022

FILE 今を生きる


 ねえ、芳明。幸せって、ほんとうに恐いね。
 だから、人は一生懸命になって、幸せになることから逃げつづけるんだろうね。
 バカだね、わたしは。

「きみはきれいだ」
 芳明は、何度も何度も叫んでいた。森中に響く声で、泣きながら。
 自分でも意味がわからないままわたしは泣き叫んでいた。あふれてくる涙を抑えることができなかった。それは、キヨさんといるときに流れてくる、よろこびの涙じゃなかった。不安で苦しくて、すべてがバラバラになってしまいそう。大地さえもなくなって暗い地面の中に落ちていって、もう二度とそこから上がってくることは出来ないような感じがした。わたしは必死で地面にしがみついていた。
 こんなにも大切な人に、こんなにも大好きな人に、抱きしめてもらったのに。うれしいはずなのに、なによりも大切な芳明を傷つけてしまった。なによりも、醜い方法で。
 そんな自分が嫌いで、後から後から涙がわいてきた。
 芳明のことは好きだけれど。こんなに汚れてしまったわたしがそばにいるなんて許せない。博史にすべてを穢されてしまったわたしが、芳明と肩を並べるなんて。
 芳明から離れるために後ずさりをしていると衝撃が走った。ごつごつとした幹のがじまるだった。そこから動くことができなくなったわたしは、両手を伸ばして手のひらを彼に向けて芳明を拒否した。ほんとうは手のひらを上に向けて、両手をひろげて、彼を受け入れたかったのに。わたしの手は、たったそれだけの角度の変更すらも許してくれなかった。自分のこころと身体とがバラバラの動きをしていることに疲れ果てた。力が抜けて、わたしはがじまるに身体をもたれかけた。
 涙を流しながらわたしは振り向いて、その木に触れた。やさしくてあたたかくて、わたしたちのやりとりのすべてを見守っていてくれた木は、わたしがそこにいることを許してくれた。胸が切り裂かれるような痛みと、見守ってくれている木のあたたかさとがないまぜになって、わけがわからなくなってしまった。
 もうどうでもいい。わたしは、どうせ狂ってる。芳明にだって、嫌われてしまった。もう、なんだっていいよ。
 わたしは木にしがみつくと、こらえることをやめて大きな声を上げて泣きつづけた。がじまるを通して胸の中に差し込んできたのは、キヨさんの言葉だった。
「逃げ出すことで手に入る、そんな自由が欲しいのか?
 今を大切に生きることもしないで、手に入る自由が?」
 違う! ちがう。わたしが欲しかったものは、安らぎだよ。やさしい手だよ。
「もう大丈夫。大丈夫さあ」
「キヨさん、わたしもう、逃げたくない。大切なものなんて、他には何もない。大切にしたいものなんて、なにも。
 もう、逃げたくない。逃げるところなんて、どこにもないもの。今、ここから逃げたら、わたしはほんとうになにもなくなっちゃう。恐いよ」
 わたしはがじまるに頬をつけて、涙がこぼれつづける目を押しつけて、自分自身と話をしていた。
「あの日、自分の道は自分で切り開いて歩いてゆくことを決めたの。
 そして今、わたしは幸せに生きることを選ぶ。もう、逃げない」
 木にしがみついて、わたしはやっとのことで決意をした。
「わたしは、わたしの望むように日々を生きてゆく。わたしの人生は、わたしが決める。この惑星を愛するように、わたし自身を愛して生きてゆくよ。
 ほんとうに大切な人を大切にする。未来をおそれることをやめて、今を生きる」

