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推敲を支えるもの

オトナのための文章教室」、再スタートの1回目(昨日)は3人参加で、じっくりやってきました。進め方、時間などを再考しつつ、またボチボチやってゆこうと思っています。

三鷹(周辺)でやってほしいという要望があるので、三鷹バージョンもたまにやろうと思いますが、何しろいまぼくは横浜に住んでいて、仕事は大田区を中心にやっているので、活動拠点はもう少し近場にもってきたいというふうにも考えていて、試行錯誤しながらやってゆこう。

さて、この話は、昨日考えたことだけれど、昨日は全く話さなかった、"推敲"の話(「文章教室」では、書きたてホヤホヤの文章を読み合う場合が多いから、推敲はその先の話になる)。

"書く"といっても、いろんな"書く"がある。ここで言う"書く"は、他人が"読む"ことを(多かれ少なかれ)意識したような「原稿を書く」場合の話だけれど…

内容にもよるし長さにもよるだろうが、たとえば、こんなふうに書く。

着想があり、書き始める。あるいは、書き始める前に構想を練って、ある程度頭の中で出来たところで、書き始める。

書いてゆくと、当初思い描いていなかったものも出てくるし、どこが書き出しになり、終わりになるかは、変わることもある。

でもある程度までの長さなら、書き始める前にある程度、見えてから、書き始める方がじつはいいかもしれない。ただし、ぼくの場合は、書き出す前に、メモはたくさんもっていることが多い。メモは「断片」になったりもする。

問題はその後で、"推敲"を、ぼくは大切にしている。

書いたものには繰り返し繰り返し手を入れるし、場合によっては"推敲"のためにイチから書き直すこともある。

"推敲"には終わりがない、とぼくは思う。

終わらせてるじゃないか? それはつまり、〆切が来たからとりあえず終わりにしているわけで、やろうと思えば永遠にできる。

完成度は、"推敲"によって、高まるものではないか? 推敲があまい(よわい)場合、完成度は低いままだ。

しかし、"推敲"をどうやってしているか、説明するのが、ぼくにはとても難しい。秘密にしたいわけではないが、でも、自分なりの方法でやっている。書き始めた頃から自然とやっていたことなので、これまでは説明する必要もなかった。

ところで、昨年は毎週やっていた「文章教室」で、「文章が上手になるにはどうすればいいか?」という質問(?)がたまにあった。

この話を先日、出版業界で働く友人にしたら、「たくさん書くこと、たくさん読むこと、しかないんじゃないか」と言っていた。

そりゃそうだ、とぼくは思うのだけれど、「上手」というのはどんなふうなことを言っているかと考えた時に、もしかしたら… "推敲"ということを考えたこともない人は、どうしたらあんなふうな文章が仕上がるんだろうと他人の書いたものを読んで感じるのかもしれない。と、想像するところまで、いまさらながら来た。

しかし、推敲って、書き方以上に教えられないんじゃないか、という気持ちがぼくを覆っている。推敲に比べたら、どうやって書くかなんて伝えやすいじゃないか、という気までしてきた。

『アフリカ』に書く人も大半は、推敲は自然とやっているし、書く仕事を一切していなかったような人でも、ギリギリまで手を入れたいと言ってくる人がいる。

さて、昨日ふと思った。

推敲は、その人の中に蓄積された読書量がモノを言うんじゃないか。支えると言えばイメージしやすいかもしれない。その人の中に蓄積された読書量が、その人の推敲を支えている。あたりまえじゃないか、と言われるかもしれない。──そんなふうに、頭では、まぁそうだろうと考えられるようなことでも、心から感じられるまでは(ぼくの場合)時間がかかる。

(つづく)

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「道草の家・ことのは山房」のトップ・ページに置いてある"日めくりカレンダー"は、1日めくって、8月13日。今日は、「ピーちゃんの誕生日」の話。

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