020

FILE 扉

 すべてを超えてゆくことを可能にする力がある。
 人生の境界線をも。
 容赦なく襲いかかってくる悲しみすらも。
 それは、ゆるし、いやし、いつくしみ、つつみこむ、おおいなるやさしき力だ。

 すべてのものはひとつで
 あなたはわたし わたしはあなた
 あなたが在り わたしが在り
 在ることによりて 宇宙は存在している
 なにが欠けても その宇宙は存在することができない

 すべては遊戯のために形どられた
 清らかな水面に映し出された 幻影に過ぎない

 すべてでひとつ

 起こりゆく現象 そのすべては 調和の中に存在し
 すべてのいのちは美しく
 すべてのものは たったひとつのものだ
 
 それを理解するために
 人は祈りを捧げる

 より大きなものと繋がり
 大いなる海のちいさなしずくであることを確認するために
 精製された水のひとしずくとして 海とともに在るために

         *

 わたしはようやく、あの海へたどり着いた。
 目の前には真っ青な空。真下には深く青い海。そして海の中には龍宮のほこらがあった。
 わたしはあのがじまるの樹の下に座っていた。

 その空は、語りかける。
「すべてでひとつ」
 けれど、わたしにはわからなかった。この胸に響いてゆく言葉の意味することが。
 それを理解することは、博史を許すことだ。許せない。やっぱりわたしは博史を許すことなんてできない。

 その海は、語りかける。
「お前もまたこの海のひとしずくであって、そしてすべてでもある」
 わたしにはわからない。ならば、わたしも博史もひとつなの?

 その風は、語りかける。
「お前もまたこの惑星をめぐる一陣の風であり、そしてすべてを包むものでもある。
 わたしにはわからない。この胸に響いてゆく言葉の意味することが。そんなことを、わたしは理解なんてしたくない。

