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「わからない」から、全てがはじまった。



1.前書きとして

プロフィール等にも記したように、私が書くことを本格的に学んだのは三十路にさしかったころでした。いわば #私の学び直し です。
端は、友人が文芸、短歌同人誌を発行することになり、その立ち上げ時に私を誘ったことにはじまります。
当時、私は文学は読む一方、文芸(特に短歌)に関しては「え?短歌って……百人一首なら知っているけど。高校時代の古典でしか読んだことがないんだけど……」と言ってしまうほど無知でした。その無知は今も変わりませんが。

同人誌の同人たち、筆友となっていく人たちは、皆既に歌壇(あるいは詩の世界、絵画)で一定の活動を収めた人たちでした。私だけが「ずぶの素人」。えらいところに来てしまった、本当に続けていいのか?そう何度も自問自答したことを、同人誌が終刊して20年以上経った今でも鮮明に覚えています。

2.暗中模索の同人活動

件の同人誌は手作業で版下を作り、それをコピー、表紙の紙も色画用紙にコピー印刷。一冊の冊子の形に紙を折り、ホチキス止め。完全な手作業でした。同人代表(代表は詩歌人である友人と、その筆友である若きライターで歌人、語ったのは後者です)曰く「“女工哀史*だねー♬」←語尾に音符が付くような語り口でした、実際に(笑)*『女工哀史』についてはこちらをご参照くださいませ。ブラックジョークとはいえ、Aちゃんも不謹慎なことを言っていたものです、あの頃は(苦笑)

手間が掛かる方法をしていた理由、その目的は発刊に掛かる費用の節約でした。人手は幾らあってもよい、正に「猫の手も借りたい」状況で、素人の私でも役に立つ環境だったのです。


編集を担当し何とか同人らしく活動できるようになって、同人誌発行から1年が過ぎていました。無論、本筋は「歌を詠む」こと、あとは短歌関係の文章を綴ること、この二点です。
所属しているのは同人誌、オブザーバーとして代表の恩師がおられましたが、あくまで助言者として背後に控えておられる状態(あえてそうしていらしたと思っています。私たちの自発性を促すために)でした。

「短歌って何だろう?何が短歌なの?五七五七七になっていたら、それで良いの?」
優れた歌詠みである同人仲間にそう質問しても「え……?」という反応しか返ってきません。それは冷たいのでも突き放しているのでもなく、答えなどないからです。言葉を重ねるならば100人の歌詠み・歌人がいるならば100通りの歌・短歌がある私の短歌は私にしか定義できず、他の人が言及すればその探す術を邪魔することに繋がるからです。
答えがない、そのことについて別の例えをしてみます。「あなたはどうやって日本語を話しているのですか?学び方を教えてください」と海外の人から質問されたとしたら、私は答えることができません。私にとり日本語で話すことは「当たり前」のことで「意識的」にすることではないからです。日本語教師でない限り、その質問には答えられないでしょう。

いずれにせよ、解ったことはただひとつ。私には短歌が解らない、という事です。分からない。分からないならば、どうすればいいのか。
当たり前で難しいこの問題に向きあい、私は拙い方法を見つけました。
皆がどう詠っているか、そこに学べばよい」と。そして、歌とは呼べぬほど稚拙な三十一文字を紡いでいきました。一文字一文字を、一音一音を確かめ刻むように。

名を残す多くの偉人が載る辞書に 我が名も一文字刻まれている         
同人誌「弓弦」発表作から改稿

…….当時風に、今改めて詠ってみました。固いですねぇ(苦笑)

こんな歌を歌ったこともあります。
薄皮にしか届かない優しさが剥ぐいちまいの皮膚のあわれさ
 
同人誌「凛」*発表作より

*「凛」は代表さんが「弓弦」から引いた後、他のメンバーで冊子の名前を変えて発行した同人誌の名前。実質「弓弦」の最終刊でした。2000.08発行。*


3.同人誌が終刊した後で

三十一文字は歌詠みの声から発し、届いた人たちの心の中で再生されます。親しみやすい短歌をここで引くならば、俵万智さんの「サラダ記念日」でしょうか。

あの有名な歌を知り、「自分のサラダ記念日」を心に思う人が多くおられることでしょう。
私の拙い三十一文字は、あなたの中でどんな響きを立てるでしょうか。それは、読んでくださった方が決めること。創作物は鑑賞者が「完成」させるものでもあるのです。

