ないものねだり


 うつくしく長い弓なりに伏したまぶたの縁から、くろぐろとした睫毛が放射状にひろがっている。眼球の大きさをものがたる目の下の隈のような翳りに、さらに細い影が糸のように無数におちる。その細部のつくりにほれぼれしていると、まぶたをさらに縁取る黒色のアイラインは真ん中よりすこし目尻に寄ったあたりで歪んでなだらかな弧をわずかにはみ出している。さらにそこから上方に視線を動かすと形はいいけれど特に整えられてはおらず輪郭があいまいな眉毛があり、そこからはみ出した毛を追っていくとやがて産毛が額を覆う。傲慢だ、と思う。あるいは不遜。生まれながらに平均よりすぐれた造形をもつ者の、過信だ。
 彼女と出会ったのは四月、たった一ヶ月前のことだが、ひと目見た瞬間にもう、嫌いだ、とわかった。恵まれている人、だけど憧れはしない人。頭の作りは他人より劣っても、愛嬌と、人脈と、美貌で生き抜いてきた自信が初対面の笑顔に満ち溢れていた。六人いる内定者のうち、わたしも含めた五人はこの有名企業の事務職として働くにふさわしい有名私立大を卒業しているので、仲間意識のようなものがはじめ少しあり、榎本優果です、と鈴を転がすような声で自己紹介をした彼女の出身大学を聞いて、誰もが、どうしてここにいるのかと面食らった。でも、まあ、顔採用の嫁候補がひとりくらいいてもいいよね、と、たぶんそれぞれに納得した。新人研修のあいだ、お昼休みもずっと六人で過ごした。午前の研修が終わると、ごく自然に、カフェテリアに行こうという流れになり、今日は何か買って食べる、と逃げようとすると席取っておくね、とにこやかに返される。大学時代誰かとつるまなくてもいい幸福を味わいすぎたわたしは、すでに辟易としていた。ひとりくらいは仲良くなれる子がいるかもしれない、と内定者時代は思っていたけれど、この、同調圧力のようなものに耐えられる無神経が、信じられなかった。多分、ここで友達を作ることは無理なのだと悟った。だけど会社という未知の世界で一匹狼でやっていけるのかもわからず、仲良くしなくてもいいからせめてはぐれては見えないようにしようと決めた。
 おいしくもまずくもない五百円のランチを食べながら、研修の講師の感想を各々言ったあとは、出身地の話、高校の部活の話、大学のサークルの話、などを延々して、間が持たなくなると、なぜか優果の自慢話が始まった。自慢、というか、彼女の周りの、同級生や、先輩や、恋人が、どれだけすごいのかという話。誰かの発言の一部を拾って、あ、そういえばわたしの……と始まる一連の流れに同期たちは、うんざり半分、好奇心半分で大袈裟な相槌をうち、お世辞を言った。なんでも、宮城出身の彼女は、実家が地元の名士で、県内トップの女子校に入り、友達に医者や弁護士の卵がたくさんいる。一浪してやっと受かった東京のマンモス大学では陸上部のマネージャーをしていて、そこで出会って今はメガバンクで働いていて車も持っている彼氏は強化選手に選ばれたこともあって、そのつてで彼女自身も日本代表の誰それや有名なトレーナーの誰それとも仲が良いのだそうだ。知り合って間もないので話題は途切れがちではあるから、場を盛り上げようとしているのだと好意的な見方をしてみようと頑張っても、正直言って品がないし、あなたが多方面で良い思いをしていることは、その可愛いお顔を見たらわかりますよ、と言いたくなってしまうのだった。だけどそう思うこと自体が負けで、愛想笑いをする以外わたしにはなにも術がないのだった。
 癪にさわることは他にもあって、たとえばトイレ休憩のとき優果は、口紅とハンカチだけ持って席を立つ。蓋のてっぺんのところに鏡うつしのCが重なったデザインの、みんなが知っているブランド。ハンカチはだいたい、百貨店で売っているようなきれいな色柄のものだ。真っ赤よりも少しくすんだワイン色を、大げさに口を開けて形のいい唇に塗り、そして、化粧直しが口紅一本だけで済むのを誇るかのように、ぱんぱんに膨らんだわたしのポーチを見て、瑶子ちゃん化粧品たくさん持ち歩いててえらいね、などと言うのだ。
 わたしの顔面はそれぞれのパーツの配置と造形に難がないことだけが取り柄で、不細工ではないが特に人目を引くこともなく、そこそこに化粧映えはするけれど見た目で得したことは一度もない。化粧を覚え、自分に似合うものが論理的にわかってきた今では「きれいにしている」という意味合いで褒めてもらえることもたまにはあるけれど、それこそ思春期の頃はバスケ部やダンス部の、派手で明るくて流行りに敏感な女の子たちがもてはやされ、勉強ばかりして昔の音楽が好きで制服のスカートを切る勇気がないわたしのティーンエイジはぱっとしないまま過ぎ去っていった。成績以外のほとんどのことが不安で仕方なかった。根暗なわたしに優しくしてくれた男の子も、ダンス部のキャプテンといつの間にか付き合っていた。もう名前も忘れたけれど、間違えて好きにならなくてよかったと思ったことだけは、覚えている。
