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FILE 海へ

 漁港を一望できる高台の、何十本もの木がそれぞれに存在を語りかけるその場所の一番大きながじまるの樹。その威厳ある木の地上に張り出した根っこの上にわたしは座っていた。それほど高くもない丘に登るのに、ゆっくりと一歩一歩踏みしめるように足を出さなければならないほどに歩き疲れ、陽射しに灼かれつづけた身体中が悲鳴を上げていた。
 空と海の境目がどこだかわからないほどに空は青く澄み、海も青く輝いていた。
「ここだ。この場所だ。間違いない。芳明、たどりついたよ」
 海から吹いてくる風が、人魚たちの笑い声を運んできそうだった。この空とこの海を、龍が楽しそうにうれしそうに、いきいきと舞い泳ぐのだ。
「ここは?」
 わたしは浮かんできたある想いをもみ消した。
「まさか、ね・・・」
 水筒の水で手を洗い顔を洗った。疲れ切った身体を風が癒してゆく。右手の甲で額の汗を拭うと、がじまるの根に少し水をたらし、残りの水を飲み干した。
 大きな幹にもたれかかり、前かがみになって靴ひもをほどいてブーツと靴下を脱ぎさった。この夏の島でブーツを履いている自分の季節感のなさがおかしかった。
 長く伸びた枝が創り出す日陰。ひんやりとした大地が足の裏を冷やしてゆく。あちこちにまめのできた足が開放感に喜んでいた。生の足で直接踏む島の土は、身体中の熱を冷やしてくれるような冷たくやさしい感触だった。足を投げ出して座ると、その開放感にうれしさがこみあげてきた。光が当たる右側の足の甲の血管が青く浮き出している。
「まだ、わたしは生きているんだなあ」
 ふと、そう思った。
 目を細めながらでないと見ることさえできない、まぶしく降りそそぐ太陽の光。掌ににじむ汗をジーンズで拭いて、何度も何度も唇をなめた。乾燥して皮のむけかけてきたその唇が、わたしの緊張を表現していた。顔も日焼けしてしまって、真っ赤になってむくんでいる。
 風に吹かれながら、揺れる枝先を眺めながら、たった数日でがさがさになってしまった唇をゆっくりとひとさし指でなぞった。指先にひっかかる皮を爪で掴み勢いよく剥ぎ取ると、ピリリとした痛みが快感のように全身を襲う。ぬるっとした血が、縦に引き裂かれた皮膚から流れ落ちた。ぬるいしずくを舌先で拭い取りながら、身体に流れている赤い血を想像した。この唇よりも赤い血。熱く、香り立つ、生命を支える流れ。傲慢な、女性的な、その水。
 女であることのすべてが、わたしにとっては恨めしかった。その血が女であることを象徴するものだとすれば、わたしはその赤い水のすべてを流しきってこの生を終えたい。あの男の行動が愛から出たものだとするならば、わたしには愛など必要はない。この腕も、この顔も、この胸も、この足も、この髪も、この性器も、すべてが汚らわしい。わたしの肉体のすべてがあの男の死をかけた呪いで汚されているのだ。
 もう美しく飾りたてるために、唇に紅を塗ることもない。この唇から言葉を紡ぎ出すことも、この唇を使って食べ物がこぼれないようにする必要さえない。息を吸い息を吐き出すという、生きていれば当たり前の、それでいて強烈にエゴイスティックな作業である呼吸を。地球が生みだし、植物たちが浄化する貴重な酸素を体内で汚染し、二酸化炭素にして吐き出すという、おぞましいことですらこの唇を門にしなくてすむようになる。もう少し、あと少したてばわたしという存在は失われ、この大地へと戻ってゆくのだ。

