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"親"になった日

3月12日、今日は息子の誕生日で、生まれてきてから、もう5年がった。たったの5年という気もする。もうずっと彼と暮らしているように思える。彼が来る前の生活をうまく思い描くことができなくなっている。こどもというのは不思議なものですね。

5年前の、あの日の前後のことは、一生忘れない。

我が子が出てきた瞬間を、ぼくは写真に撮った。それまでの一日、一晩は妻を励まし、我が子が無事に生まれてきてくれるようにということだけを考えて、祈りながら行動した。しかし生まれた瞬間には、表現者としての自分が目を覚ましていた。だから、彼の写真は、生まれた数秒後からある。もちろん何枚も何枚もは撮れない。自分の目と耳と手と指が反射的に動いて、その最初の時間の幾つかの瞬間を光で切り抜いた。

我が子が生まれてくるまでの過程で、ぼくが思い知ったことは、あぁ、人って、生き物なんだ、ということだった。

つくづく、思い知った。

あたりまえだと言われるかもしれない。けれど、いまこの社会の人びとは、自分たちを生きている物だとはあまり認識していないような気がする。もっと観念的なものだと思っているのではないか。

子が生まれることが、生き物としての出来事であるならば、貨幣による経済がどうのこうので産むのをためらうとかあきらめるとか、そういうことはないはずだ。それより、大事にしなければならない"現実"があるからね。そうではなく、この人間社会のつくりだしたいわば"フィクション"(お金、仕事、etc.)の方を優先しなければならなくなったのには理由があるはずだが、それにしてもよく考えると(生き物としては)滑稽だ。

生きているということは、その裏には、死がある。生命の歴史を思うと、ひとつの生なんか短いものではないかとは頭ではわかってはいたが… 我が子の誕生を境に、ぼくは自分もいつか死ぬのだということが初めて実感としてわかったような気がする。

生まれてきて、生き続けている、ということは、けっして当たり前のことではないのだ。

限られた時間の、ことなのだ。

両親への感謝、祖父母や、たくさんの先祖への想い、その"私たち"にかかわった(そしてかかわっている)全ての人たちへの感謝の気持ちがわきあがる。

"親になる"とは、こういうことか、と思う。3月12日は、息子の誕生日であると同時に、私たち夫婦が"親"になった大切な記念日になった。

(つづく)

「道草の家・ことのは山房」のトップ・ページに置いてある"日めくりカレンダー"、1日めくって、3月 12日。今日は"出口"の話。※毎日だいたい朝に更新しています。

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