もちろん、あの頃可愛かったはずのあの子達は大体いつまでも地元で駄弁っていてわたしにとってはもう輝いてはいないし、わたしはわたしで大学に入ったらびっくりするほど普通に彼氏もできて、普通に処女じゃなくなって、普通に痛い目を見たりして、女としての価値は人並み程度にはあるのだとわかったし、サークルやゼミなんかの狭く深いコミュニティでは趣味を共有できたりする、気の合う仲間もそれなりにできた。でもあの頃彼女たちが違う生き物のように見えたせいで、わたしは今でも自分のことを女子のできそこないのように感じることが、ままある。そういう気持ちを楽にしてくれるんじゃないかと思って、化粧品はかたっぱしから試してしまうし、服やアクセサリーは、どんな色や形が一番ましに見えるのかすごくすごく調べてしまう。優果のような人間が、いつもわたしを踏みにじるのだ。
会社の同期でめちゃくちゃいけすかない子がいて云々、といつものようにわたしが早口でまくし立てると諒ちゃんは、まあそういうやつはどこにでもいるよね、と素っ気ない返事をした。今はハンカチにアイロンをかけている最中で、邪魔してくれるな、といわんばかりに手元から目を離さない。いつもこうだ。わたしの愚痴や悪口をきいてはくれるけど、加勢はしてくれないところが、好きなようでちょっと嫌いだ。
ふたつ年上の諒ちゃんとわたしは、文芸サークルの先輩後輩として出会った。諒ちゃんは、小難しい本を読み、わたしは、いままで読んできた本の総まとめのような小説を書いて、新人賞に応募したりもしていた。引退して一年しか経っていないのに、遠い昔のことのようだ。
思い出すのも恥ずかしいようないくつかの短い恋愛を各自で終わらせたあと、腰を落ち着ける、というような感じでなんとなく付き合いはじめて、もう三年が経った。知り合って長かったし、お互いに初めての恋ではないし、特に劇的な展開はいまのところ訪れていないけれど、すこやかな男女交際とは本来そのくらいのものだよなと思う。結婚の話は、まだない。一緒に住み始めたのはこの春わたしがやっと社会人になってからで、たまたま互いの職場が近く、諒ちゃんが社員寮を出たかったから、というのがその大きな理由だった。諒ちゃんは繊維商社で働いていて、薄給ではないけれど都内で家族を養うことは難しそうな中小企業勤務らしい懐事情で、だけど諒ちゃんにとって仕事は趣味と実益を兼ねているようなものなので、現状に不満はないらしい。わたしはというと、もしこのままいくとすると、ほんの少し、将来に不安がないでもない。
 諒ちゃんは、服が好きだ。学生の頃は高円寺や原宿の古着屋に通い詰め、頭をあらゆる色に染めていた。瞳の色が薄いので、どんな色もそれなりに似合っていた。わたしは、銀髪に近いアッシュグレーが一番好きだった。もういくつかは塞がってしまったけれど、ピアスもいろんなところに開いていた。休みの日は、耳の軟骨のところに24金のちいさなピアスをしていて、わたしはそれを勝手にお守りのように思っている。働き出してからは、価格帯の高いセレクトショップに手を出し始め、息をするように服を買う。わたしが新作の化粧品を買うのと同じかそれ以上のペースで。沢山持っている上に一つ一つへのこだわりが強く、たとえばシャツのボタンは貝でできていないと嫌らしく、ワイシャツは全部それなりの値段がする。たしかに近くで眺めればオーロラのように光って美しくはあったけれど、遠目に見たらまずわからない。酔狂だ、と思わなくもないけれど、たとえばボタン一つきれいだと愛でるようなところが、彼のことをより好もしく見せてくれているのも事実なのだ。ただ、我が家の少ないクローゼットが一つまるまる、二週間に二度以上同じコーディネートをしないと決めている彼のワードローブで埋まっているのは悩みの種で、なんだかいらいらしてしまった夜にそれを責めたら、お前だっておんなじような服いくつも持ってるじゃないか、被ってるやつは処分しろよ、と返り討ちにあった。わたしがいつも似たような服を着ているのは、あなたが高くておしゃれな服を着てセンスが良いと思われたいのと同じく、自分に一番似合う色と形の服を着てきれいな人だと思われたいだけなのだ、とそんなようなことをぽろっと話したら、俺はただただファッションが好きなだけだし、おまえは他人の目を気にしすぎだ、と最初の話と全然ちがうことで説教されそうになって、それ以来彼の趣味については口出ししないことにした。ともあれ、恋人との共同生活は気楽で楽しい。
 彼氏と同棲している、という話題は、同期とのランチにおいて、わたしがイニシアチブを取ることができる数少ない話題だった。六人のうち、恋人がいるのはわたしと優果と恭子ちゃんの三人、いまちょうどいないのは菜穂ちゃんとモッチー、残りの一人の翼はもしかしたら処女なんじゃないかと疑っている。べつに非処女がえらいってことはないけれど、他人に体を許せない頑なさみたいなものはやっぱりある気がして、ちょっと、息がつまる。研修そのものよりわたしはこの意味のない時間が苦痛で、はやくばらばらになりたい、と毎日願っていた。内定式で発表されて、全員べつのところに配属されることはわかっていた。毎日カレンダーにバツをつけて、終わりがあるということを言い聞かせた。それぞれの仕事をやるようになったら、べつに一緒にいなくたって不自然じゃないはすだ。そうでなければ、好きな本やバンドの話もできない上に、沈黙も気まずいような人たちと昼の数十分はやっていけそうにもなかった。休憩時間だけどお給料が欲しいくらいだった。