「ごめんね」
 誰にいうともなくつぶやいて、わたしは失笑した。
 今さら誰に謝るというのだろうか。生きていることさえ、過ちのようなそんな想いにかられているというのに。謝りはじめれば、それこそきりがない。
 生まれてきたことへの謝罪? 今さらそんなことを言ってもはじまらない。
 両手を伸ばせば届きそうなくらいに空は近かった。わたしは座ったまま両手を掲げてその空に見入っていた。
「わたしはあの空へ飛んでいけるのかな」
 空の青と、木々の緑と、こころの中の赤い血が見事なコントラストを描いていた。強烈な美しさをもってこころに迫ってきたそれらは、わたしの胸を締めつけた。しかしそれも、少しの間だった。太陽の光が強すぎて、わたしの目はすべてを黒く暗く映しはじめたから。
「ここまでは、追ってこれなかったのかなあ」
 この島に降り立ってから、博史の幻影に苦しめられることはなくなっていた。わたしがここで命を絶てば、喜ぶのはあいつくらいなのだろうか? 死んだら、また博史のもとにいかなければならなくなるの? それは、いやだ。
 呪縛から解き放たれるために、最後の祈りくらいは自分のために捧げても許されるだろうか。わたしが中途半端に命を投げ出してしまうことを「声」は許してくれるだろうか。もう、そんなことを考えている余裕もない。どのみち、わたしには生きる資格もないのだから。
 全生命をかけて、龍の王様の元へ身を投げよう。
 足を投げ出したまま、背筋を伸ばし空へ顔をむけ目をつぶり両手を組んで、最後の祈りを空と海へ捧げはじめた。
「あなたの海にこの身を沈めることをお許しください。どうぞ、この身体を地球にかえしてください。与えられた命を、自ら断つことをお許しください。わたしを、どうか誰にも縛られることのない自由な海に。
 そして、この魂を龍の王様のもとへ」
 海からの風は、気高く潮の香りを運んできた。この命の火が消え去ったあとも、海は美しく、空は深く、風は薫るだろう。人類が、滅びることを選択しない限りは・・・。
「世界が滅びる夢」の世界に想いを馳せ、胸を締めつけられたわたしは、最後の祈りを捧げ、想いのすべてを神に託すことにした。
「あとに残る、すべての命あるものが限りなく幸せでありつづけられますように。苦痛も憎悪も歪んだ愛もすべてが消え去り、愛のもとから出たものが、愛とともに育まれ、愛のもとへふたたび帰ることができますように」
 下腹部が急に熱くなり、怒りにも似た感情が身体を昇ってきた。ゆっくりゆっくりと上昇をつづけるその熱で、身体中の細胞が覚醒したかのように粟立ち、皮膚がざわめいた。髪の先まで染み渡るような、血の流れを越えた波動が身体中を支配していた。
 すさまじいエネルギーが身体の中心部を通り過ぎ、あっと言う間にわたしの身体を貫いてゆく。大地から湧きいでて、まもなく海に帰るはずのこの身体を駈け上ったその力は、頭頂から抜け出て天高く昇っていった。
 力が頭頂を抜けた瞬間、額が強烈な熱さを放って全身をその光で染めた。そして、わたしは目ではないところで、世界を見はじめた。自分の身体になにが起こっているのか、もはや理解することは不可能だった。
 音もなく、白黒の写真のようなものが空を舞う。さまざまなシーンがそこには写しだされていた。山の中に墜落する飛行機、燃える木々、泣き崩れてゆく芳明。
「やめて、もう許して。わたしには、もうなにもできない。それを止めることも、誰かを助けることも」
 その映像がわたしに伝えてくること、それは「ここだ」というただそれだけだった。
 わたしは、丘を駆け下りて岬に走り寄った。もうどんな映像も見なくてすむように。
「教えて、龍宮城への道を」
 エメラルドグリーンに輝く水、人魚の棲む海。最後の思いを口にしながらわたしは、聖なる海に飛び込んだ。
 海の水の中にいるというのに、鳥になって空を羽ばたいているような気がした。息苦しさも、海水の苦さも、なんの苦しみもないまま、青くどこまでもつづく自由な空を。
 誰にも憎まれることなく、誰にも厭われることなく、誰にも止められることなく、誰にも求められることなく、誰にも愛されることなく。
 純白の翼をきらめかせて、はじめて羽ばたく鳥のようにきらびやかに海の空を飛んだ。


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