FILE21 扉(2)  51

 海からの風は、気高く潮の香りを運んできた。胸を貫き全身を流れるような苦しみが私を襲った。

「あとに残る、すべての命あるものが限りなく幸せであり続けられますように。苦痛も憎悪も歪んだ愛もすべてが消え去り、愛のもとから出たものがふたたび愛のもとへ帰ることができますように」

 あの時、自分が捧げた祈りがどれほど自分勝手なものであったかを、今の私は知っている。自分で命を絶つということは、どうしようもなく世界を乱すことだ。世界を愛するということは、目の前に訪れる苦しいことすらも乗り越えて生きていくことだ。
 森の木々が大気の怒りをその身体に吸い込み、そして愛に変換して世界に送り出してゆくように、すべてを許し、憎悪を捨て去り、自分自身を癒してゆく。抱え続けてきた過去と憎悪を、私は愛にかえることが出来るだろうか。

「もっとも深き闇。それを観るそのとき、もっとも光に近づいている。
もう真実から顔を背けないで」
 くもりのかけらもないティダの目が、やさしく私に語りかけていた。
 愛とは、妥協のないエネルギーだ。そこには善も悪もない。世界を愛することは、自分自身を愛すること。自己犠牲などという欺瞞の世界にひたっている間は、世界を取り戻すことなんて出来はしない。

「ありがとう」
 私は空と海に向かってお礼を告げた。その想いは風に乗ってどこまでも運ばれてゆくようだった。あの時、龍神様が私を受け入れることを拒んでくれたお陰で、私はここまで歩いて来れた。
 感謝の祈りを続けていると、下腹部が熱くなり、愛にも似た感情が身体を昇ってきた。ゆっくりゆっくりと上昇を続けるその熱で、私の身体中の細胞が覚醒したかのように粟立ち、皮膚がざわめいた。髪の先まで染み渡るような、血の流れを越えた波動が身体中を支配しはじめた。すさまじいエネルギーが身体の中心部を通り過ぎ、光の帯のように身体の中を貫き、そしてどんどん広がってゆく。大地から湧きいでて身体を駈け昇ったその力は、頭頂から抜け出るとらせんを描くようにクルクル旋回しながら天高く昇っていったように感じた。
 なにが起こったのかを理解できずに、ただただ呆然として空を眺めた。この感覚を懐かしいと思った。
 私はこの美しい沖縄の風の力を借りて、最後の扉を開けることを決心した。

 目をつぶった私のこころの中には、一本の道があった。なんの手入れもされていないただの道だ。ごくんとつばを飲み込んで、私は一歩目を踏み出した。
 ひたすら歩いていくと、ドアがあった。それは、開かれていた。私はそのドアをくぐり抜けた。まっすぐ歩き続けると、もうひとつドアがあった。そのドアも越えて、私はいくつものいくつものドアを越えて歩き続けた。しばらく歩いていくうちにあの洞窟の中のように道は平坦ではなくなり、うねうねと曲がりくねっていった。灯りはなく、ただ胸の中に灯っている小さな光を頼りにでこぼこ道を歩いていった。開けっ放しになっているいくつものドアを通って。
目の前に、茶色の扉が見えてきた。重厚そうなその扉は、私がこの地に降り立って、はじめて見た閉じられた扉だった。
 遠目からその扉を見た瞬間、私は帰りたい衝動に駆られた。みたこともないはずのその扉を、私は苦々しく思った。見たくも、触りたくもない。この扉を開けたところに、何があるのかを想像することさえおぞましく思った。
 私は、何も考えることが出来ずにその扉の前に立ったまましばらく時を過ごした。
「お前は、また考えているわけ?」
 キヨさんの声が響いた。
「ううん、何も考えてないよ」
 そう言おうとしたときだった。
「えー、いつも言っていたさあ。まーだ、わからんわけぇ?はーっしぇ。ちゃーならんさー」
 あきれながらも彼女は笑っていた。私のあきらめの悪さと、頭の固さを、いつも叱り飛ばしながら笑っていたように。