翼はキツく、優果はウザく、あとの四人はふにゃふにゃと子供のような反応をするだけで、心底いらいらした。毎日絶対誘われるので、断るのも面倒くさかった。付き合いの悪い人だと思われて陰口を叩かれるのも、自分のいないところで陰口を叩かれているかもしれないと思うのも嫌だった。時々胃が痛くなりながら、たまには成城石井の変わっていて美味しいお弁当を気張らしにしたりして、ついに研修の最終日がやってきた。研修で目から鱗が落ちるようなことはなかったが、電話応対や名刺交換のロールプレイングはそれなりに役立ちそうだったし、アサーティブコミュニケーションとかメンタルヘルスについての講義にはわりと興味があって楽しく、終わっても終わらなくてもどちらでもいいような気がしたけれど、この有象無象たちと離れられるのだ! と考えると天にも昇る気持ちだった。最後のランチは、記念にフォルクスのステーキ弁当千円と奮発した。食事中、誰かが、ねえ、研修今日で終わっちゃうし、ディズニーいかない? と、耳を疑うようなことを提案してきた。驚くことにみんな一様にいいねいいね、と乗り気で、拒否権はない感じだった。今週の土曜日、と決め打ちの日程も見事にみんな都合がよく、わたしももちろん暇だった。全然楽しくないとは言わないけれど、混んでるし並ぶし、気の置けない友達と行ったって死ぬほど疲れるのに、よくもまあ。やっぱり人間としての根本を違えているのだと、思った。
「瑶子ちゃんも行くよね!」
 大学ではダンスサークルでアイドルグループのコピーをしていたらしい菜穂ちゃんが、きらきらした瞳で、わたしの顔をのぞき込む。誰が行かない、なんて言えるのか。断ったらここまで耐えたのが無駄になる気がした。全然仲良くしたくないけど、明らかに変わってて付き合いの悪いやつにはなりたくなかった。
 うん、行くよ、と答えながら、先週の飲み会でのユッコの嘆きを思い出した。ゼミの友達のユッコは、体育会系ばかりの会社の同期からグループ旅行に誘われてしまったのだそうだ。しかも沖縄。なんか評価に響きそうだから断れない、確かに金は結構もらってるけど、だったら推しのライブ全通したいよ……と涙ながらに語る彼女に比べたら、電車で片道1時間、遣っても一万円くらい、時間にしてせいぜい半日で済む地獄なんかかわいいもんだ、と無理矢理自分を納得させた。
土曜日は、九時に舞浜集合だった。今は十六時で、スプラッシュマウンテンに乗る四人を、ベンチに座って待っている、優果と一緒に。午前中からファストパス取って、いくつかアトラクション消化して、マクドナルドより少し美味しいくらいのハンバーガー食べて、そろそろ限界がやって来たので、落ちる系むりなんだ、と言って離脱した。せめて百十分だけでも、ひとりになりたくて。颯爽とその場を去った、と思ったら、後ろから優果がついてきて、わたしはちょっと具合が悪くなっちゃったから休む、と言われてもう別行動できる感じじゃなくなってしまった。
からっと晴れ、本当に雲ひとつない青空で、平日の昼間を薄暗いオフィスにこもって無駄にしているわたし達は、気が狂っていると思う。こういう日は、公園とかで、日陰探して、本とか読みたい。遠くに近所の子供の声を聴きながら一人でのんびりしたい。講義、さぼったりして。それがなんでこんな日本屈指の人混みに来るはめになったんだろう。それはそれで気が狂ってる。諦めがわるいのは、わたしの悪い癖で、だけど、今日は本当に暑くていらいらする。こんなに暑かったっけ、と毎年思うし、たぶん数ヵ月後には、こんなに寒かったっけ、と思う。直近のゴシップ以外すべて、忘れてしまう。
かれこれ三十分はとくに言葉も交わさず、でも隣に座っている。手持ち無沙汰で買ったターキーレッグを頬張りながら、目の前を行き交う人たちを、眺める。お揃いの服と耳つきカチューシャを着けて闊歩する女子高生(制服だけかも)、疲れ果てて眠る子供をベビーカーに乗せて歩く疲れ果てた母親、つがいの熊のぬいぐるみを抱いて彼氏の腕にまとわりつく金髪の女、みんなすごいエネルギーだと思う、わたしが園内でいちばんここに居たくないような気がしてくる。首の後ろにじりじりと日差しを感じ、日焼け止めを塗り足す。色白は七難隠す、の教えを、わたしは必死に守っている。標準よりは少し色白に生んでくれたことだけは、親に感謝している。今日は人が多くて日傘が差せないので、焦っている。  
隣に目をやると、優果はじっとiPhoneの画面に見入っている。LINEか、Twitterか、Instagramかわからないけれど、気心の知れた友人たちと連絡を取っているのだろう。だって今日は土曜日だ。しかし本当に睫毛が長い。鼻先から顎にかけてのラインも作り物のように整っていて、ハイライトを入れてやっとうっすらと立体感が出るわたしの鼻筋とは違う、天然ものの、彫りの深さだ。顎も小さくて、尖っていて、頭が小さい。かきあげた髪は、くろぐろとして、生命力に満ちあふれている。
烏の濡れ羽色、って感じだね。
そんなことが頭に浮かんで、つい声に出していた。優果は、めずらしく笑みを浮かべない顔で、口を開く。少し、ぎくりとした。
「難しい言葉、使うんだね」
「難しいかな」
「あんまり聞かないよ」 
「きれいな黒い髪、ってことだよ」
「それはわかる」
