011

第三章

FILE  声

 そこでは
 すべての存在が生命を謳歌している。
 すべての個性は開花され
 美しく、はかなく、厳しく
 あるがままに愛されている。

 清も濁も混沌とし
 静も動も同時に存在し
 善も悪もまた和合している。

 緑はただ緑として、花は花として。
 風は吹き、雲は流れ、子どもたちは笑い、女たちも男たちもほほえんでいる。

「ねーねー? えー、ぬーそーがぁ?(お姉さん、なにをしているの?)」
 誰かがわたしに声をかけていた。
 目を開けると、まぶしい光が瞳を突き刺した。青く美しい空がひろがり、風が強く吹き抜けてゆく。世界のその美しさにこころ奪われ見入ってしまっていた。
「なにをやっているわけ? ねーねー? なんでこんなところで寝ているか?」
 わたしは仰向けになって横たわっていた。
「あんたは、自分にヒレでも生えていると思っているわけ? それとも、エラ呼吸でもするわけ?」
 あまりにもおっとりとした声の呼びかけで目を覚ましたとき、わたしは自分が自殺するために海の中に飛び込んだことを忘れてしまっていた。
「なんで、自分で自分を殺そうとする? あんたのやろうとしていることは、人殺しさぁ」
 耳に飛び込んできたその言葉に、急に恥ずかしくなった。その人の前から消え去りたかった。思わず身体を横に向けると、急に水があがってきた。どこに入っていたのだろうかと思うくらいのたくさんの水を吐き出し、猛烈に咳込んだ。
 気管に海水が入り、痛くて苦しくて咳は止まらなかった。ぜーぜーと荒い息をしながら、再び仰向けになると、わたしは腕を顔の上に乗せて目をかくした。涙があふれて止まらなくなったからだった。なんの涙かはわからない、ただただ目から水があふれ出していた。
「で、生きるの? 死ぬの?」
 わたしの顔をのぞき込みながら、声の主はするどくそう言った。

「さぁ、乗って」
 ボロボロの軽自動車の助手席のドアが開けられた。
「でも、濡れているから」
「じゃ、脱ぐかい?」
「いや、それは・・・」
 わたしが言葉に詰まっているとおばあさんはゴーカイに笑った。
「いいさ、濡れていても。この天気さ、すぐ乾くさぁ」
 家に着いて車から降ろされると、そのまま浴室に連れて行かれた。
 あっと言う間に濡れた服を脱がされて、わたしは子どものように裸にされていた。恥ずかしいと感じる暇もないうちに、
小さな椅子に座らされ、次の瞬間にはぐいっと頭を押さえられてシャワーをかけられていた。
「こんな若い娘が、何をやっているのかねぇ・・・。ガリガリに痩せてしまって」
 お湯のひとしずくひとしずくが身体に染み込んでゆくようだった。やさしくてあったかくて、こころの中で凝り固まっていたものが、じわじわと溶け出して行くような気持ちよさだった。うれしくて、そしてあたたかかった。
 おばあさんはわたしの髪を洗いはじめた。
「こんなにもきれいな髪を、バッサバッサーにしてからさぁ。ほんとにこの子は」
 やさしい指先が地肌をほぐしてゆくように洗いつづける。シャンプーの泡が目に入ったわけでもないのに、わたしの目からは涙が流れつづけていた。
「わたしはただ、助けなさいと言われただけだよ。それに、人が行き倒れていたら、別に神さまに言われなくっても助けるさ」
「神さま?」
「今朝、夢を見たわけさ。天からの使いが海に舞い降りてくる夢を。やしが(ところが)、よくよく見てみると、天の遣いどころか、ふりむん(愚か者)さあねぇ」
「ふりむん?」
「あんたみたいなことさ。」
 おばあさんは、髪を洗う手を止めてわたしの頭を軽く叩いた。ペチャンと情けない響きが浴室にこだまする。
「今日は旧暦の一日でうがみをする日だったわけよ」
「うが?」
「ウタキでうがみをいれていたら、『海の少女を助けなさい』といわれてね」
「はあ。誰に?」
「だから、神さまさぁ・・・」
 おばあさんは、まだわからないのか? と言いたげにため息をついて頭の泡を流しはじめた。
「あんなところで泣いていると、ほんとうに海に還ってしまうさあ。人魚のように。
 つらい思いをいっぱいしてきたねえ。がんばって、きたんだねえ」
 そこまで話して手を止めると「その苦しみ、どうやって溶かすかねぇ」とポツリと言った。
「まずは、たまっているものを流せばいいさ。涙は海に帰しなさい」
 髪をきれいに洗ってくれたあと、おばあさんはそういって、もう一度わたしの頭をペチャンと叩くと浴室から出ていった。わたしは熱いシャワーを顔にあてていつまでも涙を流しつづけた。いくら泣いても泣いても、涙は涸れることはなかった。

