芳明の風景 驚愕  008


 空港へと続く道沿いに車を止めたまま、家を出る直前に聞いたニュースの中身をカーラジオでチェックすることも忘れて、僕はコンピューターの画面に映し出される文字を追っていた。時間は刻々と過ぎていったけれど、僕はそのファイルから目を離すことはできなかった。
 軽い気持ちで読みはじめてしまったファイル。彼女が読むなとクギをさしている意味はこれだったのか。
 彼女が名を捨て、家族を捨て、親戚を捨て、過去のすべてを捨て、僕さえも捨てようとした理由。そこには、これまで誰にも明かさなかったであろう彼女の秘められた想いが書き連ねてあった。
 なんと愚かだったんだろう。こんなにもそばにいたのに、どうして彼女の苦痛をなにも理解してあげられなかったんだろう。彼女を助けてあげられた唯一の人間は僕だったというのに。

 まだ彼女が僕の家にいた頃、彼女を驚かせようとして僕はこっそりと家に帰ったことがある。けれど、逆に驚かされたのは僕だった。
 自分の部屋の扉を開けた瞬間、僕は扉を開けたことを後悔し、そのままそっと扉を閉じた。僕が僕の部屋の中に見たのは、ベッドの中でシーツにくるまれていておそらくなにもつけてはいない彼女と、パンツをはこうとして片足をあげている素っ裸の男の後ろ姿だった。
 驚いた僕は急いで家を飛び出した。その日見てしまったことを僕は誰にも言えず、彼女と博史が付き合っていると思い込んでしまった。僕は、勝手に思いこんでいたのだ。両親にも誰にもいえない関係になってしまったことを悩んだ末に彼女が別れを選び、博史にも行き先を告げることなく家を出たのだと。なんて都合のいい解釈だったんだろうか。
 彼女に対する感情が親戚を想うそれではないということを、あの扉をあけたその時はじめて僕は自覚した。

 僕には、ふともらした彼女の言葉の本当の意味を聞く勇気などなかった。
「私、わからない。私ね、大切ってどういうことなのか、人を大切と思うことが、人を好きになるということが、ほんとうはあんまりわからないの」
「君は博史とつきあっていたんだろう。なぜ、君はあの家を出たの?誰にもなにも言わずに。博史にさえ居場所を告げずに」
 そう言いたかったのを僕はこらえた。いやちがう、そのことを彼女の口から聞く勇気など、僕はもっていなかった。だから僕は、訳知り顔で答えた。
「その答えは、多分人それぞれだよ。
 でも、今はわからなくても、きっと、いつか、見つけられるんじゃないかなあ」
「きっと?きっと、いつか・・・」
 彼女は“きっと”と繰り返しつぶやいていた。
「そんなに考えることはないよ」
「芳明の言うとおりだね。きっといつかね」
 彼女は、笑って僕にそう言った。そしてその日以来、悲しい顔ひとつ見せることはなかった。

 僕は気がつかなかった。深く深く刻みつけられた傷も、涙も悲しみも苦しみも切なさも痛みも、すべては彼女のこころの水たまりの中に隠されていただけだったのに。
 どうしてあの時、彼女から真実を聞こうとしなかったんだろう。僕は自分が傷つくことを恐れて、目をそらしていたんだ。だからといって、僕に何をしてやれたかなんて判りはしない。それでも、ほんの少しくらいなら分かち合うことが出来たかもしれない。ひとかけらでも、彼女の重い荷物を持ってあげることが出来たかもしれない。その後の悲劇を止めることができたかもしれないというのに。
 悔やんでも、悔やんでも、悔やんでも、彼女の心に刻まれた傷をいやしてあげることにはならない。僕は自分の愚鈍さを憎んだ。

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