「そっか」
「でもあたしはほんとは茶色いのがかわいいと思う」
「染めたらいいじゃん」
「似合わないんだよねえ」
「顔がかわいいからなんだってよさそうだけどね」
「そんなことないよ」
そんなことないよ、がどちらにかかっているのか、訊いてみたかったけど訊かなかった。
優果との会話もそれ以上の時間つぶしにはならず、わたしは、ベンチを離れて近くをうろついた。みやげもの屋に入ってかわいいけどいらない雑貨を物色したり、おなかも空いていないのにポップコーンを買ったりした。やることがなくなったら座るところを探して、ぼんやりに徹した。諒ちゃんとここに来たのは、いつだったか思い出せなかった。きっと付き合いたての、わたし達なりに浮かれていた頃のことだろうと思った。楽しかったような気がするけど、今、もし隣に諒ちゃんがいたとしたら、疲れた、と言って癇癪を起こしそうだった。年々、楽しいより疲れるの比重が大きくなっていく。天秤にかけて、疲れない方を好もしいと思ってしまう。泣きたくなるけど、大人になるってそういうことだろう。
合流して、またパーク内を練り歩いて、そろそろ帰ろうとなったとき、一人がなにかお揃いを買おうと中学生みたいなことを言い出して、ああこれは本当に罰ゲームだったのかもしれないな、とゲンナリした。優果は楽しそうに笑っていた。
翌週からは念願かなって各自の仕事場に出社して、昼休みも自由に過ごせるようになった。けれどわたしはよりによって、優果と同じ十二階で仕事することになった。わたしは財務部のバックオフィスを担当する部署で働くことになり、初日の部長講話で「地味な仕事」だと説明された通り、とにかく文字が読めて口がきければ誰にでもできそうな業務ばかりだった。たくさんあるグループ会社の銀行口座を管理するのがわたしに与えられた最初の仕事で、取締役が変わったり、引っ越しで住所が変わったり、そういうものの届けを出すために、依頼が来たら銀行から書類を取り寄せ、見本通り記入し、いろいろなところからハンコを貰い、提出する、というのが主な流れだ。一つずつの作業時間は大したことはないのだが、なにしろグループ会社のオペレーションはたいてい親会社である我々より劣っていて、そもそもの依頼のフォームに不備があったりして意外と仕事が進まず、何十社もあるのでチリツモで仕事量は結構多かった。そして、ここに来て初めて気付いたのだけれど、銀行にいろんな問い合わせをしなくちゃならなかったり、同時並行でいくつもの書類を捌いていかなきゃいけなかったりするのが、わたしは苦手なようだった。電話でうまくしゃべれず相手をいらいらさせ、デスクの上の整理整頓ができなくてどんどん管理が大変になった。二時間おきに大がかりな片付けをした。地味で簡単な仕事のはずなのに、全然楽ではなかった。実習日誌、という業務レポ―トを書かなきゃいけないのも苦痛だった。一年目の間は毎日書かないといけないらしかった。ビジネス書しか読んでいないようなおじさんに、社会人の言葉を教え込まれたりするたびに、人間としての尊厳が少しずつ失われていく気がした。
一方の優果は営業部門のバックオフィスをやっていて、なんだかバタバタしつつも楽しそうなのが、遠くからもわかるくらいだった。隣の部署は美人揃いで、彼女はとても馴染んでいた。ここに配属されること前提の、顔採用なのか、となんとなく思った。指導員という、新入社員のお世話係のような先輩がいるのだけれど、優果はすごく気に入られているみたいで、十二階のトイレでにこやかにおしゃべりしているのをよく見かける。きれいで人懐こい感じの人で、わたしなんかにもよく笑いかけてくれる。上下関係という窮屈な縛りのなかでうまくやっていけることは、ある種才能だと思う。わたしの指導員は、十二年目で独身という、お局の領域に足を踏み入れかけたような人だ。そういう人によくある通り、正論だったら他人を傷つけてもいいとでも思っていそうで、わたしは、二週間くらいで、けっこう心折れた。ホチキスが曲がっているとか、書類の端が揃っていないとかでいちいち怒られた。ゆとりだもんね、と一日に何回も言われた。わたしの出来が悪いのかもしれないが、でも、いきなり合わない先輩を引き当ててしまう自分の運の悪さを、ちょっと恨んだ。わたしの人生は、平均よりすこしずつやりづらいような気がしてくる。
新人たちがそれぞれのフロアに馴染みはじめた頃、優果はハーフのなんとか言うモデルに似ている、とちょっと話題になった。芸能人と一般人という違いはあれど、確かに似ていると思う。そしてよくしゃべり、よく笑うので、他人に好意的な印象を持たれやすい。たとえば社内でも男前だと評判のわたしの部署の二年先輩の原さんという男の人が、早い結婚をして奥さんがいるくせに、さして仲も良くないわたしに、倉橋ちゃんこんど飲もうよ、あの美人の子も連れてきてよ、などと話しかけてくる。わたしはいなくてもいいやつですよね、と思いつつ、今度誘ってみますね、とへらへら答えると、よほど本気なのか、その場でLINEを交換させられ、もう本当に誘わざるを得なくなってしまった。エレベーターホールでたまたま会った時に話してみたら、思った通り、脊髄反射かと思う素早いOKが出て、わたしは次の華金をリア充たちの戯れに捧げることになったのだった。ディズニーの悲劇に引き続き、諒ちゃんに愚痴ると、仕事と思って頑張れと言われた。