短歌中心の文芸同人誌が終刊してから、23年が経ちました。私は今、あの時学んだ「ことば」を拙く生かしつつ、この記事を書いています。私が生きている限り、私の言葉は変わっていきます。言葉は生き物だから。
変わっていく。変わっていかなくてはいけない。そして、変わりながら「忘れてはいけない」ことがある。
それは、言葉の重み、他者にあたえる影響を常に忘れない。文章表現やそのほか全ての創作物・創作者に敬意を払う、ということです。(難しく大変なことだと)構えるのではなく、表現を楽しみつつ、それの源である言の葉を大切に紡いでいく、そうありたいと思い、そうあろうとしています。この記事を綴っている、この瞬間も。
それが、私が文芸同人誌から学んだ #私の学び直し です。学校を卒業し社会人となり。日々の業務に追われ「報告書」「連絡文」という「フォーマット」、血の通わない判子のような言葉たちしか知らなかった私の。

私が所属していた、私たちの会である「弓の会」が、同人誌『弓弦』創刊によせて記した言葉(ほぼ全ての号の裏表紙にも記載していました)を引用し、当時の思いを振り返ってみようと思います。

          矢  言
ひきしぼる矢  「弓弦」創刊によせて

 八月十五日、終戦記念日。
 戦争に「遅れてきた青年」よりも遅れ、次世代からは早すぎたわれわれがこの日にいかなる布告をしても、それは炎天下にただ解けて流れてしまうかもしれない。だが敢えて、「弓弦」は今放つべき弓矢を取る。
 現実はあたかも標的定め難く揺れる流鏑馬(やぶさめ)の馬上。限りない流れ矢が耳元を掠めている。そのうちの一矢ともなる可能性にむしろ適当に脅えつつ矢をつがえたい。
 世紀末に在って騎射を余儀なくされているわれわれに掲げられた、短歌という「的」の高さ、揺れ、その困難と危険の確かさが見せるものは、射貫かれんと欲する「的」の、もはや単なる受け身ではない意志の眼だ。
 その中心から決して眼を逸らさぬこと、"時代の気分"的「揺れ」に振り落とされることなき騎者として、来たる次世紀にむけ矢継ぎ早に射出する力をもつことを、この終戦の日にわれわれは誓うものとする。
              1994.08.15
              弓 の 会

短歌同人誌『弓弦』創刊によせて より

この文言を刻んだのは、先に「女工哀史だね~♬」とライトなブラックジョークを飛ばしていたAさんです。彼女は次世紀が今の世紀となった2023もその志を失わず、たおやかに微笑みながら歌人として、また文筆家として歩いています(今も歩くのが速いよね、Aちゃん(笑)一度Tちゃんと3人でゆっくり散歩でもできたらいいなぁ)。
もう1人の代表、同人誌創刊以前より交友を持つTさん。彼女はあの頃も今も「言葉に選ばれた人」と呼ぶに相応しい優れた感性の表現者・詩歌人です。変わらぬ(ぶれない)凄さを、一見繊細な硝子細工のように見え、その実はたおやかな強さを持つ姿で私に教え続けてくれています(一度ゆっくり、できたら3人でお茶できたらいいね、Tちゃん)。

短歌を難しいもの、自分からは縁遠いものだとは思わないでほしい。けれど、ここで1首 などという揶揄いもまた、しないで欲しい。
歌人、表現者の覚悟とも呼ぶべき言葉をそっとお伝えしたく、長い引用を致しました。冗漫な章となりましたことをお詫び申し上げます。

5.最後に

今、短歌に関しては、私は鑑賞者の立場です。無名のまま歌壇とは無縁に歌詠みを「卒業」した私は、こうしてネットの片隅で横書きの文章をキーボードで紡ぎながら、忘れたことはありません。
 日本語の、「やまとことば」の美しさを。
「あなたの言葉は“綺麗”だね」。過分にも、そうお言葉を頂戴することがあります(自画自賛な文言、どうぞお許しを)。これからもそう言っていただけるように、千年の時を経て紡がれ受け継がれた「やまとことば」の響きを大切に、noteでも言葉を紡いでいきます。

幾万の言の葉綴れど言い尽くすことなどできぬ きみへの想い
言い尽くすことなどきっとできぬから ひとこと詠う ただ 好きだよ と
 
                              春永睦月 

とある日の早朝、空を見上げると下弦の月が名残の姿を遺していました。

                             

今もまだ、まだまだ短歌になっていませんが(苦笑)心がけているのは、同人誌時代のような「気負ったもっともらしい」三十一文字ではなく、親しみやすい言葉を用いることです。
そんな今の私の歌を、拙い言葉にお付き合いくださった「あなた」に捧げます。ご高覧ありがとうございました。

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