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他人にとってはどうでもいいかもしれないが、自分には心から大切なこと

今日の"日めくりカレンダー"には、妻がぼくの(誕生日の)ことを書いてくれた(リンク先、毎日更新されるので、2/1になると消えてしまいますが…)

今日の夕方で生まれてから40年がたつ。その頃のことはさすがにおぼえてないけれど、妻が書いている通り、ぼくは夕方に生まれてきたらしい。外に雪が降るなか生まれたのか生まれてから降ったのかは知らない、翌朝、一面の雪だった、という話を聞いている。

ぼくは父母にとって最初の子なので、父と母は、親になって今日で40年がたつ、ということになりますね。おめでとう!(ありがとう)

最近、35歳くらいの人から、30歳になった頃と今を比べてどうか、といったことを聞かれたが、ぼくのこたえは

「その質問は、ずっと同じ環境で同じような仕事をして同じような暮らしをしている人に聞くと面白いかもしれないが、ぼくのような激動の人生を歩んできた(?)人に聞いても…」

だった。けれど、自分の"なかみ"がどうか? と思うと、あんまり変わってない、変わりばえがしない、などと言ってみたいような気もする。

30歳の頃に付き合いのあった10歳上の人たちのことを、少し思い出してみる。みんな若かった。自分がいま(当時の)彼らの年齢になったのだと思うと不思議な感じ。何だか、まだ呑気な時代だったという感想を持つのも、社会が下り坂を一気に駆け下りているところだとすれば、仕方のないことかもしれない。

20歳になった頃にも、30歳になった頃にも、個人的にいくつか思い出深い出来事があり、懐かしい。30歳になる直前の出来事は、ちょっと脚色を加えて「化石談義」という60枚ていどの短篇小説になって『アフリカ』に載っている。つまりフィクションにしてしまったわけだが、部分的なことは全て自分の体験で、自分の言われた大事なことをそこに"保存"しておいた。

ぼくの場合、振り返ってみて結局、大事だったことというのは、全て特殊解、というより"個別解"であって、誰にでも通じる大事なことではなかったような気がしている。

しかし本当は誰だって「他人にとって大事なことが自分にとって大事なこと」ではないだろう。「他人にとってはどうでもいいかもしれないが、自分には心から大事なこと」を大切にすることが自分という人を支える。

30歳になった1ヶ月後にぼくは"最後の再就職"をして、その入社初日の朝礼でその会社の社長が喋るのを聞いた瞬間に、直感で「あ、ここはダメだ!」と思った。さすがに1日で(というか数時間で)退職するわけにもゆかず、いちおう頑張って勤めてはみたが、夏頃になって急にぼくの中の吃音サンが悲鳴を上げて声が出ないようにまでなって(あれほど喋れなくなる経験はなかった、からだが拒否反応を示していた)、それから人生が急展開を始めた。

そんな話も、ぼくの個人的な思い出だ。あれから10年もたったのか、と思うと、感慨深い。ぼくには、あの素晴らしかった過去の時間に戻りたい、と思った経験がないが、懐かしさは感じる。過去の時間は全て美しく思えるような気もするが、その時に美しいと思ったことはない、それよりも、よく乗り越えてきたね、と自分を励ますようなことを思わず考えてしまう。

同じ日が誕生日という人は世の中にはたくさんいるはずなのだが、身近にそういう人が見つからないというのも不思議といえば不思議だな。自分の誕生日というのも、「他人にとってはなんでもない日かもしれないが、自分には大切な日」ですね。いつか誰かの"誕生日ばなし"を書いてみたいという思いもずっと持ち続けています。

(つづく)

「道草の家・ことのは山房の日めくりカレンダー」は、1日めくって、今日は1月31日、「道草の家・ことのは山房」のトップ・ページに毎日置いてあります。見てね。

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