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第七章

彼女の風景 不安


件名:念のために

 お願い。
 この添付ファイルを、絶対に見ないで。もしも、もしもわたしに何かがあったとき、そのときはこれをあなたに託します。
 大丈夫だったとき、ねえ、そのときは笑って捨てようね。
 お願いだから、バカだなって、笑ってね。
 一緒に、笑ってね。わたしも、そうなることを願ってる・・・

「今朝は、いつもとなにかが違う?」
 目を覚まして、ふとんの中から窓の外を眺めたその瞬間、不思議な違和感にさいなまれた。窓の外には、いつもとかわらない朝の空が広がっているというのに。なにがいつもと違うのだろうか? その違いはまったくわからなかった。
 わたしは今日飛行機に乗る。しばらく時を過ごした沖縄を離れて、生まれ育った大阪へと帰るのだ。今までだって何度も空を飛んでいるし、飛行機を怖いなんて思ったことは一度もなかった。今日に限ってこんな風に思うなんていったいどうしたんだろう。
「満員の飛行機は墜ちない」
 いつか読んだ本にそんな感じのことが書かれていた。誰の本でどんな話しだったか細かいことはまったく思い出すことはできなかったけれど、強烈なインパクトを残したその一言だけが、記憶の隅っこに引っかかっていた。
 たしか、その本によれば飛行機事故の統計を見ると、墜落やエンジントラブルなどを起こす飛行機は、事故を起こさなかった同条件の飛行機に比べ明らかに乗車率が低いという。虫が知らせるというのだろうか、急にキャンセルをする人が続出するらしい。
「この不安はなんだろう。虫が知らせているの? まさかね」
 胸に去来する不安にとりつかれていたわたしは、いろんな言い訳を並べて、不安におののく自分のこころをなんとか落ち着かせようとしていた。けれど、国道に出てタクシーを探す間も、空港に向かう車の中でも、不安は徐々に膨らんでいった。だが、それはまったく根拠のない不安だった。
「なんなんだろう。この胸の動悸は。飛行機が危ないことを、わたしの直感が察知しているんだろうか」
 流れてゆく景色を眺める暇もなく、不可思議な感情の原因を探ろうと、わたしは自らのこころの中をのぞき込んでみた。
「まさか?」
 ある直感がわたしを貫いた。
「ほんとに?」
 これまで見つづけてきた夢の、その中に、今わたしは在るのだろうか? 
「世界のおわりのはじまり」の夢の中で辺野古へと墜落させられる、第三次世界大戦の火蓋を切って落とすことになる、あの飛行機。
「まさか・・・
 わたしは、それに乗ろうとしているの?」
 これまでに経験したことのない恐怖に駆られて、全身が震えはじめた。ずっと見つづけてきた夢、それが現実になるとでも?
「すいません、異常に混んでるんですよ。普段こんなことはないんだけど」
 運転手に声をかけられて、わたしは急に現実に引き戻された。
「え?」
 一瞬、彼が何をいったのかが理解できずに、変な声を出してしまった。運転手の言葉を数拍遅れで理解したわたしは「ああ、ほんとだ」と適当な相づちを打った。
 内側に向けていた視線を外に移せば、沖縄本島を縦断する国道五八号は、今までに見たこともないほど渋滞していた。中古車販売の見本市のように、ずらっと車が並んでいる。空港までは普通に走れば車で四〇分程度の距離だった。今朝はそのまったく同じ道を、一時間以上走っているというのに、まだ那覇に入ることさえできていなかった。この渋滞のひどさならば歩いた方が早いくらいだろう。
「はーもう。なんでこんな普通の日に、あんな混んでいるわけ? お客さん、飛行機の時間大丈夫ね?」
 そう言われて我に返ったわたしは、時計を見てため息をついた。ずいぶん余裕を持って出たはずなのに、飛行機の離陸時間はどんどん迫っていた。
 タクシーは離陸十五分前になってようやく空港に到着した。走り込むようにしてチェックインを済ませて、早足で搭乗口に向かった。こみ上げてくる吐き気が、時にわたしの足を止める。どこまでもくっついてくる不安感を、追い払うことができないでいた。
 わたしがこれから乗ろうとしている飛行機。もしも、この飛行機が「おわりのはじまり」のきっかけとなる飛行機だとするなら、わたしはどの道を選ぶ? 
 飛行機に乗り込む予定の人々が、壁にもたれて大きく息をついているわたしをどんどん追い越していった。
「でも、この飛行機がソレだったら? わたしは、どうする?」

