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9月11日、あの日にNYにいた私には忘れられない日

あの朝は、子どもたちをそれぞれ小学校と、デイケアに送った後、地下鉄に乗ってミッドタウンにあるサロンに向かっていました。


地下鉄のなかで、「飛行機がWTCに追突したのでダウンタウンの地下鉄は止まります」との車内放送に、隣の乗客と肩をすくめる。


何かがいつも起こる、マンハッタンの日常


以前にもヘリコプターの接触があったので、今回もその程度の事故かな?ぐらいに思い読みかけの本に目を戻します。


55stの駅で降りると、靴磨き屋の店先のテレビが黒煙をあげるタワーを映していました。


「これはいったい、何が起こっているのだろう?」


道路に出ると、朝のコーヒーとパンを売る屋台のラジオに人々が集まって耳を傾け情報を聞きもらすまいと、誰もが無言でしばらくその場にとどまっては、足早に去っていく。


フィフスアベニューから見下ろすと、ダウンタウンから、もうもうと立ち上る煙。車も少なくて、みんな道路に立ちすくみその煙を見つめていました。
まるで、映画のワンシーンのように、いつものマンハッタンの朝の光景、車のクラクションや足早に歩く沢山の人が、そこにはなく、景色が止まったように見えました。


当時働いていた、ヘアサロンに着くと、2機目が飛び込んだ情報が。


その時点で、私が思ったことは


「もしかしたら、戦争がはじまったのかもしれない、とにかく、子供たちの所に行かなくては」


子供のころから、繰り返し見せられた空襲の映像が、日本人には脳裏に焼き付いるからか、初期の段階では、まだ何も分かっておらず、このあとも何機もの飛行機がマンハッタンを攻撃するかもしれない、という恐怖を感じました。


サロンの予約は当然キャンセルし、すぐに表に出ると、もう、バスも地下鉄も止まっていました。


私が住んでいるクイーンズはミッドタウンの橋を渡らなければなりません。何百人という人が歩く、橋の行列に私も加わりました。


携帯電話もつながらなくなり、ダディにも、子どもの学校にも連絡が取れない中、黙々と行列の中を歩く。


もし、家まで歩かなくてはならないとしたら、4,5時間はかかるのに、それまでに何かあったら…


空襲の中をを逃げまどった祖母の話が思い出されて気持ちは焦るのに今朝に限って履いてきたヒールの靴が痛くてなんだか、足がもつれてうまく歩けない。


それは、とても天気の良い、秋の朝でした。


日本では9.11のことを「キューイチイチ」と呼ぶ人がいますがアメリカでは「ナインワンワン」とは言いません。「911」は日本で言うところの「119」の番号。


警察も消防車も救急車も非常事態で必要になれば、この番号を回します。


あの日マンハッタン中の救急車と消防車が街を駆け抜けていましたが、そんな皮肉なナンバーの符号まで考えてテロリストは、あの朝を狙ったのでしょうか。


「セプテンバーイレブン」という響きは、今も私には悲しみと、怒りと、疑心とそして人々の優しさ、強さすべての感情がまじりあった色を持って耳に残ります。


あの日、クイーンズに架かる橋を渡り終えると、もう、非常用のバスが手配されており、そこから各方面に長距離バスが運行を始めていました。


2機目の追突からすぐに、帰路に向かった私は一番最初の便に乗ることができたのです。


そこでは、人々は実に冷静で、押しあったり、先を争ったいすることもなく、妊婦や子供がいれば誰かが声をかけ、先に譲りあい、映画で見るようなパニックにはなりませんでした。


バスの中で、数人だけが携帯電話がつながってペンタゴンにも攻撃されたこと、


ツインタワーが、崩壊したことをまわりの乗客に伝えますが、私達は、その意味が飲み込めず、顔を見合わせるばかりでした。


ミッドタウンから地下鉄で20分の郊外の自宅の周りは、あの、マンハッタンの煙や、人々の不安な顔が嘘のように、静かないつもの街の日常が広がっていました。


不思議なことは、あれだけの大参事が起きたのに、数キロ先のミッドタウン、アップタウンや郊外の私たちの生活は、昨日までと何にも変わらないまま次の日から続いて行きました。

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街には星条旗が溢れ、悲しみの色に染まりながらも、テロに屈さずに日々の生活を送ろうと必死な様に見えました。


誰かに怒りをぶつけたい人々は中東の人、イスラム教の人、過去にアメリカを同じように攻撃したただ一つの国、日本人、


イラクとの戦争が始まればただ一国反対したフランス人、次から次へと、怒りの矛先を探しては罵倒し、攻撃し、罪のない隣人までも傷つけようとしていました。


テロへの怒りは間違いなく誰にもあるけれど、怒りのエネルギーと悲しみのエネルギーで満ちたマンハッタンの空気は重く重く、人々の心にのしかかっていました。


けれども、NYの人たちは、慰めあい、助け合い、一日も早く、自分たちの日常を取り戻そうと、声を掛け合い、力強く立ちあがろうとしていました。
私がNYの好きなところは、けして、諦めず、投げださず、ちょっと軽いジョークで笑ったりしながら、また前を向こうとするその強さです。

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あの朝以来、NYは何度か、大きな事故で都市機能がマヒすることがありました。


マンハッタン全域の停電。大雪の交通まひ、地下鉄のストによる、大混乱の交通事情、暑い夏に冷房も電気もなく、地下鉄に閉じ込められたり、


零下の朝に大雪の中仕事に向かおうと必死にバスに並んだり
たとえストでも仕事に行く為に2時間前から歩いたり、
電車の切符を求めてに並んでいる私たち。


いつもそこでは、見知らぬ者同士、声を掛け合い、ジョークで笑い、首をすくめながら、「しかたないもんね」と淡々とやり過ごす人達を見てきました。


その力強さに私は何度も助けられてきました。


今では、9.11の響きは、あの惨劇の最中から、むくむくと立ちあがった街の人々のエネルギーを思い出させてくれて、時に自分が苦しい時にも、あのエネルギーを思い出して勇気づけられています。


そして、18年住みなれたNYを出てアメリカ生まれの子供たち3人を連れて、8個のスーツケースを抱え、日本での新しい生活を始める為に私達は、9.11に飛行機に乗りました。


「なんでわざわざ、その日に、」と、ずいぶん言われました。


「絶対に飛行機が落ちない日だから」とウインクしながら、私達が日本に降り立ったその日から、9.11は家族にとって、日本での生活第一歩の記念日になりました。


ニューヨーカーの力強さを忘れない日


日本での生活をまた一から築き始めた日


9.11は今では私の大切なアニバーサリーなのです。


そして今、コロナ禍でNYも日本も苦しい状況が続いています。


あの街の人々、そして私達も、むくむくと、淡々と、また蘇って行きましょう。

明日への希望を持って、しっかりと毎日を淡々と。






他の場所でもお会いしましょう!

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