 大きく深呼吸すると、頭の中にあの海と空を思い浮かべた。大地を踏みしめる両足に力を入れて、その扉の取っ手を握る両手にすべての力を込めて、すべての細胞で祈りを捧げた。
「深淵に降り立って、その闇をくぐり抜けなければ、光を取り戻すことなど、どうしてできるというの?」
 息を止め、歯を食いしばり、力を入れると、ようやく扉は開きはじめた。
 少し開いたその扉から強烈な風が吹きつけ、私の髪を空へと踊らせた。真っ黒く、異様な腐った匂いの立ちこめる空気。何年も閉ざされたままの発酵し続けたその記憶。
 恐ろしくて、この手を離したくてたまらなかった。けれど、私は知った。この闇の扉を開けることが出来なければ、私はどこへも行けない。
 私は再び力を込めて、扉を開け放った。強烈な風が渦を巻いて扉の向こうからやってきた。
「私は自分自身を浄化して世界を眺める。すべてを乗り越え光も闇もこの手の中に掌握するの。
 それを超えた和合の世界へとむかうの、すべての生命とともに」
 呪文のようにそうつぶやいた。逆回しのように記憶が甦ってくる。こころの中に閉じこめていた重い記憶が。
「このこころに溜めた記憶のすべてを解き放とう。善も悪も関係ない、光も闇も存在しない。私は、ただの私になる」
 海の中からはじまった生命。私は海の空を羽ばたいている。いや、ちがう。それは龍神の海に飛び込んだ私の姿だった。
 沖縄の道をひたすら歩き続け、歯を食いしばり、汗と涙に濡れて。
 海を渡る大きなフェリーに乗った、大海原の中の小舟のように怯えて揺れ続ける私のこころ。
 おばさんの狂気にも似た怒り、親戚の冷たい視線と下世話な笑い。
 うれしそうに本を読む芳明との探求の日々。
 好きなんだよとくり返しながら犯し続ける博史、暴力で踏みにじられつづけた性。
 博史の猛り狂ったペニスが怯えきった私の膣を突き刺してゆく初めての経験。
 両親のけんかを見て見ぬふりをして、天井を見上げる。
 誕生日のケーキと優しい声で歌うおかあさん。
 喜びに顔をぐちゃぐちゃにして抱き上げほほにキスをするおとうさん。
 母の産道を伝い生まれいでた瞬間、肺の中に広がる生温い空気、爆発的な恐怖と不安感で泣き叫ぶ無力な赤ん坊。
 ただ一カ所の管だけが大きなものと繋がれた暗いおだやかな海の中、ひたすらに細胞分裂して成長し進化する。
 あたたかくおだやかな光の中で、生まれゆくことを選んだ。

 すべてを思い出し、すべてを投げ出したこころの中はからっぽで、ちいさなビー玉のようなものがぽつんと転がっているだけだった。ついさっきまで、汚濁にまみれて、真っ黒な空気で包み込まれていたその珠は、なんにもなくなってしまったこころの中に吹いてゆく清浄な空気に触れて、本来の色を取り戻しはじめた。雨上がりの水たまりに虹が映し出されるように、徐々に色を増していった。
 さまざまな色の光を放ちはじめたその珠は、ゆっくりゆっくりと旋回をはじめ、光の強さを増してゆく。
 胸の中だけではとどまらず、放射する光は全身を包み、そして全世界を照らし出した。
 強さを増し続けた虹の光はやがて、ただひとつの色の光にかわってゆく。
 白く、ただただ白く輝いて。

 偉大なる樹はさまざまな花をひらかせ、鳥が飛び交い、虫や生命が集う。そして、たくさんの種を大地に落とした。キラキラと輝く虹色の種を。
 大地はきらめき、葉や花やつどいあう生命によって空は輝いていた。
 もはや自分の身体という小さな枠を超えて、その世界に起こっていることをただ客観的に眺めていた。すべてを思い出して受け入れるということは、なんと美しいことなのだろう。個を越えてすべての存在とひとつになることは、究極の悦びだった。
 “私”という薄っぺらい自我でつくられた世界との断絶の皮を脱ぎ去って、存在のすべてにとけ込んで神々しい光の一部になったとき、ティダの美しさと愛しさに胸を締めつけられた。

「ティダ、ありがとう」
 ティダに向かってそう叫んだその時、彼はかつて封印の洞窟から天へ昇っていったときのように、私の意識の身体の芯を駈け昇っていった。大きな身体で空に弧を描き色とりどりの光を青の世界にばらまきながら、天空をかけていった。
「やっぱりあの光はあなただったのね、ティダ。あなたは龍の神さまなの?」

「ありがとう」
 こころの中にそのやさしい声が聞こえてきたと同時に、空の高みから落ちてきたのは、虹色に輝く龍の涙だった。きらめく水晶のようなものの中に、生命を宿し輝く水が包み込まれていた。光の結晶のような涙は、手のひらの中でいつまでも光輝いていた。

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