原さんは、同期の坂崎さんという人を連れてきた。入社からずっと営業一筋で、コーポレート部門のわが部署の面々よりはだいぶ漲っている、という感じがする。ゴルフをやっているらしく、つやつやと日焼けしている。営業なので話を運ぶのも上手く、原さんとの親密そうな掛け合いをしつつ、わたし達、主に優果への気配りも忘れず、さすがだと感心させられた。だけど、優果優果優果わたし、くらいの割合で振られる話題の中に、聞き捨てならない一言があった。
「倉橋さん一年目に見えないよね」
老けているということか、可愛げがないということか、わたしの頭は、反射的にそういうことを考え出してしまって、優果の、瑶子ちゃん本当にしっかりしてて、というフォローさえ、何かの嫌味に思えて、飲み会はいつもこうやって楽しくなくなる。飲み会でうまくやれる人間は、だいたいのことをこなせる。ほどほどに酒をのみ飯を食べ、何人もいる同席者の話をまんべんなく聞き、人を不快にさせない話をし、大袈裟でないぎりぎりの相槌を打つ、そんなの聖徳太子かスーパーマンみたいだ。休みの日はなにをしているのか、とか、趣味はなにか、とかそういう質問も、どう扱っていいのかわからなかった。当たり障りのない話題のようで、品定めをされているような気もするし、図書館に行く、とか、本を読むのが好きだ、とか本当のことを話すのと多分変わり者と見なされるし、知らないやそれ、で終わるだろうし、でも無趣味なつまらない女だと思われるのも辛く、買い物とおいしいものを食べること、と人間なら最低限だれでもやっているようなことを答えた。
三人のやり取りは、まるでよくできた漫才みたいに軽快で、話の中身はないのにとてもうまく進んでいって、思わず観察してしまう。やはり優果は先輩を立てることに長けていて、少しお酒で顔を赤くしながら、うるさいくらいの高い声でよく笑い、とても面白かったことの強調としてしなだれかかり、その媚びようといったら、ここは歌舞伎町かと可笑しくなるほどだった。ゆるく巻いて束ねた髪、揺れるピアス、きれいにアートが施された爪。絵に描いたような、花嫁候補の一般職。こういう子が、上位二パーセントの男たちをかっさらっていくのだ。人と関わって社会を生き抜いていくことになんの苦労もない人種が、働かなくてもいい特権まで手にする。心底ずるいと思う。楽をするにもそれなりの素養がいる、最近学んだことのひとつだ。明るいやつはとことん得をし、暗いやつはとことん損をする。わたしは今後ずっと貧乏くじを引き続けるのだ。
二軒目に流れる前にどうにか離脱し、家に帰ってノートパソコンを開く。久しぶりだった。ログインパスワードを一回間違えた。ワードを立ち上げると、書きかけのファイル名がいくつも連なっていた。それはひとまず無視して、新規ファイルを作成する。優果について、諒ちゃんについて、生活のなかで出会ったありとあらゆる物事について、なにごとかを書き記したい気持ちはある。なのに、言葉が上滑りして、単なる所感、愚痴まがいのしょうもない代物にしか、ならない。活字の形をしているだけで、ああ、わたしの頭にはもう物語を紡いでゆく想像力とか、元気とかがない。ブログに書けばいいような文章を何度も消したり書いたりしていると、諒ちゃんが浴室から出てきた。
「なに書いてんの」
「……べつに」
「おれ、おまえがまた小説頑張るなら平日も家事やるよ」
また頑張る、ということは、かつて頑張っていた、ということで、わたしは、諒ちゃんがそんな昔のことを言っているのに、少し驚いた。
大学三年生の頃、わたしが書いたある作品がたまたま、とある新人文学賞の一次選考を通過した。もしかしたら作家になれるかもしれない、という淡い期待はあっけなく裏切られた。そうだ、世の中そんなに甘くない。大賞をとったのは、わたしのより明らかに拙く、流行に乗って奇をてらっただけにしか思えない代物だった。作者の受賞インタビューもがんがんに寒い自意識の塊だった。だけど、それに負けたということはまぎれもない事実で、しかも最終選考にすら残れなかったんだからその差は歴然で、なんだかもう頑張り方がわからなくなった。いつの間にやら就活も始まってしまって、わたしは、環境に適応するので精一杯だった。そもそも、頑張るってなんだ。正解がなくて、結局は運とかセンスとかでしかないものを、どう頑張るんだ、数打ちゃ当たる的なことか。だけどただ文字数を稼ぐことすら、できない。書かなきゃスタート地点にすら立てないことくらい、わかっているけれど、できないのだ。
諒ちゃんはそんなわたしを憐れんでいるのだろうか。わたしの方が家に帰るのが早いので、生活費を少し多く出してもらうかわりに平日の家事はわたしがするということに最初に決めたのだった。それを手伝うというのは、ありがたい申し出のように聞こえたが、実際、帰りの遅い諒ちゃんが家事をする、というのは結構難しいし、金にもならない自己満足の文章を書くために、そんな負担を強いていいはずがない、と思う。それに、時間があったって、書けないと思う。そういうことじゃ、ないのだ。日々のいろんなことを、受け止めたり、かみ砕いたりして、アウトプットに持って行く元気が、ないのだ。
