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北九州市

北九州市で生まれて14歳までいました。自然はそれ程豊かでなく工業地帯から出る粉塵の中で育ちましたが、それでも私にとっては懐かしい故郷です。

先日、中学の時の同窓会があり久しぶりに関門海峡を渡って故郷へ足を踏み入れました。5年前の同窓会以来です。この学校(福岡教育大学附属小倉中学校21期)は幹事がしっかりしているので割と頻繫に同窓会を開いてくれます。途中で転校した私のような者にも声をかけてくれます。ありがたいことです。

ついでに、昔住んでいた辺りに行ってみる事にしました。
↓事前にリサーチしたガイドブック、これは使えますよ。

地球の歩き方 北九州市 2024年発行

このガイドブックによると
1958年  本州と九州を結ぶ関門トンネル開通
1962年  若松市と戸畑市を結ぶ若戸大橋が開通
1963年  門司、小倉、八幡、若松、戸畑の5市が合併し北九州市が誕生する。
とある。幼い頃の出来事で全部覚えています。

1897年、当時の八幡村に官営製鉄所ができてから、朝鮮特需を経て北九州は高度経済成長で活気に溢れていました。私が住んでいた戸畑区は製鉄のお膝元で親が溶鉱炉で働いているような労働者の子供から、転勤族の技術者であるホワイトカラーの子供たちまで公立小学校は一学年50人で6クラスありました。この辺の事は下記の本に生き生きと書かれています。

村田 喜代子「八幡炎炎記」2015年 平凡社

八幡製鉄の他にも、工業地帯には日本セメント、住友金属、安川電機、日本精糖、東洋陶器(現在のTOTO)などの大企業が稼働していました。
私の父は、そのどれにも属さない歴史学者で戸畑にあった九州工業大学(九工大)の教員でした。私たち家族は九工大の敷地内にある官舎に住んでいました。今回、行ってみたのですが幼かった頃広く見えた敷地がそれ程でもなかったというか、でも大人の目線で見ても他に比べれば今でも充分広い校内です。
この貴重な自然の中で幼い頃はそれこそ誰かの歌みたいにトンボを獲ったり、ママごとをしたり、昔ごっこという空想遊びをしたり…とにかく毎日遊び歩いていました。

九州工業大学正門守衛所

よく前を通った守衛さんのいる建物が健在でした。経産省が認定する近代化産業遺産に登録されているそうです。東京駅を設計した辰野金吾の建築だそうでこれが分かっただけでも↑のガイドブックを買った甲斐がありました。↓は私がいた頃にできた講堂で、これも著名な建築家によるものと思われます。確か前川國男…これも当時は馬鹿デカく見えましたが、大人目線だとそうでもありませんね。

九工大記念講堂


九工大西門守衛所

そして、小学校への通学路だった西門前には製鉄の平屋の社宅がずらりと並んでいて壮観でした。その社宅にも等級があって長の付く社員の家(上級社員社宅)はひと回り大きくて立派でした。今はもうありませんが。

村田 喜代子「火環(八幡炎炎記 完結編)」2018年 平凡社

この2卷本には、製鉄起業祭の話が出てきます。これは八幡製鉄が毎年3日間に渡り地元民の為に開いていた工場見学のことで溶鉱炉の中も見せて貰えるし、サーカスや花電車なども来たそうです。私は残念ながら行った事がないのですが、製鉄の恩恵に預かっていた戸畑は正に八幡製鉄の企業城下町でした。

話は変わりますが、平安時代末には源平合戦で平家軍が安徳天皇と共に滅んだ壇ノ浦や、江戸時代には宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘した巌流島があったり、幕末には幕府軍だった小倉藩が今の山口県である長州藩と戦って長州軍の放つ大砲に打ち負かされたりしたこの地域は日本の歴史上も注目される土地でした。東京の大学を出た父が縁もゆかりもない、この地を就職先に選んだ理由も分かります。そして、私にとってはたとえ粉塵にまみれようとも離れがたい故郷だったのです。56年前、門司駅から寝台特急に乗って関東地方に向かった時の悲しかった事が想い出されます。   終わり



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