009

FILE 蝶 

 公園で目覚める朝も二日目を迎えた。どうしても眠れなかったあの日々を思うと、身体のつかれも、足の痛みも、少しもつらいとは思わなかった。よほど眠りこけていたのだろう。太陽はかなりの角度まで昇っていた。目が覚めたものの、なかなか身体を起こそうという元気は湧いてこなかった。しばらくベンチに仰向けに横たわったまま、空を眺めていた。
 青い空がまぶしい。陰をつくってくれている木の枝や葉、けなげに咲いている小さな花を見ていた。ちいさな葉っぱの緑色がこんなにも美しいなんて、今まで知らなかった。
 キラキラと光に照らされては輝く海に手を浸し、この島に二度と争いがやってこないことを願った。あの夢のような世界がやってこないように、海に向かって祈りを捧げて、わたしは三日目の道を歩きはじめた。

 しばらく歩いてゆくと、道の真ん中に黒いものがなにか落ちていた。ベルベットのような真っ黒の羽に、真紅の高貴な身体をした蝶だった。陽射しで熱せられたアスファルトの上で、ヒクヒクと動いている。身体や羽が傷ついているようには見えないのに、蝶はすこしも動かない。
 死にかけているのかもしれない。それにしても、こんなアスファルトの上で生命を終えるのはあまりにもかわいそうだ。わたしは蝶を眺めていた。
「草の上に眠らせてあげよう」
 羽をつかもうとしたその時、蝶は飛び立った。ふらふらと蛇行しながらわたしの方に向かってくる。顔の前で空中停止したかのような錯覚をわたしにあたえると、次の瞬間には森の方へ飛んでいった。どこまでもどこまでも、黒い点になって、その姿が見えなくなるまで遠くへと飛んでいった。
 車がゆきかう国道を、ガードレール一枚をへだてて森がはじまっている。人が立ち入ることのない木々の中へ、いるべきではないところから、いるべきところへと帰ってゆく蝶の姿を、どこかうらやましく見ていた。
 ゆるやかに続く坂道を登りつめると、道の真ん中でまた蝶にあった。その蝶はピクリとも動かずに、ずっとそこにいた。気になったわたしが羽をつかんで草の上に置いてみると、蝶はしばらくしてから森の中へと優雅に飛んでいった。その数分後、また歩道の真ん中に蝶がいた。今度は黒い羽に緑色の光の粉がちらばされたように光輝いていて、黒の中に赤いラインが入っている美しい蝶だった。
「どうしたの?」
 羽をやさしくつかんで花の上に置いてみると、花から降りて葉っぱの下に隠れてしまい、その葉の上でまったくうごかなくなった。急に軽く飛んだかと思うと、蝶はまた歩道に降り立ってしまった。ひっきりなしに走り去って行くトラックの風にあおられて、苦しそうに羽をバタつかせている。風を防ごうと、わたしは右手をかざした。
「元気になって。ね、大丈夫、飛べるよ」
 その時、森の方から一羽の黄色い蝶が飛んできた。元気に空を舞う蝶と今にも死にそうな蝶。今のわたしをたとえるならばこっちだろうと、わたしは瀕死の蝶を眺めつづけていた。飛べなくなった蝶は、わたし自身を象徴しているように無様だった。けれど、わたしはそれをかわいそうだとは思わなかった。
「あなたもきっとあんな風に優雅に空を飛んでいたんでしょ。どうしてしまったの?」
 元気な蝶は、死にかけている蝶を気にかけもせずにどこかへ飛んでいってしまった。
「お願いだから。こんなアスファルトの上じゃなくて、せめて土の上で死んで」
 そう強く強く願ったその時、蝶はふらふらと飛び立った。森の方ではなく、車道へと。ひっきりなしにトラックが走り去る国道に降りると、力尽きたのかそのままピクリとも動かなくなってしまった。
「そんなところで止まっていると、ひかれてしまう」
 わたしは蝶を助けようとして、ガードレールを飛び越えた。大型車が次から次へと走ってくる。
「飛び出して助けようか、でも。どうしよう」
 わたしが躊躇した一瞬のうちにトラックが走り去っていった。そして、何台もの大きなトラックがその身体を踏みつけていく。通り過ぎてゆく車の中の人々は、この道路で小さな生命が今断たれたことさえ知らない。
 信号がかわり車が途切れると、わたしは車道に走り寄った。何台もの車に踏みつぶされた身体は、黒いボロボロの布きれのようにアスファルトにこびりついていた。あの美しい姿はもうどこにもなかった。その身体を土にかえそうにも、潰れた内臓が地面にべったりと張りついていて剥がしとることさえできない。
 目の前でひとつの生命が消えてゆくさまを、わたしはなにもできずに見ていた。あの夢とはちがって、今のわたしならあの蝶を助けることができたのに。
 死に場所を探してここまでやってきて、こんなところまで歩いてきたのに。わたしはなにをやっているんだろう。どうして車に飛び込んであの蝶を助けてあげなかったんだろう。これから絶つ予定の命を、蝶のために投げ出すことがなぜできなかったんだろう。
 黄色い蝶が踊るように飛んでいた。それはこの島ではじめてみる種類の蝶だった。
 わたしが生きていることに、なんの意味があるのか。こんな嘘つきな、偽善にまみれた、わたしの命。蝶のかわりに、わたしの生命を奪えばいいのに。わたしの生命を奪って、この蝶を生き返らせてくれればいいのに。
 蝶は生命の輪の中で生まれ、生き、死んでゆく。死んでもなお、アリや虫たちや微生物の生きる糧となって生命の輪の中に在りつづけている。
 わたしは?
 わたしは、この森がきれいにしてくれる空気を惰性で吸って、二酸化炭素を吐き散らし、生命を食いつくして、人を巻き込んで自殺においやって、そしてあの蝶までをも。