芳明の風景  

 泣き濡れて木にしがみついていた彼女は、しばらくするとテントに戻っていった。僕は一緒に戻っていいものか考えあぐねて、外で月を眺めていた。しばらくすると、ふたたび彼女は外に出てきた。
「芳明、お願いがあるの」
 僕に向かってそう語りかける彼女の目は、真剣そのものだった。
「なんでもいいよ。僕にできることなら、なんでもするよ」
 いつも以上に強い瞳で僕を見ていた彼女は、緊張していた顔を崩してふわっと微笑んだ。
 緊張していた僕のこころも、たったそれだけで和らいでしまった。魔女め。もうなんでもいいよ、きみが笑っていられるなら、僕はそれで。
「壮大な物語がはじまるから。その目で、そのこころで、しっかり見てね」
「なにをするつもりなの?」
「月に魔法をかけるの」
 僕のとなりにぴったりと寄り添うようにして立つと、両手を月にむけて掲げて、僕の視界から月を隠してしまった。かわりに僕の目を奪ったのは、彼女のしなやかで細い指だった。その両手からも、月の光はこぼれてくる。彼女の手も、白い月の光を浴びてはかなげに光っていた。
「ねえ芳明。もしも、世界を思うままに創造できるとしたら、どんな世界を創りだす?
 どんな風に今日を生きる?」
 さっきのパニックになっていた少女はどこかへ消え去ってしまったように、彼女はいつもの彼女に戻っていた。いや、いつもとは少し違っていた。いつもより強い目をしていた。なにか大切なことを腹に決めたかのような。
「世界を、僕が創るなら?」
「そう。わたしは、幸せに生きることのできる世界を選ぶ。芳明は?」
「もちろん、僕もそうだ」
 彼女は、ゆっくりと呼吸を繰り返しながら、見えない月をみつめていた。
「ごめんなさい、芳明。わたし、たくさんあなたを傷つけてきた。ごめんなさい」
 僕が言葉を発しようとすると、彼女はそっと首を振る。
「お月さまはいつも、わたしたちのことを見ているんだね。いつだって」
 僕はうなずくことしかできやしない。両手で月を隠したまま、彼女は話しをつづけた。
「芳明、あなたはなにがあったとか、どうしたのとか、そんなことを一言も聞かなかったね。けど、ただ一緒にいてくれた。
 あの時、わたしは自分でも、なにをしたのか、なにをしようとしたのか、ほんとうはまったくわかっていなかったんだ。自分自身になにが起こっているのかも」
 僕は彼女の告白をただ黙って聞いていた。
「わたしはただね、龍宮城へ行きたかったの。そこでなら、もう苦しむことなく生きてゆけるのかなって。
 人を恐いと思う。そんなこころを持っているわたしが恐いよね。だけど、男の人が恐いという気持ちを拭いきることができないの。わたしはこんなにも汚れてしまった。こんなに汚いわたしがあなたのそばにいることがね、わたしは許せないんだ」 
 彼女のこころの奥底には、誰にものぞくことのできない深い谷が存在していた。
「どんな言葉なら、きみに届くんだろう? きみはほんとうにきれいだよ。なんで僕が今この島にいると思っているの? すべてをほったらかしてすっとんできて、今ここに。
 幸せな今日を生きることを、僕は選んだんだ。それは、きみと一緒にいることだ。汚れていようが、きれいであろうが、そんなこと関係ない。僕が一緒にいたいからいるんだよ。なにが文句あるんだよ」
「文句なんて、ないよ」
 彼女は真っ直ぐに両手を見つめて、その後ろに隠されている月を眺めていた。
「僕が、そばにいて欲しいって望んでも? どこにも行かないでくれって、頼んでも? きみは僕の横にきみがいることが許せないの?」
「キヨさんがね、自分を愛することを学びなさいって言うでしょ。そんなの、わかんないよ。でも、いろんなことを模索して、悩んで、葛藤することも生きるということなら、その必死さが愛なのかもなって、思うようになった」
 愛だとか、生きるとか、そんなことを真剣に考えたことなんてなかった。
 愛の本質がどういうものかなんて、僕こそわかってやしない。第一、愛そのものを理解している人間なんてこの世界にどれだけいるというんだ?
「キヨさんと出会って、芳明とこの島で一緒に時を過ごして、大きな愛ってものを知るようになったんだ。それは太陽が地球に光を注いだり、海の水が魚たちを自由に遊ばせたり、そういう大きなものね。
 人が人を愛して愛されて、愛し合って、わたしにはそれがどういうものなのか、わからないの」
「ほんとうに好きならば、きみを傷つけたりなんかしない。僕は、きみが傷つくようなことをしようとさえ思えない。あいつがきみをいくら愛していると叫んだところで、そんなものを愛なんて呼ばない」
「やめて!」
「あいつはきみを愛してなんかいなかった。きみにこれほどの苦しみを背負わせるために命を絶つなんて、愛していればできるはずがない。どうして、誰もそのことをきみに教えなかったんだろう。たった、たった一言で、きみのこころが救われたかも知れないのに」
「救われる?」
「ああ、そうだよ」
「誰かの一言で救われたりなんて、ほんとにするのかなあ?」
「少なくとも、僕は断言するよ。きみはなにも悪くなんかない。
 だけど、死んでしまおうなんて、きみの選択はまちがっていた。」