 博史が抱えていた痛みを理解することはできた。両親の重圧に苦しんでいた博史の苦しみも。けれど、その苦しみがあの行動を正当化する理由にはならない。博史を許すなんて・・・
 だったら、博史に傷つけられたわたしが、違う誰かを傷つけてもいいことになる。でも、それをしている限り、苦しみは連鎖して途切れることがない。わたしたち人は、傷つけられた記憶を癒すことなく、誰かを許すことなく傷つけ合いながら、癒すことのできなかった苦しみを次の誰かに与えつづけて、この惑星を廻している。
 そう、この世界はそういう風に回っている。
「これからも? わたしはそれを望むの?」
 わたしは自分自身に問いかけた。海からの風は、気高く潮の香りを運んできた。胸を貫き全身を流れるような苦しみがわたしを襲った。
「いやだ。そんなこと、わたしは望まない。だけど、博史を許すなんてできない。
 どうしたらいいの?」
 答えは誰よりも、わたし自身が知っていた。
「ねえ、博史。あなたは、どうしてわたしを・・・」
 ぐらぐらと身体が揺れはじめた。地中深く根を降ろすがじまるに座っているというのに、砂のように今にも足場が崩れさりそうだった。
「博史を許すことができれば、わたしは自分の過去を許すことができる? 博史を許すことができれば、わたしはわたしを愛することができる? 芳明を、キヨさんを、すべてを」
 それは何度も何度もぶつかってきた、わたしがひらくことの出来なかった扉だ。これまで人生のすべてをかけて、答えを出すことから逃げつづけてきた質問だった。
「あとに残る、すべての命あるものが限りなく幸せでありつづけられますように。苦痛も憎悪も歪んだ愛もすべてが消え去り、愛のもとから出たものがふたたび愛のもとへ帰ることができますように」 
 あの時、この海で自分が捧げた祈りがどれほど自分勝手なものであったかを、今のわたしは知っている。自分と向き合うこともしないで、命を絶とうとしながら、世界が幸せであることを祈るなんて。
 世界を愛することは、目の前に訪れるすべてを飲み込んで、味わいながら生きていくことだと、わたしはあれからの生の中で学んだ。
 森の木々が大気の怒りをその身体に吸い込み、そして愛に変換して世界に送り出してゆくように。すべてを許し、憎悪を捨て去り、自分自身を癒してゆく。抱えつづけてきた過去と憎悪を、わたしは愛にかえることができるだろうか。
 世界を愛することは、自分自身を愛することだ。被害者でありつづけることで悲劇の世界にひたっている間は、世界を取り戻すことなんてできはしない。そう感じることができたとき、少しだけ、ほんの少しだけ心が軽くなって、なにかが見えてきた気がした。
「ありがとう」
 わたしは空と海に向かってお礼を告げた。その想いは風に乗ってどこまでも運ばれてゆくようだった。あの時、龍の王様がわたしを受け入れることを拒んでくれたお陰で、わたしはここまで歩いてくることができた。
「ありがとう。
 わたしは、すべてを受け入れるよ。まだ決心はできてないけど」
 なにかが掴めそうだった。もやもやとしながら、それでいて、わたしのこころの中に浮かんでくるなにかがあった。また涙がわいてきて、わたしは大声を上げて泣いた。深い泉からわいてきたような涙はいつまでも尽きそうになかった。
 愛って、なんだろう?
 自分を愛するって、どういうことだろう?
 それがわからないから、わかりたくてわかりたくて、人は生きているのかも知れない。
 ほんとうにこころの底から細胞のかけらまで、自分自身のことを愛することができるならば、そのほかのすべてのものを大切にして、慈しんで生きてゆくことができるのかも知れない。
 わたしたちが忘れてしまって、そして思い出すためにもがいて生きて学んでゆくことの一番大切なこと、根底に存在することは、もしかするとそんな風にとてもシンプルなことなのかも知れない。
 大きな雨雲がやってきた。雨のしずくが海に還ってゆく。木々や大地に降り注ぎ、強く静かに世界が潤いに満ちてゆく。ほんとうの強さとはやさしさのことで、それはすべてを包み込んでゆく、しずかでそれでいてとてつもない力だ。
「自分自身をほんとうに愛することができたなら、すべての問題は解決に向かってゆくの?」
 わたしが望むのは、ただただやわらかいものを世界に放つこと。憎悪や苦しみや悲しみを世界にばらまきたいんじゃない。この胸からわいてくるあたたかい光を届けること。地球がくれた奇跡を、わたしというフィルターを通してばらまいてゆくことだ。
 これは、最後のチャンスだと今思える。すべてがたったひとつのものだと、ほんとうにわたしがこの手につかむための。こころの中に閉じこめている記憶をひらき、それを許せばいい。たったそれだけのことだ。勇気を持って、絶望を希望へと塗り替えればいい。
 わたしは空と海へ、そして自分自身へと語りかけた。それはひとつの宣言だった。
 下腹部が熱くなり、愛にも似た感情が身体を昇ってきた。ゆっくりゆっくりと上昇をつづけるその熱で、わたしの身体中の細胞が覚醒したかのように粟立ち、皮膚がざわめいた。
 すべての争いは、許せないことから起きている。もしも、それを許すことができたら?
 わたしたちすべての人間が、人を、罪を、歴史を。それらを許すことができたら、世界はどうなってゆくだろう。
 憎しみを抱きつづけて争うことを選ぶのではなく、過去を許して、世界を許すことができたなら。
「ああ、わたしは。わたしがここに生きていることを赦したい。わたしがこの星にいることを許したい。
 この惑星に起きているすべての苦しみを、悲しみを、不条理を。それを引き起こしている人も歴史もすべて。
 許して、愛して、そしてほんとうにみんなと幸せに生きていきたい。
 わたしは、そんな世界を想像したい。そんな世界で生きていきたい
 すべてを愛する強いやさしさを、わたしはもうすでに持っている。生まれてくるときに持ってきている。わたしたちは愛のかたまりとして生まれてきて、日々を重ねてゆく間にそのことを忘れていってしまう。
 でも、ほんとうに持っている。この魂の中に。この手の中に。持っているの。今も。
 ほんとうにこころの底から、わたしを愛することができるようになったとき、この惑星を、世界を、すべてを愛して慈しむことができるようになる。
 わたしが望む世界とはそういうものだ。わたしが望むのは、こんなにもシンプルなことだったんだ」
 髪の先まで染み渡るような、血の流れを越えた波動が身体中を支配しはじめた。すさまじいエネルギーが身体の中心部を通り過ぎ、光の帯のように身体の中を貫き、どんどん広がってゆく。わたしは立ち上がり、両手を空へと伸ばし、足はしっかりと大地を踏みしめた。
 静かに雨が降っていた。満ち引きをくり返し、青い惑星を循環し、命を育んできた海。わたしも、そこからやってきたのかな?
「ありがとう」
 大地の底の底の方から沸き上がる光の塊のような珠と、全天から降り注がれる闇の珠が、わたしの身体中のあらゆるところを駆け抜けた。やがて二つの胸の間でそれらが出会うと、細かな細かな振動がわたしの身体を支配して、混ざりはじめた光と闇は、らせんを描きながらわたしの身体の中と外で踊りはじめた。
 自分の身体になにが起こっているのかをまったく理解することができなかった。ただ、すべてを起こるままに任せようと思った。
 くるくると回転をつづけるその珠は、徐々に大きさを増し、わたしの身体をすっぽりと包み込んだ。光と闇が混ざり合い、ありとあらゆる色に変化しつづけ、混ざり合えば混ざり合うほどに色を失いはじめて、ただひとつの色になってゆく。やがて、すべての色が消え去り目に見えない微細なエネルギーの珠になったそれは、一瞬にして小さな珠となってわたしの胸の中に飛び込んだ。
 強烈な衝撃に驚いて、わたしは天に伸ばしていた手を胸に当て、不思議な愛しさを感じさせるその珠を感じてみようと目をつぶった。
「ああ、種だ」
 そのみえない珠を観たこころが、そうつぶやいた。
 小さくなったその珠は、わたしのこころを発芽の大地と定め、種としての生命活動をはじめた。振動しながらゆっくりゆっくりと芽を出した種は、やがて大きな樹になった。根は地下深くわたしを越えて地球を抱え込むほどに伸びて広がり、幹は天上を目指し、豊かな葉はどこまでも広がりつづけてゆく。
 天へと向かうエネルギー、地へと向かうエネルギー、前後左右へと向かうエネルギー。それらは球体のまま、すべてが同じ広がりをみせ、どこまでもどこまでも広がっていった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?