 坂をのぼりつめると道路標識にしたがって、漁港を目指して道をそれた。村内には素朴な家々が立ち並んでいた。どの家も玄関先のちいさなスペースにきれいな花を咲かせている。どこからともなく黄色い蝶が飛んできた。
「おなじ蝶? まさかね。あれからずいぶん歩いてきたもの。
 ねえ、連れていってよ。龍の王様のもとへ」
 ひらひらと飛ぶ蝶を目で追うと、遠くの漁港の湾内にある岩がみえた。
「あの岩? あれが龍宮城の入り口なの?」
 誰と話しているのか、わからなかった。けれど、問いさえすれば答えは胸の中にあふれてきた。
「そこから、龍宮城にいくことはできないの?」
 軽い気持ちで近づいてはいけない。にふれてはいけない。
「ウタキ? なに?」
近づいてはいけない。
「なぜ? わたしは真剣なの。すべてを捨てて、ここまで歩いてきたんだよ」
 まだだめだ。扉はひらいてはいない。
 胸の中の声は、そう厳しく言い残して消えてしまった。
 なにが「まだ」なんだろうか。
 その言葉を無視して、わたしは漁港の堤防の突端にある岩へと続く道を歩きはじめた。ごつごつとした石灰岩の大岩。その数十メートル手前で、わたしの足は動かなくなってしまった。いくら前に出そうとしても、前に出すことができなかった。
「なぜ? この場所に立ちたくて、歩いてここまで来たのに。なぜ、わたしを拒否するの?」
「まだ」といった胸の中の言葉がこころで響いた。
「それならば、いつになれば許されるの?」
 その時、海から強い風が吹いた。その風の行方を眺めるように振り向いたわたしの目に飛び込んできたのは、またしても蝶だった。優雅に風と遊ぶように舞い、高く高く港の後ろ側の丘に昇っていった。その丘に登れば、この海すべてを見渡せそうな感じがした。そして、その場所はとても清浄な場のように感じた。蝶はその山を目指してどこまでも昇っていった。わたしを呼びながら。

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