芳明の風景 夢と現実(1)  030

 そばで眠る彼女の吐息が甘く切なく、僕の胸を苦しめる。僕のすべてを翻弄する天使で悪魔で聖女のような女。彼女を自分のものにしたいと思う葛藤の深さも、こんな関係もいいかと納得してしまっている自分の不甲斐なさも、そういうことのすべてを僕は楽しんでいた。
 安らかに眠る彼女の顔をしばらく眺めたあと、僕も眠りについた。
 夢の中で見た景色は、やわらかい幸せな光景だった。
 やさしい顔をした男の人と女の人がその部屋の中にいて、その顔を僕はよく知っていた。彼らは僕には気づかずに、愛しいものをただただ見つめていた。最後の方はいつも疲れ果てたイライラした顔を見せていたあのふたりだった。あの人たちも、こんな風におだやかに笑うことができたのか、と僕は驚いていた。
 女の人が聖母のような慈しみに満ちた表情で赤ん坊におっぱいを飲ませていた。
「陽の光をたくさん浴びて、たくさんの愛をあびて、のびやかに花のように美しく。そしてその光で、人々を照らすことのできるように。そういう想いを込めてこの子に名をつけよう」
「いい名前だわ」
「俺は親バカだろうか」
「そんなことはないわ。きっとこの子は、そんな風にやさしい女の子に育つはずだわ。私たちの子供ですもの」
 両親の愛に包まれながらその赤ん坊は、ゆったりと眠りについた。

 目を覚ますと、僕の横で眠る彼女の目から涙がこぼれていた。外はまだ暗くて、月の明かりだけがあたりを少し照らしていた。僕は涙がつたう彼女の頬を指先で拭った。
 苦痛に歪んでいる彼女の寝顔。いったい、今夜はどんな悪夢を見ているのだろう。その夢でさえも、僕には取り除いてあげることはできないのだろうか。彼女の見ている夢の世界を見ることができればいいのに。せめて、せめて彼女の抱える想いの片鱗を見ることができればいいのに。彼女が立っているその世界で、僕も一緒に生きることができればいいのに。彼女の寝顔を眺めながら、僕は夜空の月に祈りをささげた。
 ゆっくりと目を開けた彼女は、僕が横にいることを確認するとふっと力を抜いて、その一瞬の後に無邪気な子供のように泣きはじめた。僕は彼女を抱きしめて髪を撫でた。
 この世界の中で一番愛すべきものを胸に抱いたまま、夢の中の人たちが彼女を慈しみながら呼んだように、彼女の名をそっと呼んだ。

「今日も一日、私につながるすべての人が、平和と愛の中に生きられますように。身近に存在している幸せに気づき、またその幸せの中で瞬間瞬間をすばらしく生きることができますように。お導きください、お見守りください。
 すべての人が、そのこころの中に存在する愛を想い出し、争いや暴力から目覚めることが出来ますように。
 ありがとうございます。今日も一日よろしくお願いします」
 朝日が昇る少し前に起き出した彼女は、太陽や月や木々に向かっていつもと同じように祈りを捧げていた。 その朝は、ほんとうに素晴らしい朝だった。祈りを終えたあと、僕らは山を下り洞窟に入った。
 細く深く続くその自然が作り出した洞窟。彼女がなぜこの洞窟を沖縄最後の聖地巡礼の地として選んだのか、僕にはわからなかった。真っ暗な中をゆっくりと一歩ずつ足を進めてゆく彼女の後ろを、僕はただついて歩いていた。



 洞窟の探索を終えて地上に戻ってくると、あたりの風景はすべて変わっていた。
 立ち枯れる木。黒ずむ空。あたり一帯にもやがかかり、ほんの2メートル先は何も見えないほどに煙が充満していた。洞窟の中の湿った空気になれていた身体は、その急激な変化に驚いたのか、空気が入って来ることを拒絶するかのように激しい咳を引き起こした。あまりの激しさに、一時呼吸困難に陥った僕は、頭の中の酸素も欠乏して座り込んでしまった。
「なに?
 一体なにがおきたんだ?」
 真っ暗な洞窟から出てきたせいで、目がおかしくなっているのかと思った。目をこすり、何度あたりを見渡しても、景色はなんにもかわらない。景色だけではなく、焦げ臭い異様な匂いがあたりを包み込んでいた。
 僕らが出てきたばかりの洞窟以外はすべてが変わり果てていた。目の前の小高い山が炎に包まれて、緑色に光っていた木々は黒煙をあげ、パチパチとゴーゴーとすさまじい音をだしていた。あちこちで大木が倒れる音がする。その風景は延々と続いているようだった。もくもくと煙が立ちこめ、近くの山も遠くの山も燃えている。
 ほんの数時間前、僕たちが洞窟に足を踏み入れたときまで、世界はなにもかわらずに、時を刻んでいたというのに。
 あまりの驚きに、その場にただただ座り込んでいた。
 戦争がはじまったのか? まさか。
 たしかに世界情勢は悪化をたどっていたけれど、いきなり空襲なんて。まさか核戦争・・・? いや、まさかそんなはずはない。

 僕のすぐ横で立ち尽くしていた彼女は、口を押さえながら叫びだした。言葉にならない、狂ったような叫び声は、グレーの煙で包まれた辺り一帯に響いた。
 しばらくの間叫び続けた彼女は、力をなくし座り込みブツブツとつぶやきはじめた。
「まさか。まさか。
 いやー」
 彼女の目からはあとからあとから涙が湧いてきた。
「ああ、間に合わなかったんだ。私は何をしていたんだろう・・・・。
 私は、まちがっていた」
「おい、大丈夫か。おい」
「ひこうき。
 飛行機が、落ちた・・・」
 細かく震える彼女の身体を抱き抱えて、僕は必死になって何度も呼びかけた。うつろになって宙を舞う彼女の目は、目の前にいる僕を通り越して、ずっとずっと遠いところを眺めていた。僕が彼女を揺り動かしても、彼女の心は動かされず、ただ両腕だけがぷらぷらと揺れていた。
 このままここにいてはダメだ。そう思った僕は、彼女を支えるようにして無理矢理洞窟の中に連れ戻した。あの衝撃的な風景の中で、壊れていきそうな彼女を見ていることなんてできなかった。突然の出来事にどうするすべもなく動揺しているというのに、彼女のそんな取り乱し様を見ていると気が狂ってしまいそうだった。

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