028

芳明の風景

「世界を滅びに導いたものの正体、それをお前は知っている。そのことを認めてこなかっただけだ。だが、お前はそれを既に知っている」
 鍾乳洞の中で聞こえてきた『声』は、僕らにそう告げた。
「僕が、それを知っている?」
 僕らは大岩の前で立ち尽くしていた。
「それよりも、あんたは誰なんだ?」
 闇の中の光は、そっとその力を弱めてしまい、洞窟の中は真っ暗になった。目を開けても、閉じても、その違いがわからないほどの暗闇が訪れた。もうとなりにいる彼女も見えなくなってしまった。
「その岩は、お前のこころの中にある岩だ」
 突然の暗闇に驚いた僕は、ポケットの中にあったマッチを擦った。
 ぼうっと炎が瞬いて、すぐに消えた。マッチの残していったニオイが僕の鼻を刺激していく。一瞬の明るさのすべてを飲み込んだ漆黒はさらに深さを増していった。その闇とニオイが僕の記憶を刺激した。
 一定のリズムを刻み続けるドラムの音、深い祈りの声。聞こえてくるはずのない音が耳の中で鳴りはじめた。
 頭がクラクラするほどの熱さで、口で息をすると喉が焼け、鼻で息をすると鼻が焼けてしまいそうな蒸気がちいさな小屋を包んでいる。熱く焼かれた丸石にシダーがまかれると、美しい火花が石の表面を覆う。
「芳明? そこにいるの?」
 すぐとなりにいるはずの彼女の声が、遠くなりはじめて、もう僕の耳には届かなくなった。
「これは、あの時の?」
 あの夜のスウェットロッジの記憶が蘇ってきたのかと思った。あの大きな亀の島で、メディスンマンのジムが執り行ってくれたセレモニー。
「でも、違う」それは記憶の再現ではなかった。僕は今、なぜかスウェットロッジの中にいた。
 真っ暗なちいさな空間に、インディアンソングが響いてゆく。気絶しそうなほどの熱に負けないように、腹の底から声を出して祈るように歌う。このセレモニーをリードしているのが誰なのか確かめようと、ドラムを叩く主の顔を見ようとしたけれど、闇の中にとけ込んだ顔を見ることはできなかった。
 真ん中に置かれた石だけが赤く光を放っている。その濁った赤を見つめているうちに、赤の中に自分自身が入り込んですべてがなくなっていくような、宇宙に溶け出しているような気がしてきた。
地球や宇宙やちいさな生命とつながって、より大きなものに溶け出して、よりちいさなものに入り込んでいく。苦しみの中に去来する不思議な感覚に僕の意識は漂いはじめた。
「ひとは、この地上に降り立つときに、こころの中に岩を置いた。その岩は、ただの象徴だ。だが、ひとはそのこころのなかに岩があることさえも忘れ去った。
 深い場所に閉じこめている自分自身を省みることなく、日々を過ごしていく」
「誰だ?」
 その『声』は僕の胸の中から聞こえはじめた。
「その岩は、お前のこころの中にある。取り除け」
 もう何が起きているのかを考えても、理解することなど不可能だっだ。蒸気の中で意識は途切れ、『声』だけを聞いていた。
 この場所に来ることを選んだのは彼女だった。あの光景が広がっていたとき、涙をぬぐった彼女はもう一度この岩に来ることを選んだ。まるで、この岩が世界の鍵を握っているかのように。
 キヨさんが僕に言ったように、いつかやってくる彼女の大きな選択がなにか深い意味を持つのならば、それに向かうために真摯に生きている彼女の日々の選択にだって、深い意味があるに決まっている。僕は、その彼女の選択を支えつづけることを選択した。だからそばにいる。だから、彼女を支え、守りつづけてゆく。
「この岩が僕のこころの中の岩だとするならば、この岩を取り除いたとき、どうなるんだろう」
 僕は岩にしがみついた。僕の力では到底取り去ることのできないほどの大きな岩に。
 暗闇の中、岩の冷たい感触を感じながら、僕はゆうべの彼女の姿を思い出した。満月に向かって祈りの舞いを踊る少女。僕の女神。
 長い髪をゆらめかせながら、両手を月へと伸ばし、目を閉じ至福の笑みを浮かべる。大きく広げて伸ばした腕が白く大きな翼のように見えた。
「僕はきみの選ぶ未来を、ともに生きることを選ぶ」
 大地の底から力が湧いて来たような気がした。その瞬間僕はすべての力を込めて、彼女への想いもすべてぶつけるように岩に向かっていった。
 人生の壁のように立ちはだかっていた岩があっけなく動いた。すさまじい砂ぼこりを立ててその場を僕らに譲った。
 どこからかとてつもない強風が吹き荒れたかとおもうと、地の底から壮絶な地鳴りがしはじめ、暗い洞窟の中が一瞬にして光に包まれた。きらめきの中で映し出されたのは、洞窟に倒れた彼女の姿だった。
「おい。大丈夫か?」
 彼女を抱き起こすと、彼女は僕にしがみついた。
 頭上の裂け目以外は、どこからも光の射し込まなかった真っ暗な洞窟に、どこからやってきたのかもわからない奇妙な、それでいて身体を突き抜けてゆくような強烈な光が突如あらわれた。
 虹色にきらめくとてつもなく巨大なものが、天上から射し込む細い光にむかって昇っていった。その細い亀裂からは到底抜け出せるはずのないほどの、太く巨大なそれが放つ光は、まったく熱を感じさせないのに岩盤を溶かしてしまい、亀裂の周囲の岩を輝かせながら押し広げていた。そして、それが過ぎ去ったあと、残された輝きと光の粉が降り注ぎ、洞窟の中がきらめいていた。
 僕らはその場に突っ立ったまんま、ぽかんとその光景を眺めていた。
「なに? いまの」
「わからん。でも、なに?」
 自分たちが今目にしたものがなんなのか、まったく想像もつかなかった。それが昇りきって空に帰っていったあとの亀裂は、以前となんにもかわりのないただの細い亀裂のままで、空から射し込む光はなんの変哲もない光のままだった。
「芳明、わたし。旅をしてきたの」僕の胸の中で彼女はそう言った。
「僕も、きっと旅をしてきたよ」僕らは同時に大きく息を吐き出すと、長いキスをした。
 その岩が道を譲った場所には、また道が続いていた。僕らはそのまま奥へ奥へと進んでいった。
 もう戻ることができなかったとしても、僕はこの大切なものを守って生きていこうと決意をして足を前に出しつづけた。