「なんでこんなことが自分の身に起きるの?って。もう笑うしかないようなこととか、想像もつかないいろんなことが起こると、どうしてよ?って思うことあるよ。でも生きて行くしかないんだよね。目の前にある人生を生きて行くしか、それしかないんだよね。
 生まれてきたからには死ぬまでは生きなくちゃなんない。そんな当たり前のことがやっとわかった。だったらわたしは笑って、踏ん張って、たまにはへこたれたって、それでも笑って生きていたい」
 この島がこんなにも彼女のこころを開放し、こんなにも強くした。彼女はほんとうに龍宮城にいったんじゃないだろうか。そして、龍の王様から大きな大きな生命の秘密を教えてもらったに違いない。
「わたしは、幸せな今を生きていきたい。芳明がわたしといることが幸せって言ってくれるのは、すごくうれしい。でも、どうすればいいのかわかんない」
 月に掲げる腕はそのままに、彼女は下を向いてしまった。まるで、両腕で月の女神に捧げものをしているみたいに。
「きっと人間も、月と同じリズムで暮らすのが一番いいんだよ。一年に一三回、ゆっくりとまるくなって、ゆっくりとなくなって。そうやって満ち欠けをくり返して、月は何度も何度も生まれ変わっていくんだよね。
 人間も、覚醒して、そして忘れて、また傷ついて。そして生まれ変わって、そうして何度も何度も、同じことをくり返してきた。みんな。誰もが」
 それは彼女がこの島にいる間、キヨさんから学んだシンプルな生き方だ。この島だけではなく、世界中の先住民がそのサイクルで今も暮らしている。
「お月さまは、いつもわたしの話しを聞いてくれる。わたしがつらいときも、さみしいときもね、いつも空で笑って輝いてる。月の道を見ていると、わたしもその道を通って月に帰りたいって、そう思う」
「きみは、かぐや姫なのか?」
「そんないいもんじゃないけどね」
 そう言いながら、彼女が僕の目の前から手をどけると、まんまるだった月は、その姿を変えていた。
「なに? なにをしたの? 月が欠けているよ」
「こうして、お月さまも生まれ変わるの」
 空に染みいるような声で彼女はつぶやいた。僕は呆気にとられたまま、ぽかんと口を開けて欠けてしまった月を見ていた。彼女はずっと挙げていた手に血を戻すようにぶんぶんと振り回している。
「すごいねー」
 今度は座り込んで、空を見上げている。
「一体、なんなんだ・・・ これがきみが創造する世界なのか?」
 あまりにも惚けたまんま空を見ている僕の姿を見て、彼女は吹き出した。
「まさか芳明。ほんとに魔法だと思っているの?」
「まさか・・・。でも、なぜ月が? きみは、何をしたの?」
 月を眺めていた彼女は、ゆっくり僕をみると目をまんまるくして大笑いした。
「・・・月蝕」
 僕は恥ずかしすぎて顔が真っ赤になった。欠けてゆく月の光はやわらかく僕らを照らしていたので、彼女には赤い顔は見られてはいない。きっと。
 僕らは、欠けてゆく月を眺めつづけていた。
「ありがとう。こんなところまでつれてきてくれて」
「ううん。僕も楽しいよ。それに、こんなところ、ひとりで来られないだろう」
「うん。ひとりだったら、恐くてダメだね。だけど芳明と一緒だと、なにも恐くないよ」
 そう言うと、彼女は僕の肩に頭を預けて眠りについてしまった。彼女の寝顔を見ながら、僕は複雑な気分にさいなまれていた。僕らが恋人同士ならば、これほど幸せな光景はないだろう。幼い頃から家族のように育った僕らは、互いのことをあらかた知りつくしている。けれど彼女は、僕が子供の頃から彼女を大好きだったことだけを知らない。
「幸せに生きることに決めたの」彼女はそう言った。
 僕はその中にいる? きみの幸せな世界に?
 答えを唯一知るものは、となりで安らかな寝息を立てていた。彼女の吐息が、甘く切なく僕の胸を苦しめる。僕のすべてを翻弄する天使で悪魔で聖女のような女。彼女を自分のものにしたいと思う葛藤の深さも、こんな関係もいいかと納得してしまっている不甲斐なさも、そういうことのすべてを僕は楽しんでいた。欠けていく月に見守られて、彼女の温かさを感じながら僕も目を閉じた。
 夢の中で見た景色は、やわらかい幸せな光景だった。
 やさしい顔をした男の人と女の人がその部屋の中にいて、その顔を僕はよく知っていた。彼らは僕には気づかずに、愛しいものをただただ見つめていた。それは、最後の方はいつも疲れ果てたイライラした顔を見せていたあのふたりだった。僕はこころから驚いていた。あの人たちも、こんな風におだやかに笑うことができたのか、と。
 赤ん坊を抱いておっぱいを飲ませている慈しみに満ちた聖母の肩を、お父さんがやさしく強く抱いていた。充分に乳を飲んだ娘は、まるい瞳を父母に向けて笑い声をあげた。父親は片手で妻の髪をなで、もうひとつの手で娘の頬をなでた。
「真実に咲く花のように、陽の光をたくさん浴びて、たくさんの愛を身体に満たして、その香りで人々を包みこむことができるように。そういう想いを込めてこの子に名をつけよう」
「ええ。いい名前だわ」
「俺は親バカだろうか」
「そんなことはないわ。この子はきっと、そんな風にやさしい女の子に育つはず。わたしたちの子供ですもの」
 両親の想いに包まれながら、赤ん坊はゆったりと眠りについた。


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