FILE 6 生命の輪(3)  018

 漁港を一望できる高台の、何十本もの木がそれぞれに存在を語りかけるその場所の一番大きなガジュマルの樹。その威厳ある木の地上に張り出した根っこの上に私は座っていた。それほど高くもない丘に登るのに、ゆっくりと一歩一歩踏みしめるように足を出さなければならないほどに歩き疲れ、陽射しに灼かれ続けた身体中が悲鳴を上げていた。
 空と海の境目がどこだかわからないほどに、空は青く澄み、海も青く輝いていた。海から吹いてくる風が、人魚たちの笑い声を運んできそうだ。
 その丘にある鉄の網でつくられた、ほかのどこの公園にでもありそうなごみ箱。それを見たとき私は捨てるべきものがあったことを思い出した。リュックからサイフを出すと、レンタルビデオの会員券、スタンプカード、私の名前の書かれたそれらのカードを一枚一枚捨てた。私を証明するものがまだリュックの中にあったことを思い出した私は、手を突っ込み底に入っていた紙を取り出した。ソフトビニールのケースに入った三つ折りされたただの紙。剥がしたビニールはそのままごみ箱に捨てた。手に残ったその紙は、縦にふたつに破った。いくらこのまま消えるのだと思っても、さすがにそのまま捨てる勇気はなくて、小さいカケラになるまで、何度もちぎった。
 この紙を持っているだけで、同じ年格好の人は私になりすますことができる。国民健康保険証という簡単な、生年月日と住所の書かれたただの紙切れ。それでいて日本国が証明する私という存在。
 私を証明するモノを捨て去ったとしても、私が私でなくなるわけではないのに、現代社会の枠に組み込まれた私という存在を証明する方法は、簡単に消えてなくなる。
 名前を捨てたあの時、私はなぜすべてを捨ててしまわなかったんだろう。
 サイフやカバン中の、私という名の描かれた、この文明社会の中でしか意味をなさないそれら。社会の中の私という存在。住民票も、戸籍も、この日本という国に所属している私の存在すべてを消し去りたいとそう望んだ。この島では、もうそこまで捨てることできない。私はそのかわりにリュックの中の荷物を全部すてた。
 もう、なにもいらない。私が私であるという、その思いこみさえ必要ではない。

 ペットボトルの水で手を洗い顔を洗う。荘厳なセレモニーをするための禊ぎだ。疲れ切った身体を風が癒してゆく。右手の甲で額の汗を拭うと、ガジュマルの根に少し水をたらし、残りの水を飲み干した。
 大きな幹にもたれかかると、前かがみになって靴ひもをほどき、ブーツと靴下を脱ぎさった。この真夏の島で、ブーツを履いている自分の季節感のなさがおかしかった。
 長く伸びた枝が創り出す日陰。ひんやりとした大地が足の裏を冷やしてゆく。あちこちにまめのできた足が開放感に喜んでいる。生の足で直接踏む島の土は、身体中の熱を冷やしてくれるような冷たくやさしい感触だった。足を投げ出して座ると、その開放感にうれしさがこみあげてきた。光が当たる右側の足の甲の血管が青く浮き出している。
「まだ、私は生きてるんだなあ」
 ふと、そう思った。
 目を細めながらでないと見ることさえできない、まぶしく降りそそぐ太陽の光。掌ににじむ汗をジーンズで拭いて、何度も何度も唇をなめた。乾燥して皮のむけかけてきたその唇が、私の緊張を表現していた。顔も日焼けしてしまって、真っ赤になってむくんでいる。
 風に吹かれながら、揺れる枝先を眺めながら、たった数日でがさがさになってしまった唇をゆっくりとひとさし指でなぞった。指先にひっかかる皮を爪で掴み勢いよく剥ぎ取ると、ピリリとした痛みが快感のように全身を襲う。ぬるっとした血が、縦に引き裂かれた皮膚から流れ落ちた。熱いそのしずくを舌先で拭い取りながら、体の中に流れている赤い血を想像した。この唇よりも赤い血。熱く、香り立つ、生命を支える流れ。傲慢な、女性的な、その水。
 女であることのすべてが、私にとっては恨めしかった。その血が女であることを象徴するものだとすれば、私はその赤い水のすべてを流しきってこの生を終えたい。あの男の行動が愛から出たものだとするならば、私には愛など必要はない。この腕も、この顔も、この胸も、この足も、この性器も、すべてが汚らわしい。私の肉体のすべてがあの男の死をかけた呪いでされているのだ。
 美しく飾りたてるために、唇に紅を塗ることもない。この唇から言葉を紡ぎ出すことも、この唇を使って食べ物がこぼれないようにする必要さえない。息を吸い息を吐き出すという、生きていれば当たり前の、それでいて強烈にエゴイスティックな作業である呼吸。地球が生みだし、植物たちが浄化しつづける貴重な酸素を体内で汚染し、二酸化炭素にして吐き出すという、おぞましいことですらこの唇を門にしてしなくてすむ。もう少し、そうあと少したてば私という存在は失われ、この大地に戻ってゆくのだ。