「名前は?」
 おばあさんにそう聞かれたとき、わたしは自分の名を答えることができなかった。
「あいっ。忘れてしまったわけ?」
「わたしには、名前などありません」
 おばあさんは、なぜか笑いながらうなずいていた。
「これから見つければいいさ。自分に一番似合うと思う、名前をさ。ほんとうに大切だと思える名前をねぇ。大丈夫、見つけられるさぁ」
 おばあさんはそう言いながら、冷たいお茶をコトンと置いた。長い間、使いつづけてきただろう、日々の暮らしが刻まれた机に。たったそれだけだったのに、なにが起きたわけでもないのに、涙があふれだした。ぶわっと、急に、勢いよく。わいてきた涙は、大粒のしずくになって、ぼとりぼとりと、顔を上げられなくなったわたしのひざに、手に落ちた。
 おばあさんの家の畳の匂い、庭に咲いている白い花、海の匂いを運んでくる風、机の上のおまんじゅう。それらの、なにも悲しみを引き出したり思い出させたりなどしない、優しいものたちに囲まれながら、置いてきたすべての感情に対して涙が流れだしていた。
 おばあさんの居間で、小さくなって泣いているわたし。そっと近くに来てくれると、おばあさんは髪をなでた。その手のあたたかさに引き寄せられるように、涙はどんどんあふれつづけた。
「おばあさん、なにをしたの?」
「あいっ、おばあのせいか? それも、いいさぁ。なんでも、いいわけよ」
 おばあさんはわたしを抱きしめて背中をやさしく叩いてくれていた。それは、幼い頃に泣いているわたしに母がしてくれたことと同じだった。
「もう大丈夫さ。いっぱい、いっぱい泣いていいよ。おばあがそばについているさ」
 おばあさんからはお日様の匂いがした。ゆっくりゆっくり呼吸をするたびに、おばあさんの胸が動く。その揺れに身をゆだねていた。
「死ねなかったのだから、生きるしかないさ。死にたくなくても死ぬ人もいて、死にたくても死ねない人もいるさ。
 神さまを試すのは一回でいいさ。もう、繰り返す必要はない。まだ死ねないのはさ、仕事を終えてないからさーね」
「仕事?」
「それよりも、何も食べずにここまで来たわけ? 大阪から? ほんとのふらー(愚か者)だねぇ。
 まっちょーけーよ」
 おばあさんは、そういって台所に消えていった。
「まっちょーけ?」
 くすりと笑いがわいてきた。おばあさんの話すその言葉のほとんどがわからなかったけれど、響いてくるリズムの優しさの気持ちよさに、わたしはすべてをゆだねていた。
 こんな人がおかあさんだったら、わたしはもっと幸せだったかなあ。
 これ以上、こころを閉ざしている理由なんてなかった。裸だってみられてしまったし。ハナミズを垂らしながら泣いているわたしを抱きしめてくれた、この人に。
 台所から聞こえてくる水の音、食器がたてるカチャカチャ、まな板と包丁が遊ぶ音。人のたてる音がこれほど心地よく聞こえるなんて。
 やがて、居間にかえってきたおばあさんが出してくれたのは、薬草がはいったおかゆだった。
「さあ、食べなさい。栄養がいっぱいだよ。これを食べて、元気にならなかった人なんて今までひとりだっていないさ」
「ありがとう」
「あんたはしばらく、うちにいなさい。死ぬつもりだったんだ。別にこれから先、どう生きたっていいさーね。死んだと思って、ここで遊んでな。天国なんて、つまらないよ。それよりは、この世の天国ゲームで遊ぶさー」おばあさんはそう言って、お茶を飲み干した。


芳明の風景 

 その電話を受けたあと、僕はすべてのものを投げ出して飛行機に飛び乗った。
 なにも考えられなかった。なにも持ってはいなかった。ただ、彼女に会いたいという気持ち以外は。空港へ向かう道のり、機上での時間、そして彼女がいる家まで到着する間がどれほど長く感じたことだろう。
 博史の葬式では出なかった涙が、彼女を目の前にしたときには止まることなく溢れ出た。彼女が無事だったこと、苦しみの深さ、僕が目をそらしつづけたこと。葬式のあと誰よりも苦しぬいたであろう彼女を、その事を知りながらも見捨てたこと。どの涙だったのか僕自身にもわからなかった。
 僕の目の前に彼女がいることだけが事実だった。やせ細って憔悴しきって、それでも再び僕の目の前に姿を現してくれた彼女。
「死んだら、許さないからな」
 僕は、彼女の顔を見るとそう叫んだ。
 もうなにも言えなくなって、なにも考えられなくなって、やっと絞り出すように僕の口から出た言葉は、涙でふるえていた。
「なにがあっても、生きろ」
 僕は二度と彼女から目を離さないことをこころに決めていた。
「・・・・ごめんなさい」
 彼女はぽつりとつぶやいて泣きはじめた。
「ごめんなさい。ごめんなさい。芳明、ありがとう」
 しゃくりあげながら、ゆっくりゆっくりそういって彼女は泣きつづけた。
「龍宮城に、おとぎ話だってわかってる。でもね。わたしはそこに行きたかったの」
「龍宮城か。それで龍の王様には会えたのかい?」
 彼女はそっと首を横に振った。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?