FILE 7 声 020


 そこでは
 すべての存在が生命を謳歌している。
 すべての個性は開花され
 美しく、はかなく、厳しく
 あるがままに愛されている。
 清も濁も混沌とし
 静も動も同時に存在し
 善も悪もまた和合している。

 緑はただ緑として、花は花として。
 風は吹き、雲は流れ、子どもたちは屈託なく笑い、女たちも男たちもほほえんでいる。


「ねーねー? えー、ぬーそーがぁ?(お姉さん、なにをしているの?)」
 誰かが私に声をかけている。目を開けると、まぶしい光が瞳を突き刺した。私は仰向けになって横たわっていた。青く美しい空と風が強く吹きつけてくる。私は、世界のその美しさにこころ奪われ見入ってしまっていた。

「なにをやっているわけ? ねーねー? なんでこんなところで寝ているの?」
 あまりにもおっとりとした声の呼びかけで目を覚ましたとき、私は自分が自殺するために海の中に飛び込んだことを忘れてしまっていた。
「あんたは、自分にヒレでも生えていると思っているわけ? それとも、エラ呼吸でもするわけ? なんで、自分で自分を殺そうとする? あんたのやろうとしてることは、人殺しさぁ」
 おばあさんのその言葉ですべてを思い出した私は、急に恥ずかしくなってその人の前から消え去りたかった。思わず身体を横に向けると、急に水があがってきて、猛烈にせき込んでしまった。どこに入っていたのだろうかと思うくらいのたくさんの水を吐き出した。
 海水が気管に入り痛くて苦しくて、咳は止まらなかった。私はぜーぜーと荒い息をしながら、再び仰向けになると腕を顔の上に乗せて目をかくした。涙があふれて止まらなくなって、どうしようもなくなってしまったからだった。なんの涙かはわからない、ただただ目から水があふれ出していた。
「で、生きるの? 死ぬの?」
 私の顔をのぞき込みながらおばあはするどくそう言った。

「さぁ、乗って」
「でも、濡れているから」
「じゃ、脱ぐかい?」
「いや、それは・・・」
 私が、言葉に詰まっているとおばあさんはゴーカイに笑った。
「いいさ、濡れても。この天気さ、すぐ乾くさぁ」
 なんとも急な展開でボロボロの軽自動車に乗せられると、私は龍宮城の入口から遠く離れたおばあさんの家に連れて行かれた。
「こっちだよ」
 家に入るなり浴室に連れて行かれると、あっと言う間に濡れた服を脱がされて、私は子どものように裸にされていた。恥ずかしいと感じる暇もないうちに、小さな椅子に座らされると次の瞬間にはぐいっと頭を押さえられて、頭からシャワーをかけられていた。
「こんな若い娘が、何をやっているのかねぇ・・・。ガリガリに痩せてしまって」
 お湯の粒のひとしずくひとしずくが、身体に染み込んでゆくようだった。やさしくてあったかくて、こころの中で凝り固まっていたものが、じわじわと溶け出して行くような気持ちよさだった。うれしくて、そしてあたたかかった。
 おばあさんは私の髪を洗いはじめた。
「こんなにもきれいな髪を、バッサバッサーにしてからさぁ。ほんとにこの子は」
やさしい指先が地肌をほぐしてゆくように洗い続ける。シャンプーの泡が目に入ったわけでもないのに、私の目からは涙が流れ続けていた。
「私はただ、助けてあげなさいと言われただけだよ。それに、人が行き倒れていたら、別に神さまに言われなくっても助けるさ」
「神さま?」
「今朝、夢を見たわけさ。天からの使いが海に舞い降りてくる夢を。だから夢の通りに歩いてきた。したら、あんたが寝ていたわけさ。やしが(ところが)、よくよく見てみると、天の遣いどころか、ふりむん(愚か者)さあねぇ」
「ふりむん?」
「あんたみたいなことさ。今日は旧暦の1日でうがみをする日だったわけよ。御獄でうがみをいれていたら、『海の少女を助けなさい』といわれてね」
「誰に?」
「だから、神さまさぁ・・・」
 おばあさんは、まだわからないのか? とでもいいたげにため息をついて頭の泡を流しはじめた。
「あんなところで泣いていると、人魚のようにほんとうに海に還ってしまう。
 あの広大な海でもあんたの苦しみは溶かすことは出来ない。それを溶かすのはね・・・」
 そこまで話して手を止めると「まだ早いか」とポツリと言った。
「まずはすべての悲しみを流しなさい。涙は水に流してしまえばいいさ」
 髪をきれいに洗ってくれたあと、おばあさんはそういって浴室から出ていった。私は顔面に熱いシャワーをあてていつまでも涙を流し続けた。いくら泣いても泣いても、涙は涸れることはなかった。

「名前は?」
 おばあさんにそう聞かれたとき、私は自分の名を答えることができなかった。
「なんだい? わすれちゃったのか?」
「私には、名前などありません」
「ならば、これから見つければいいさ。お前が、自分に一番ふさわしいと思う、その名前を。こころの底から誇りに思える名前を、これから探せばいい」
 おばあさんは私にそう言いながら、冷たいお茶をテーブルにコトンと置いた。たったそれだけだったのに、その瞬間いろんな感情が沸き上がってきて、涙が止まらなくなってしまった。
 おばあさんの家の畳の匂いや、庭に咲いている名前も知らない白い花や、海の匂いを運んでくる風や、机の上にぽんとおかれたおまんじゅう。それらのなにも悲しみを引き出したり思い出させたりなどしない、優しいものたちに囲まれながら、私は自分が置いてきたすべての感情に対して涙を流していた。
 おばあさんはただ黙って、私を抱きしめて背中を優しく叩いてくれていた。それは、幼い頃に泣いている私に母がしてくれたことと同じだった。
「死ねなかったのだから、生きるしかないさ。神さまを試すのは、一回だけにした方がいい。
 死にたくなくても死ぬ人もいて、死にたくても死ねない人もいるさ。まだ死ねないのはさ、役割を果たしていないからだわけ、おばあはそう思うさ」
「役割?」
「そうさ。それよりも、何も食べずにここまで来たわけ?大阪から?ほんとのふらー(愚か者)だねぇ」
 ちょうどよかったよと言いながらおばあさんが出してくれたのは、薬草がはいったおかゆだった。
「さあ、食べなさい。栄養がいっぱいだよ。おばあのこれを食べて、元気にならなかった人なんて今までひとりだっていないさ」
「ありがとう」
「あんたはしばらく、うちにいなさい。死ぬつもりだったんだ。別にこれから先、どう生きたっていいさ。それに、そのくっついてきてるの。どうにかしないことには、なにもうまいこといきやしない」
 おばあさんは、困った顔をしながら私の肩越しに遠くを見た。
「博史?」
 振り返るのもぞっとする想いで、私は尋ねた。
「お前は博史か?」
 私の肩をこえておばさんは問いかけた。
  ・・・。私は、その場に凍り付いた。
「まだ日も浅い、大丈夫さ。成仏するように、祈ってあげなさい」
「私が? なんで?」
「助けて欲しいから、ついてくるわけよ。何も恨んだり呪っているわけではなくてさ。生きているときにそれを素直に言えればよかったけれど、その子には誰も教えてあげられなかったんだろう。これから、たくさんのことを学ばなければならないさ」
 複雑だった。なぜ、私の人生に呪いをかけた男の成仏を祈らなければならないのか?
「じゃ、一生つきまとわれてもいいんだね?」
「・・・・・」
 どんな言葉も出てはこなかった。

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