思う。そういったふうな感触を、我が子にも手渡してゆきたい。

我が子が生まれて来た瞬間に撮った写真の数枚は、どんな歴史的な瞬間よりもぼくには大きいわけで、それを自分の手で撮る(取る、獲る、etc.)ということがいかに大切なことか… ぼくは身にしみて知っているつもりだ。

そこには何があるか?

単なる視覚情報だけではないはずである。そこには、それを撮影したぼくという人の体験がある。出来事があるわけだ。

ぼくはこの話を、きれいにまとめて、仕上げる気持ちにならない。書き出して、ここまでつらつらと展開してきて、このまま、うっちゃっておこう。

(つづく)

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「道草の家・ことのは山房」のトップ・ページに置いてある"日めくりカレンダー"は、1日めくって、9月11日。今日は、台風とミニカー、の話。

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