落胆させないように、大丈夫だよ、と曖昧に返事をして、なんだかいたたまれなくなったので、風呂上がりのあたたかい肩に、寄り添う。間が持たないとき、肌に触れ合えば済むのが、恋人の良いところだ。
「瑶子、したいの?」
 明白な期待が、声に滲んでいた。そういえば最後にしてから二週間近く経っていた。したいのはそっちだろう、と思いつつ、無言で頷き、口づけに応じる。唇だけが触れていたのが、だんだんと深く、絡まり合っていく。ああ、これにやられたんだよなあ、とだんだん夢見心地になる。諒ちゃんの舌はあたたかく潤っていて、掻き回されるとくらくらする。
セックスそのものはもう、無駄のない動き、としかいいようがなく、痛くない程度には濡らしてくれるし、お互い慣れた体なので普通には気持ちいいけれど、付き合いたての頃みたいな、溺れる、という感じは全くない。いくまで弄ってもらったのもいつが最後か思い出せず、でもそれは諒ちゃんの怠慢ではなく、わたしがそこまでのテンションを保つのがだんだん難しくなっているだけのことだ。この行為にはもう、性欲処理の役割はあっても、娯楽の色は薄い、というだけのことだ。セックスレスはこれの延長線上にあることにも、薄々気づいている。不能でなければ、まあいずれはそれでもいいかと思う。だって夜は普通に寝たいし、求められないから愛されていないとも思わない。ただ、絶頂が近くなった諒ちゃんが、うわごとのようにわたしの名前を呼びながら腰の動きを早めて、好きだとか愛してるとか囁くのだけは今も変わらずやっぱりよくて、あなた以外になにもいらないからわたしがなにを頑張っていなくても楽させてほしい、なんて甘ったれたことを考える。  
特に良いことも悪いこともなく、いつも通り低空飛行で淡々と家と会社の往復をしていた六月のある日、入社以来いちばん怒られた。わたしとしては、そして常識的に考えても本当に取るに足らないことだったのだが、彼女にとっては重大なことだったらしい。その前日はただでさえ生理前で冴えなくて、しかも天気が悪くてもうまっすぐ座っているのがやっとで、なんとか一日持ちこたえたのに定時間際にトラブルがあった。教わり始めたばかりの業務で使う、銀行と取引するためのシステムでバグが起きて、どうにもならず藤野さんという優しい先輩が後を引き受けてくれた。なにかやることありますか、ともちろん聞いたけれど、残りは明日でいいと言うので帰ったら、出社して、開口一番、指導員のお局様にねえ失礼すぎない?と怖い顔で言われたのだった。藤野さんとわたしのやりとりなんかたぶん知らないくせに、ただただ見ていて気に障ったのか、これだからゆとりは、とお得意のセリフを連発した。勉強しかできないんだね、というのも新しく気に入った文句らしく、一際大きな声で言っていて、ああこいつ短大卒だったな、昔の事務職ってそんなもんだよな、と鈍い頭でぼんやり考えた。上司だったらパワハラでスピークアップできるような説教は、けっこう堪えて、そのあと一時間トイレに籠った。あんなババアの戯言で泣きたくない、わたしの人生をどうにもしてくれない人のために心を乱す必要なんかない、と思っても、涙は流れるし胸は痛んでなす術なしなのだった。
わたしにとって仕事とは、人前でこうやって泣かないように頑張ることだ。泣くような事態にならないように頑張ることだ。それは相当荷が重く、これから先の人生、月に二十日は失敗しないように神経を尖らせる生活が続いていくのかと思うとほんとうに途方に暮れてしまうのだった。二時間に一回くらい涙のぶり返しがきて、そのたびに席を外して、ほとほと疲れ果てて帰途についた。スーパーで適当に買った惣菜が全部まずく、また悲しくなって諒ちゃんにラインした。食べるものないから。すぐ既読がついて、わかった、の素っ気ない返事のあとに、ミヨタ、デビュー決まったって! と空気の読めない報告があった。
ミヨタというのは、諒ちゃんの同期で、わたしの先輩で、就活はしたもののやっぱり小説でメシが食いたい! と内定を蹴ってフリーターになった男だ。フリーターと言っても実家で暮らしていて、たぶん半分以上は親のすねをかじっているのだと思うが、今般、ライトノベルの雑誌がやっている賞で大賞を取ったのだそうだ。諒ちゃんはそれをわたしに言ってどうなると思っているのか。ろくに仕事もしないで好きなことばっかしてんだから別にすごかない、なんて自分でも負け惜しみだとわかることを返信するわけにもいかず、でも不機嫌は読み取って欲しく、既読のまま置いておいた。諒ちゃんは三十分くらいして帰ってきて、吉野家の牛丼をもりもりと食べて、具合悪いの、と一言声をかけてきただけだった。大変だね、とも言われた。そうだわたしはまずもって毎日生きるだけのことが大変なのだ、とまた辛くなった。
人間関係で、仕事をする中で、小さなミスをいくつかして、細かな絶望を何度も味わって、自分のことを嫌いになって、静かに刻みつけられていく傷をその都度埋めるためにエネルギーを無駄に使う。毎日そうやってきて、会社に勤め始めてからまだ半年も経っていないけれど、わたしの生命力みたいなものは目減りしている。HPが削られていくスピードに、回復が間に合わない。身を守るにも体力が要る。  