 ロビーでISDN公衆電話を見つけるとノートブックを電話台の上に置き、メールソフトを立ちあげた。 リュックから財布をとりだして小銭を入れようとすると、こんな時に限って十円玉も百円玉も入っていない。お金を崩しに行くにも、売店には雑誌や弁当を買おうとする客で列ができている。
「もう、ほんとうにイヤになっちゃうなあ・・・」
 わたしは仕方なく千円札を取り出し、自動販売機でテレホンカードを買った。再びモジュラージャックを突き刺し、送信ボタンをクリックする。モデムカードが自動的に電話回線を繋ごうとする。数秒の後、エラー音が鳴り響き「予想しないエラーのため、回線を繋ぐことが出来ません・・・・」
赤い枠のついたエラーメッセージが表示された。
 電話回線が上手く繋がってくれない。
「ご搭乗の最終案内を申しあげます。関西空港行きご搭乗予定のお客様、当機はまもなくご搭乗案内を終了いたします・・・・」
 ・・・あと五分しかない。
 再度送信ボタンを押してみても、結果は同じだった。まったくつながる様子はなくて、時間だけがどんどん過ぎていってしまう。
 モデムをチェックし、回線をチェックし、もう一度送信ボタンを押した。
 ・・・・。ダメだ。
 繋がらないどころではなかった。ハードディスクが作業中なのを知らせる小さな砂時計を表示したまんまマックはフリーズしてしまい、うんともすんとも動いてくれなくなってしまった。
「なんで? どうして、こんな時に限って」
 コンピューターを再起動させながら、わたしは額に浮き出る汗を拭った。手のひらに滲み出る汗でコンピューターを滑り落としてしまわないように、イライラを鎮めながらコンピューターが起動するのを待った。それは、普段の何倍もの時間のように感じられた。
「もう、送るのは止めようか。飛行機に乗れなくなったら、元も子もない」
「・・・・・・。お急ぎください。まもなく、ご搭乗案内を終了いたします」
 アナウンスも最終の搭乗案内を告げている。

ようやく書き終えた物語。やっと見つけた、世界の崩壊を止める方法を描いたファイル。

 わたしは自分自身と対話を繰りかえした。
 乗ることをやめる? 予定通り、乗る? 目をつぶり、深く息をする。
「決めた。
 ほんとうにこの世界をわたしが創造しているのならば。誰かがテロを起こそうと飛行機に乗り込んでいたとしても、わたしはそれ以上の強い力で世界の幸せとともに在ればいい。
 たとえ、それで死んでもかまわない。もしもそんなことを考えている人がいたとして、それを止めることができないなら、わたしの存在がそんな程度の影響力しか持ち得ないなら、こんないのち終わらせてしまえばいい。それくらいの強さを持って、わたしは世界を愛して生きてゆくんだ。
 夢に見た、その飛行機に乗ろう。落とされようとしている悪意のしずくを、それさえも包み込み慈しみ変容することのできる強さと静かなよろこびを持って、この宇宙のすべてを愛そう」
 その決断は、静かで強くてやさしかった。そういう決断をできる自分自身の潔さをわたしは愛した。


芳明の風景 到着ロビー

 
「やめてくれ。彼女の飛行機を。やめてくれ」
 誰に祈ればいいのかなんて、わからなかった。けれど、とにかく叫んでいた。僕は車に飛び乗ると、関空へ向かって凄まじい勢いで車を飛ばした。頭の中が混乱して、言葉にならない。
「やめてくれ。頼む」
 あの橋の長さをどれだけいまいましく感じたことだろう。時間にしてみればほんの一五分ほどの間、僕は気が狂いそうになりながらアクセルを踏みつづけた。
「頼む。やめてくれ。お願いだから、やめてくれ。
 その飛行機に、乗るな。ひかり」
 車を停めて、ノートパソコンだけを片手に持ったまま、僕は走り出した。自動ドアが開ききるのを待てなかった僕は、パソコンをドアにぶつけて派手に落っことしてしまった。あわてて拾い上げると、再び猛スピードで走りつづけた。まわりの人たちは、驚いて僕を見ていたけれど、そんなことを気にする余裕なんてこれっぽっちもない。
 ロビーに駆け込むと、カウンターで叫んだ。
「六五一便は。沖縄からの飛行機は?」
「定刻どおりの予定で、もう間もなく着陸いたします」
 カウンターの女性はあっさりとそう答えると、僕の大声に驚きながらも笑顔を絶やさなかった。
「ほんとうに? 大丈夫なんですね。大丈夫なんですね」
「はい?」
「事故とか、なにもないですよね。ちゃんと飛んでますか?」
「はい。お客様、無事にフライトをつづけています。もう間もなく到着いたしますので、もう少々お待ちください」
「よかった・・・・」
 僕はその場に崩れ落ちた。
「ほんとうによかった。ただの僕の勘違いだったんだ。よかった」
 ほっとしたのと同時に、さっき派手に落としてしまったパソコンのことを思い出した。あんなにひどい衝撃を与えたらもうだめかもしれない。
 ロビーのベンチに腰をおろして、僕はやっと出てきた安堵のため息とともにラップトップを開いた。キーを押してみても、画面は復活せずに真っ黒なままだった。さっきはスリープをさせただけだったから、本来ならばこれで元の状態に戻るはずだ。しかし、いくら待ってもなんの反応もしなくなっていた。飛行機が到着するまでには、まだ少し時間があった。動いていないと不安なことばかりが頭をよぎる。ただ座って彼女の帰りを待っているなんてことはできそうにはない僕は、車に電源アダプターを取りにゆくことにした。不吉な事ばかりを考えてしまって仕方がなかった。
 駐車場に戻った僕は、自分の車を見て唖然とした。車のカギどころかドアさえちゃんと閉まっていない。僕は自分の慌てようがおかしくて仕方がなかった。とんだ勘違いで、車はほったらかし、コンピューターも壊してしまうなんて。彼女のこととなると、途端に冷静さを失ってしまうのだから。そろそろこの癖を治さないと身が持たない。
 よくよく考えてみれば、彼女の乗る飛行機が危険にさらされるわけがない。たとえすべての人類が滅んだとしても、彼女だけは生き残れるんじゃないかと思うほどに、いろんなものに愛されていそうな人だっていうのに。僕はなんてことを考えていたんだろうか・・・。
 アダプターとカバンを持って、今度はきちんとカギを閉めて到着ロビーに向かった。


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