徹也の風景 離陸  009

「今日はとてもいい天気だから、海も空もとてもきれいでしょうね」
 離陸直前になって徹也の横の席に座った髪の長い女性は、窓の外を眺めながらうれしそうにそういった。通路側に座る彼女は、窓側に座る徹也の前に身を乗り出すようにして、彼越しに外を眺めようとしている。しばらく外を眺めたかと思うと彼女は、カバンからアップルのノートパソコンを取り出して熱心に見はじめた。
「あわただしい人だ」
 そう思いながら彼女を見ていた徹也は、ふと彼女のことがかわいそうに思えてきた。

 彼女はこれから起こることを何も知らなかった。彼女だけではない。この飛行機に乗っている乗客、パイロット、客室乗務員らすべて、徹也と彼の部下以外はこれから彼らが起こそうとしている壮絶なプロジェクトを知りはしない。
 それは不幸せであり、また幸せなことでもあった。死の瞬間に感じる恐怖が、ほんの一瞬で済むからだ。いやその前に、このプロジェクトを知っていれば、誰もこの飛行機に乗ってはいなかっただろう。
 徹也は、乗客たちがこのプロジェクトを知らないことを不幸なことだと感じていた。「知らない」イコール「その瞬間を祈りとともに迎えることができない」ことを意味するからだ。その瞬間にすべての生命をかけようとする彼らにとって、そのことは死以上の苦しみであった。
 彼はこの飛行機に乗りこんだ多くの乗客を道連れに、祈りとともに死を迎えようとしていた。それだけではない。いつもとなにもかわらない一日として、昨日のつづきであって明日へと続く「今日」という日をただ過ごしている、地上にいる何万人もの人々とともに。
 天気のことなど、彼にはどうでもいいことだった。空がきれいだろうが、海がきれいであろうが、関係ない。ただあのポイントを雲がおおわなければいい。

 背筋を伸ばして深呼吸をすると、彼はこれまでの人生に想いを馳せた。

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