芳明の風景 月光(1)  025

 僕らは、沖縄にいる間いろんな遺跡を見に行った。海の中に沈んだ先文明の遺跡といわれる海底遺跡や海底鍾乳洞は、ダイビングが出来ないのであきらめたが、最後の聖域として本島北部にある宜名真の洞窟を探索することにした。一般的にはほとんど知られてはいないその洞窟は、辺土御獄と呼ばれる聖地のすぐ近く、そして海底に沈む魅惑的な鍾乳洞のすぐ近くにある。僕らは、彼女のある直感に従ってそこにやってきていた。

 昼過ぎに家を出発して、途中あっちこっちでふらふらと休憩をとりながら、古くてちいさな車で走り続けてきた。夕方、御獄近辺のキャンプに適した平地を見つけると、そこにテントを張って一夜を過ごすことにした。月が中空にさしかかる頃、彼女はペットボトルだけを持ちテントのファスナーを下げて外に出ていった。
 月の光が明るすぎて、星たちはその姿を隠してしまっていた。排気ガスに汚染されていない空は、普段なら数え切れないほどの宝石のようなきらめきに包まれているのだろう。
 ゆっくりと靴を履き、僕の方をちらっと振り返った彼女。淡い月の光に照らされたその笑顔は、妖しくそしていたずらに輝いていた。僕もあわててテントからでると靴を履いた。キャップを開けたペットボトルを、何も言わずに僕の方に差し出す彼女。ボトルを受け取ろうと手を出した僕に、彼女はゆっくり首を振って「ちがうの」と告げた。そして、今度はボトルの飲み口を少し傾けて僕の手に近づけた。
 手を洗えといっているのか。やっと彼女の真意がわかった僕は、しゃがみ込んで両手を広げて差し出した。僕の手のひらには冷たい水が流された。水に触れた手がさわやかな夜の風に吹かれて、全身が禊ぎのあとのような気持ち良さに包まれた。僕がきれいに手を洗い終えるのをニコニコしながら眺めていた彼女は、そのボトルを今度は僕に手渡した。
 手を洗うことだけがうれしいわけではない。彼女はこの旅に来てから、ずっとニコニコしっぱなしだった。うれしそうに目を輝かせて、少しのものでも見過ごすことがないように心に決めているかのように、その大きな目を更に見開いてあたりをくまなく見つめていた。そして、急に目をつぶったかと思うと、どこまでもどこまでも内面深くに降り立って会話をしている。
 よかった。
 僕はそんな彼女を見て、心の底からホッとしていた。彼女が沖縄に渡った理由はとてつもなく苦しくつらいものだったけれど、ここに来てからの彼女は、人が変わってしまったようにいきいきと輝いていた。
 これまでずっとひとりで抱えてきた重い荷物を、やっとおろすことができたのだろう。あらがいようのないほどの大きなうねりのようなものに巻き込まれながらも、それにあらがうことしか知らない彼女は、流れに逆らい続けて消耗し翻弄され続けてきた。彼女はその抑えきれない行き場のない想いを、より大きな存在にゆだねることを学んだ。そう、それが祈ることだった。
 祈ることを知った彼女は、とても幸せそうに笑えるようになった。その笑顔を見ている僕までを幸せの空気に巻き込んでしまえるほどの強さで。
「芳明、あの子と一緒にいるということの意味をお前はそのうち知るだろう。そのとき、恐れずに一緒に歩いていくことができるように。今、理解することはできなくてもあの子が見ている世界を見るようにしなさい」
 キヨさんは、僕とふたりになると、彼女が抱えている未来のことを話してくれた。彼女が選ぶかもしれない、未来のひとつのことを。
「そうなるかもしれない。そうはならないかもしれない。
 それは、すべて一瞬一瞬の選択の上に成り立っている未来だからだ。けれどね、芳明。あの子が、そのことを本心で望んでいるならば、きっといつの日か大きな選択の瞬間を迎えることになる。
 それがどういうものなのか、おばあにもみえないさ。けれど、芳明にならわかるさ。あの子とその瞬間をともに迎え、それを越えてゆくようにお前はあの子といることを選んでいるのだから。
