003

芳明の風景 再会

 突然の失踪から一年が過ぎた頃のことだった。電車に揺られていた僕の目の前に飛び込んできたのは見覚えのある細い肩。明るい日差しが差し込む車内は、うすいヴェールがかけられたように、かすみがかっていた。そんな春の日差しの中で、そこだけがひときわ明るさを放っていた。
「・・・」
 何度も何度も、僕はこのシーンを夢で見てきた。
 あわてて近づいて肩をたたくと、振り返るのは、彼女とは似ても似つかない他人。そして、怪訝そうな顔で僕のことを見るのだ。僕は飽きるほどに見た夢の中で、さまざまな見ず知らずのひとに冷たくあしらわれてきた。そして、その夢から覚めるたび、舌打ちを繰り返した。
 たとえ夢であってもいい。きみに会えるなら。何度そう思いながら、夜を過ごしてきただろう。
 けれど、これは、夢じゃない。夢であったとしても、これは他人じゃない。後ろ姿でも、僕にはわかった。
 あの人だ。
 静かな興奮に包まれて、僕はゆっくりと車両の中を歩いてゆく。まるでスローモーションのように世界が動いていた。電車の振動も、音も、流れる景色も、乗客たちも。
 一足踏み出すごとに、彼女に近づいてゆくごとに、鼓動は激しさを増してゆく。口から心臓が飛び出してしまうんじゃないかと、思わず口を抑えてしまうほどに。クーラーの効いた車両の中で、僕だけが汗を流していた。
 これほどまでに、僕はこの瞬間を待っていたのか。彼女の肩に手を触れる、この時のことを。
 彼女にかける言葉を見つけることができなかった僕は、深呼吸をして彼女の肩を後ろからそっと叩いた。
 突然のことに驚いたのだろう、ビクッとした彼女がそっと振り向く。その驚きが、再会の驚きに変わる瞬間の彼女の顔、その変化がどれだけ美しく僕に喜びをもたらすだろうかと期待をしながら、その一瞬の変化を待った。
 彼女は驚いた表情で振り向いた後、僕を認めると一瞬でその顔を変化させた。けれど、その変わり様は僕の望んだものとはまったく違っていた。彼女の顔はこわばって、長いまつげだけが上下した。再び動いた瞳は氷のような力で僕を射抜いた。そして、視線を僕から外した後、ちょうどひらいたドアからホームへと降りていってしまった。
 何度も見た夢の、見知らぬ人々の対応よりも冷たい光景に、僕のこころは砕け散ってしまいそうだった。胸に激しい痛みが走って、僕はその場に立ちつくしていた。
 発車のベルで我に返った僕は、あわてて電車を降りた。彼女は振り向いて、電車を降りた僕を認めると、ものすごいスピードで走りはじめた。
「なんだ? なんなんだ?」
 僕は、あまりのショックにわけがわからなくなってしまった。
 彼女の名を叫びながら走りつづけた。改札口でやっとその腕を捕まえると、彼女はあきらめたように大きなため息をついた。
「なんなんだよ。どうしちゃったんだよ。連絡先も教えないで。なんで僕にさえ教えてくれないんだよ」
 荒い息で、途切れ途切れそういうのがやっとだった。
 彼女の細い腕、すり抜けはしない。夢じゃない。今、僕がつかんでいる、この腕が現実だ。僕の前には、彼女がいる。
 黙り込んでうつむいてしまった彼女が、もう一度大きなため息をついた後に決心したようにぽつりと言ったのが、あの言葉だった。
「なにそれ?」
 下手な冗談だと思った僕は、軽く聞き返した。
「名前はないので、好きな名前で呼んでください」
 僕の手をあっさりと振りほどくと「聞こえなかったの?」とでも言うように、彼女はもう一度繰り返し答えた。さっきと、まったく同じトーンで。
「なんなんだよ? なにがあったの? なんで?」
 彼女の意図することが、僕にはまったく理解できなかった。けれど、僕はしばらく考えた末に、彼女のゲームにつきあうことにした。幼い頃のように彼女の名前を軽々しく口に出せる雰囲気はまるでなかった。そのようにしてしまえば、この再会は一瞬のすれ違いで終わってしまう。
「じゃあ、僕はきみに名前をつけない。名前のない女、それがきみだ」
「ありがとう」
 彼女はそう言うと、花のように笑った。
 この時、僕は知る。どれほどまでに、この瞬間を待ち望み、渇望してきたかを。その笑みは、砂漠を放浪した果てに出会ったひとしずくの水のように、僕に染み渡っていった。そして、僕の細胞はようやくいのちの活動をはじめた。
 彼女に名前がなくても、困ることはなかった。彼女は彼女であったし、僕の前にいるときも、回想の中でさえ彼女は『彼女』という確固たる存在として輝いていた。名前というものが、そもそも記号でしかないことを、僕は彼女に教えられたのだ。
 彼女は、ある日記号を捨てた。それはつまり、その記号に付属していたものすべてを捨て去ったということだった。それまでの彼女に関係するすべてのこと。家族も親戚である僕も。
「名前がない」ということがどういうことなのか、名前を捨てるということがどれほどの意味を持つことなのかを、あのときの僕は考えてもみなかった。
 目の前に彼女がいることの喜びが、ほかのすべてを色あせさせた。
 それなのに、僕の世界は彩りに満ちていた。この再会が、僕の世界をガラリと変えてしまうなんて、あのときの僕には想像することさえできないでいた。

 あの昼下がり。
 僕と彼女をとりまくすべての物語がふたたび動きはじめた。


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