こういうとき、思うままに吐き出せたら、たとえば作品に昇華できたりしたら、少しはこの辛さの甲斐があるんだろうか、とは思う。思うけれど、日々をやり過ごすのに精一杯で、もう、好きなことを頑張る、ということすら励みにはならず、むしろ億劫で、時間がもったいなくて、でもそう思うことに後ろめたさは感じるし、こうやって心を乱すこと自体にも、かなり疲れた。  
今は苦しい、将来も輝いては見えない。これだけたくさんのことをしんどい、と思って、他の人がいともたやすくこなしていることが我慢できないわたしの感受性は、きっとしんどいだけ他の人とは違うところがあるはずで、キラリと光るものがあります、と評価される類いの文章が書けたりするはずだ、と言い聞かせるしかなくて、だけど結局書けないし、もういっそ全然違うことでもいいような気もしてくるのだけれど、どんな場面においても報われると思えるようなことはまずないから、ただの人生をうまくやれない人になってしまっている。もう諦めの境地だ。弱者はとことんまで弱っていくのだ。わたしはこのまま、つまらない仕事をして、外見もそこそこで、結婚するであろう相手の稼ぎでは専業主婦になることも望めず、何事も成し遂げられず、かといって全然気楽でもない一生を終えていくに違いない。
ベッドに横たわって泣いていたらいつの間にか眠っていたようで、翌朝は目覚まし時計のスヌーズが五回鳴ったところでやっと起きた。すごくすごく急げば間に合う時間だったけれど、なんだかもう体に力が入らなかった。体調不良によりお休みします、のメールの文面が頭をよぎって、でも昨日お局に怒られたばかりなのを思い出した。起きなくちゃ、行かなくちゃダメになる。やっとの思いでベッドから出ると、後頭部から背中にかけて何かにぶら下がられているかのようにずっしりと重い。諒ちゃんが雨戸を開けてくれていた窓の外は、曇天。低気圧、最悪だ。起こしてくれたらよかったのに。怠い。吐き気もしてくる。でも、行かなくちゃ、今月はほとんど残業もしてないからフレックスもできない。食欲ないから白湯だけ飲んで、化粧は会社でしよう、日焼け止めだけは塗ろう。重い体を無理矢理動かして、なんとか準備して。本当に嫌になる、自己嫌悪でまた時間をロスして、駅前で全力疾走する羽目になるのだ。ギリギリセーフの電車にギリギリで駆け込んで、あんまりにも具合が悪いから斜め前の座席が空いたところに滑り込んだら目の前に立っていた女に睨まれた。そんなピンヒール履いて通勤できる奴は座る必要ないほど元気だから安心しな。わたしといえば朝なのに足がむくんでむくんでパンプスが入らなくて、スニーカーをひっかけてきた。洋服もそのへんにあった楽なワンピースを頭から被っただけだ。ぼろぼろだ。
始業のベルが鳴り出すのと同時くらいにオフィスに着いて、ほとんどすっぴんの顔を伏せてデスクに荷物を置き、スニーカーを社内用のハイヒールに履き替え、トイレに向かう。幸いトイレには誰もおらず、顔面を塗装する作業に取りかかる。クマを念入りに消して、ファンデーションを塗って、眉毛を描いて、アイシャドウをささっと塗って、睫毛を上げて、あとはコーラルオレンジのチークとリップをつけておけばなんとかなる。七割くらいのメイクが完成したところで入り口のドアが開く音がした。鏡の前に広げていた化粧道具を慌ててポーチにしまう。入ってきたのは優果だった。瑶子ちゃんおはよう、と見せた笑顔はいつものように完璧に明るく、誇らしげに見えた。手元にはいつものハンカチと口紅があった。ホルモンバランスの乱れとか、自律神経失調とか、きっと単語すら知らないだろう。通勤で崩れたところを少し直しているだけみたいなふりをして、今日じめじめして嫌だね、と世間話を始める、本当は今すぐ立ち去りたいのに。
「原さん辞令出てたね、シンガポール」
優果は、お構いなしに話を続けた。なんとか、頭を会話のテンションに持って行く。
「そうなの? まだ見てないや」
「うん、八月一日付だって」
「そっか、大変……」
「ね、急に海外行けとか言われてもね」
「まあそんだけお給料もらってるしねえ……」
「今ジャカルタ駐在とかなるとボディガードつくらしい、物騒だから」
「え、こわいね」
「奥さんもついてくの大変だよね」
「でも駐妻とか、人生勝ち組って感じ」
半端な本音を口に出してしまって、話しすぎた、と反省した。気乗りしないと饒舌になる。冗談めかそうとした次の瞬間、意外な返事と共に、優果の表情がすっと変わったのがわかった。
「あんま興味ないかな」
「……そうなんだ」
「わたし、いつか会社やめてネイルサロン開くの」
 だから結婚とかまだまだ全然考えらんないし、お金貯めたいからすっごい節約してるんだ、といつにも増してきらきらとした瞳で語る。もういい聞きたくない、あなたの夢の話なんて。そんなものなくたって生きていけるはずだ、夢みたいにかわいい顔と愛嬌と周りに恵まれて、これ以上なにを望むのだ。わたしがぐるぐると同じ場所から動けない間に、あなた達はどんどん遠くにいってしまう。いつも、そうだ。
「……どうしてそんなこと私に……」
「だって、瑶子ちゃんも会社つまんないでしょ」