 勇気を持って、自分を信じて、祈りとともに、愛の道を歩いてゆきなさい。どんなものよりも強いのは、そういうことだわけ。それ以上は、おばあに言えることはなにもないさ」
 キヨさんのいうその瞬間がどういうものなのか、僕にはなにもわからない。これ以上に大変なことが彼女に降りかかってくるのか、それを僕と一緒に迎えることになるのか。それは一体いつのことなんだろうか。僕は、その瞬間、彼女のことをしっかりと守ることができるだろうか・・・。
「ねえ、芳明、見て」
 手を洗おうとしているちいさな手のひらに水を注いだとき、彼女ははじめてちいさな声を発して僕を呼んだ。子供の頃のひそひそ話のような、ふたりだけの内緒話に誘うようなそんな声のかけ方をする彼女。ときめきにも似た甘酸っぱさが僕の胸をぎゅっと握りしめた。僕は、彼女の横に寄り添うようにして、それを見た。
 彼女の手に月が舞い降りて、ほほえみかけてくる。彼女の手のひらの中に、全天を明るく彩り、木々を黒く深い緑に映えさせていた輝きの源が映っていた。
「お月さまのパワーが凝縮してそうなすごい水だね。すごいすごい」
 うれしそうにそう言うと彼女は、しばらくその月を眺め、一口その水を飲んで顔を洗った。こぼれんばかりの笑顔で手を差し出す彼女にふたたび水を注ぐと、今度はその水を勢いよく僕にふりかけた。
「うわー」
 月の光の染み込んだ水で僕の頭はずぶぬれになった。ぽたぽたと滴がしたたり落ちてくる。急な攻撃に驚いた僕は首にかけていたタオルで頭を拭った。笑いながら、ちょっと困った顔をしながら。彼女はそんな僕を、声を上げて笑いながら見ている。その笑い声が、空に響いていった。
 髪留めをはずして黒くたっぷりとしたその髪を降ろすと、彼女はふたたび僕に手を差しだした。ゆっくりと手のひらに満たされたその水を、こぼさないようにしてうやうやしく頭上に掲げる。そのまま目をつぶると至福の表情を浮かべたまま、ゆっくり深呼吸をくりかえした。満月の愛をその全身に充分に受け取った彼女は、ぱっと手のひらを返して頭の上から水をかぶった。長い髪が月のしずくを受けて輝いている。
 彼女の周囲に流れている空気はゆったりとしていて、その中に包まれていると僕は不思議な安心感というか、言葉では表現することのできない心地よさを感じることができる。
 それを生み出しているのが、彼女の敬虔な祈りなのであれば、僕にはそれを否定することはできない。いや、否定しようとさえ思わない。第一、その祈り以外に彼女を解き放つことのできるものを僕は知らなかった。
 彼女の祈りは宗教の枠でくくれるものではなく、なにか大きな存在にすがって救いを求める祈りではなかった。彼女は僕に祈りをすることを強制したり、すすめたりすることさえしない。
 名もなき彼女に出会って教えられたことは、食事の前の「いただきます」と、食事のあとの「ごちそうさま」だけで、すべては「ありがとう」のこころから発してゆく、日常のささいな感謝だった。
 美しいお月さまにありがとう、生命を育む太陽にありがとう、酸素を生みだし大気を浄化する木々にありがとう。彼女の祈りも「ありがとう」の延長線上にある。
彼女が「ありがとう」と言って笑うと、月も太陽も、世界が笑っているようにさえ見える。彼女が祈りを手に入れたことを、僕は神に感謝した。

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春名尚子

惑星のかけら 2004

どうして世界はこんなにも歪んでしまったんだろう・・・すべてのひとがしあわせに生きられる世界はどうすれば創ることができるんだろう・・・ 世界が滅びる夢を見つづけてきた少女の旅の物語。 20年ほど前に書いていた物語です。古い設定もそのままに発表します。
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