「ごめんね」
 誰にいうともなく、つぶやいて失笑した。
 いまさら、誰に謝るというのだろうか。生きているということさえ、過ちのようなそんな想いにかられているというのに。
 生まれてきたことへの謝罪?今さらそんなことをいってもはじまらない。
 両手を伸ばせば届きそうなくらいに空は近かった。座ったまま、両手を掲げてその空に見入っていた。
「私はあの空へ、飛んでいけるのだろうか」
 空の青と、木々の緑と、こころの中の赤い血が見事なコントラストを描いていた。強烈な美しさをもってこころに迫ってきたそれらは、私の胸を締めつけた。しかしそれも、少しの間だった。太陽の光が強すぎて、私の目はすべてを黒く暗く映しはじめたから。
 呪縛から解き放たれるために、最後の祈りくらいは自分のために捧げても許されるだろうか。私が中途半端に命を投げ出してしまうことを“声”は許してくれるだろうか。もう、そんなことを考える余裕もない。どのみち、私には生きる資格もないのだから。
 全生命をかけて、龍神様の元へ身を投げよう。

 足を投げ出したまま、背筋を伸ばし空へと顔をむけ目をつぶり両手を組んで、最後の祈りを空と海へ捧げはじめた。
「あなたの海にこの身を沈めることをお許しください。どうぞ、この身体を地球にかえしてください。与えられた命を、自ら断つことをお許しください。
 そして、この魂を龍神様のもとへ」
 海からの風は、気高く潮の香りを運んできた。この命の火が消え去ったあとも、海は美しく、空は深く、風は薫るだろう。人類が、滅びることを選択しない限りは・・・。
 「世界が滅びる夢」の世界に想いを馳せ、胸を締めつけられた私は、最後の力を振り絞り、神に祈った。

「あとに残る、すべての命あるものが限りなく幸せであり続けられますように。苦痛も憎悪も歪んだ愛もすべてが消え去り、愛のもとから出たものがふたたび愛のもとへ帰ることができますように」
 龍神様への祈りを続けていると、下腹部が熱くなり、怒りにも似た感情が身体を昇ってきた。ゆっくりゆっくりと上昇を続けるその熱で、私の身体中の細胞が覚醒したかのように粟立ち、皮膚がざわめいた。髪の先まで染み渡るような血の流れを越えた波動が身体中を支配していた。

 すさまじいエネルギーが身体の中心部を通り過ぎ、あっと言う間に私の身体を貫いてゆく。大地から湧きい出て、まもなく海に帰るはずのこの身体を駈け上ったその力は、頭頂から抜け出て天高く昇っていったように感じた。
 なにが起こったのかを理解できずに、私はただただ呆然として空を眺めた。その最後の聖地となったガジュマルの、頭上から垂らされたヒゲと葉をなにも考えずにただ見上げていた。

 小さな葉っぱが風で揺れるたびに、緑と青と白と黒の色彩が入り混じり、さまざまな色を生み出して、かすんでゆく私の目の中でほんとうの物語を語りはじめる。その小さな美しいささやき声が、全身を至福で満たした。空も大地も、舞い踊る風も私に話しかけてくる。木々も、土も、虫たちも。それはそれはすばらしい世界で、もう天国に来てしまったのかと錯覚したほどだった。このまま、世界にとけだして、なくなってしまいたかった。
「きれいだね」
 幸せに満ちたその世界にひたったまま、私はゆっくりと靴下をはき、ブーツの靴ひもをくくる。この場所で終わるわけにはいかない。立ち上がって、お尻についた砂を払いながら振り向いた。その時、自分の口からこぼれた「ごめんね」の意味がわかった気がした。
 ゴツゴツとした幹に触れ、額を押しつけ、頬をすり、そして両腕で樹に抱きついた。最後の抱擁をその美しきこころやさしき大樹と交わせたことを、私はこころから幸せに、そして誇りに思った。
「最後のセレモニーの場所にあなたを選んでしまって、ごめんなさい。あなたには、不名誉なこと。ごめんなさいね、でも場を与えてくれて、ありがとう」
 木にそう告げると、私は海にむかって歩きはじめた。

「軽い気持ちなんかじゃない。教えて、龍宮城への道を」
 エメラルドグリーンに輝く水、人魚の棲む海。最後の思いを口にしながら私は、聖なる海に飛び込んだ。
 海の水の中にいるというのに、鳥になって空を羽ばたいているような気がした。息苦しさも、海水の苦さも、なんの苦しみもないまま、青くどこまでも続く自由な空を。
 誰にも憎まれることなく、誰にも厭われることなく、誰にも止められることなく、誰にも求められることなく、誰にも愛されることなく。純白の翼をきらめかせてはじめて羽ばたく鳥のように海の空を飛んだ。

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春名尚子

惑星のかけら 2004

どうして世界はこんなにも歪んでしまったんだろう・・・すべてのひとがしあわせに生きられる世界はどうすれば創ることができるんだろう・・・ 世界が滅びる夢を見つづけてきた少女の旅の物語。 20年ほど前に書いていた物語です。古い設定もそのままに発表します。
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