 瑶子ちゃん、も。そりゃあなたには、こんな会社はつまらないだろう。アフター5が自由に使えること、くるみんマークがついていること、ボーナスが多いこと、それくらいしかモチベーションにならない仕事だ。希望にあふれていて、たぶんきっとそれも直に手が届くあなたには、刺激が足りなくて、物足りなくて当たり前だ。だけど違う、わたしは、つまらないわけじゃない、こんなに単調でつまらない毎日を送ることに体力を使い果たして、生活のための生活に必死で、世界が回るスピードに追い付けないだけだ。なにもかもが、眩しい。優果みたいに、とは言わない。せめて優果のことを、素直に羨ましいと、わたしもそうなりたいと言って頑張れるだけの、可愛い女になりたかった。美しく生まれつきたかったし、明るい性格に育ちたかったし、才能に恵まれたかったし、それらを駆使して素晴らしい仕事に打ち込むか、ハイクラスの男に見初められたかった。しんどくない人生を、生きてみたかった。
会社帰りに、百貨店に寄った。暴力的に買い物がしたい時って、ある。大体が自分のなかでなにかが澱んでいるときで、お金を使うことでなにかの突破口になるような、経済が回るとともにわたしの気力も充実していくような、そんな予感がするのだ。十中八九、後悔で終わるのだけれど。こういう気分の時は、とにかく起爆剤が必要なのだ。
香料の匂いであふれかえった化粧品フロアを歩く。似合う色、無難な、ベージュや、オレンジや、ブラウンでいっぱいになったつまらないポーチの中身を思う。冴えないわたしにストレス発散のごとく買い求められたかわいそうな化粧品達のことを思う。ふと、美しい海外の女優のポスターが目に入った。真っ白な肌に映える、淡いマゼンタの唇。一輪咲き誇る花のような鮮やかさに吸い寄せられてカウンターに近づくと、端正に化粧を施した美容部員が、話しかけてきた。そちらのリップ、春の新色なんですよ。こんなにきれいな色は絶対に似合わない、しかも外資系のそのブランドは優果がいつも持ち歩いている口紅のそれで、少し気後れしながらも、よろしかったらおつけになってみてください、お直しもされていかれますか、と案内されるに任せた。
似合わな過ぎて、笑えた。お肌の色が明るくていらっしゃるからよく映えますね、とお世辞が聞こえたけれど、やっぱり全然そうは見えなかった。洋服が汚れないようにつけられたエプロンの白が写りこんでいつもよりさらに血色のない顔色に、唇だけがネオンのように悪目立ちしていた。けれど、きれいな色だった。このピンク1本ポーチにしのばせたら、違う明日が待っていそうだった。一瞬の華やぎがまるで麻薬のようで、気づくと両手いっぱいに紙袋を抱えていた。今使ったの、全部ください、分不相応な魔法の言葉だ。またやってしまった、少しすかっとした。今ならなんでもできるような気がする、なんてこんな気持ちは、そう長くは続かない。明日には絶対また泣きたくなるし、死にたくなる。その場しのぎの、付け焼刃の、インスタントなポジティブ思考を定期的にドーピングして、だましだましやっていくしかないのだ。虚しい、でもそうするしかない人間はきっとわたしだけではないと、きらびやかな百貨店のフロアで、さほど美しくもなく充実しても見えない、ごく普通の女たちとすれ違って思った。わたしだけが苦しいわけはない、わたしだけの出来が悪いわけはない。じゃなきゃ世界は回らない。
最寄りの駅で降りるといくつか星が光っていた。明日は天気になりそうだ。救いなんかいらない、と冴えた頭で思った。ロータリーで諒ちゃんと合流して、おいしいものでも食べに行こう、とごちゃごちゃとした駅前通りに向かって並んで歩いた。見慣れない化粧をしたわたしを見て諒ちゃんは、少し驚いたような顔をしていた。
「なんか雰囲気違うね」
褒めてほしくて、かわいい? と聞いた。かわいい、と返ってきた。完全に言わせた。でもいい、気が晴れた。手を繋いだ。今日は少し、したい。このいい気分のまま、noteでも始めようかな、と思った。


#小説 #創作


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カワシマハルナ

働くのがしんどいOLです。日々思ったことなど。

コメント4件

海猫沢さんが紹介されていたのを見て、拝読しました。
自分はお化粧に疎いので化粧品を買うところが面白かったです。
ないものねだりをするって未熟で浅ましいと見られるんだろうなって辛いけど、ないもんはねだるしか仕様がないんだから仕様がないんだよと常々思います。
初めまして!読んで頂いてありがとうございます!そしてコメントまで……!
わたしは作品中の「私」と同じく化粧品がすきで気に入っているシーンなのでお褒めいただき嬉しいです。
本当に、他人と比べてもどうしようもないし自分を認める方が楽に生きられるだろうに、ないものねだり、やめられません。
返信、ありがとうございます。
実は伯母が美容部員をしていて、幼稚園の頃に母について百貨店の化粧品売り場に行ったことがあり、読んでて懐かしかったのです。
ご自身の体験に引き寄せて読んで頂けるの、本当に嬉しいです!
過去作品などアップしていく予定ですので、またよろしくお願いします。
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