 ふたたび洞窟の外に出たとき、天を灼く火も空を覆う煙も逃げまどう人々も、そんなものはどこにも見あたらず、空は青く吹く風は清浄なままだった。
「どういうこと?」
 驚く彼女はあたりを見渡して言葉を失っていた。僕にもさっぱりわからない。僕らは洞窟の奥へ奥へと進んでいった。そして、いつしか入ったのとは全然違うところから外に出てきたのだ。
 少しの間、鍾乳洞の出口で休憩をしたあと、僕らは歩きはじめた。わけのわからないことだらけだったけれども、このまま座っているわけにはいかなかった。
「世界がどうなってしまったのかを、この目で確かめてやろうじゃないか」と、彼女が言い出したからだ。
 しばらく山道を下っていくと、舗装された道路にでた。僕らはほっとしたと同時に、顔を見合わせた。普通に車が走っていたからだ。
「なんなんだ?」僕がそう言うと、彼女はただ首を傾げるだけだった。
 やっぱり世界は滅んでなんかいなかったのだ。でも、そうだとすればあの光景はなんだったのだろうか。
 どこまで歩いても携帯電話はつながらず圏外のままだった。クネクネとした山道を延々と歩きつづけてなんとか大きな道に出ると、やっとアンテナは復活した。
 電話を持つ彼女の手がふるえていた。僕は彼女の手に自分の手を添えて、回線の向こうのおばあを想った。
 三回の呼び出し音のあと、回線は繋がった。
「はいはい」
 キヨさんの大きな声が電話口からこぼれ聞こえてきた。
「キヨさん? キヨさん!」
「ん? なんかー、あんたねぇ? なんね? 洞窟はどうね?」
 彼女の肩から力が抜けた。キヨさんのいつもののんびりした口調を聞いた途端、ホッとして涙が止まらなくなってしまった。彼女も、話しどころではなくなって、涙をぬぐい鼻水をすすっている。
「キヨさん、元気ね?」
「なにをいっているかー? 一日ぐらいで、元気じゃないわけがないさ。
 はっしぇ、おばあに会えないからって、もうさみしくなったわけ?」
「キヨさん・・・」
「あいやー。時間のポケットに、落っこちたのかも知れないさぁ。どういう意味があるのかねぇ」
 いつもとなにも変わらないおうちで、キヨさんは面白そうに、楽しそうに言った。
 彼女はキヨさんとの電話を切った後も延々と泣きつづけた。一体いつまで泣いているつもりなのかと、心配になってしまうほどに。
 やがて彼女は、Tシャツのすそで涙をぬぐいきると、大きく呼吸を繰り返した。空を仰いで、遠くを見つめて、そして僕を見た。まっすぐに、少し潤んだ瞳で。
「すくなくとも、世界は滅んではいないわけだ、まだ。
 やれることが、あるよね」
「世界は、まだ滅んでいない。まだ、間に合う。僕にもきみにも、まだやれることがある」
 僕は世界にむかってそう叫んだ。
 とにかく、僕は彼女と一緒にやれることを探そうと決めた。僕らが見せられたあの光景には何の意味があり、僕らには一体なにができるんだろう。彼女の夢を現実にさせてはならない。彼女のために、ただそれだけに。
 月蝕の夜、僕は月に祈った。彼女の生きている世界をともに生きたいと。そして、その祈りの通り、彼女の夢は僕たちの現実と交差し、僕の夢もその姿を変えはじめた。
 僕はいつしか不思議な世界に足を踏み入れていた。彼女の夢の世界の中を、僕は生きはじめていたのだ。
「ああ、もしかして、物事は僕らが思った通りに動いているのかもしれない。
 もしも、僕たちの目の前の現実が、僕と彼女の想いのままに実現しているのだとしたら・・・」


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