013

芳明の風景 

 島の暑さは、すっかり僕のこころを自由にしてくれた。もちろん、島の暑さだけではなかったけれど。この島に渡るとき、僕はもう大阪に帰らなくてもいいと決意をしていた。家族と別れて彼女と生きることを選択していた。
 飛行機に乗っているあいだも、バスで向かっているあいだも、彼女のそばに僕がいることを彼女が望んでくれるかどうか、その不安で僕はいっぱいだった。会いに行くのをやめてしまいたいほどの恐怖に駆られていた。あの失踪の時よりも切実に、彼女はすべてを捨てて生きてゆこうとしたのだろう。その捨てたいものの中に、僕も入っているのかもしれない。僕は彼女の忘れたい過去を、思い出させてしまうアイコンだ。
 もしも、彼女が僕を拒絶したら? けれど彼女に会いたいという気持ちは、そんなくだらないことあっさりと吹き飛ばした。
 答えは? 簡単だった。彼女は、笑って、一緒にいる。彼女の風景の中に、僕が存在することを喜んでくれている。少なくともイヤではなさそうだ。
 今を幸せに生きることを選びはじめると、未来のことでこころを濁らせている暇などなくなってしまった。
 今、僕は彼女と一緒に幸せに生きている。それだけでいい。

 キヨさんは毎日ご先祖の仏壇にお茶をあげ線香に火をつけ、語りかけるように祈る。
「今日はいい天気ですよ」といっては手を合わせ、「今日は雨ですよ」といっては線香に火をつける。
「今日は暑くなりそうですよ」と言いながらお茶を供える。
 それだけではなく、あちらこちらの御獄とよばれる聖地にお祈りをしにいっていた。神社のように社が建てられていて奉られているところもあれば、道もないような山の中をひたすら歩いていったところにぽつんと存在している御獄もあった。そんなところに行くときのキヨさんはとてもかっこいい。ちいさなキヨさんをとっくに追い抜いてる高さの藪、うっそうと茂る野草の中を鎌を持って草をかき分けながら、ゆっくりゆっくりと歩いていくのだった。そんなおばあのことを、ハブさえも敬意を払って遠巻きに見ている。
 お酒やお米や水を供え、お線香に火をつけると、キヨさんは正座をして小さな身体をもうひとつ小さく折り畳むようにして、祈りはじめる。
 キヨさんの行動の一部始終が興味深くて面白かった。僕らはキヨさんにくっついて拝みまわっては、それはなに? あれはなに? と子供のように聞いてまわっていた。
「ねえ、キヨさん。そんなに一生懸命になにを祈っているの?」
「うーん、和合するようにかねえ」
「和合?」
「神さまはさ、こんな風に祈れとか、あんなふうにしろとかは何も言わないさ。ただ和合を求めていらっしゃる。ティダはまんまるさーね」
 僕と彼女の周りにはうわんうわんと寄ってくる蚊も、キヨさんの日に焼けた肌には敬意を払っているようで、僕らだけがあちこちをボリボリ掻きむしり、勢い余って血を流したりしながらも、その藪の中でもっとキヨさんの話を聞きたいと思っていた。
「いやと思うから、蚊も寄ってくるわけ。『おじゃましますねぇ、遊びに来たよぉ』って話してみなさい。血も吸いたければ、吸うさね。かゆいのも、じき消えるさ」
「とはいっても、もう、かゆいったら」
 騒ぐ彼女を見ながら、キヨさんはいつものように豪快に笑っていた。
 いつの日か、まったく違う場所で蚊に刺されたときに、キヨさんと過ごした時間を思い出して、幸せな気持ちになるんだろうか?
 そんな風に考えて、僕はまた「今」ではないことを考えている。僕らはいつも未来のことを思い煩っていて、ここにいない。

「ティダって?」
 足元に寄ってくるおおきな蚊を、追い払うために手を振り回しながら、彼女は訪ねた。
「ああ、太陽のことを、方言でティダ、月のことをチチというわけさ」
「ティダ。きれいな響き」
「ティダはまんまるさ。そのティダの光を浴びて、すべての生命は育まれていくさぁ。愛っていうものは、まんまるなんだよ。人のこころも、まんまるーがよいわけ。トゲトゲばかりだとさ、いっぱいぶつかって自分も相手も痛いさあね。
 人がどんどんケンカをするさね。だから、こころを痛めていらっしゃる。
 なんでもいいわけさ。みんな仲良く生きてゆかれれば。もう、たくさんの人が死んださね。神さまの世界は戦争を望まない。この島の神さまも、もちろんそうさ。
 戦争を越えて仲良くできるように。和合するように。おばあはその力になれるように、祈りをしているわけさ」
 キヨさんは姿も見えない神さまの声に呼ばれるままに、ポンコツ軽自動車を乗りまわして、いろんな場所に訪れては祈っていた。それがどんな祈りなのか、僕にはわからない。祝詞もなにもなく、ただひたすらに、大地にひれ伏して、樹々に敬意を払い、空に両手を伸ばして。
「みんな自由とか平和とか、天国を求めているさ。この島にも海の彼方の常世の国「ニライカナイ」の言い伝えがある。
 やしがよ、ここが、この場所が「ニライカナイ」だわけよ。すべての場所がそうであるさ」
 大地を指さし、自分の胸を指さし、天を指さし、両手を広げて世界をさしながら、キヨさんは言った。
「海の彼方にあるというすばらしい国を、海を越えてずっとずっと探しに出かけたとしても、そんなものはどこにもないわけさ。「ニライカナイ」は、お前のこころの中にあるんだよ。
 こころの中の「ニライカナイ」
 そこに住むわけさ。そして、世界を眺めてごらん。すべての場所がそうであることを、思い出すはずさ」
 こころの中の「ニライカナイ」僕らは、そこに住むことができるだろうか。そして、そこから世界を眺めたら、どんな景色が見えるだろう。今を、幸せに生きられるようになったら。
「ティダは光をそそいでくれるけど、注がれたもののことまで考えてはいないさ。
 あたりまえさあね。そんなことまで考えていたら、ぴかぴか照っていられないさ。
 ティダはティダなりのやり方で愛を注ぐ。チチはチチの、海には海の、おばあにはおばあのさ。いろんなかたちがあるさね。そんなの枠にはめれらるわけないさ。お前、おばあを箱にいれられるかぁ?」
「あはは。そんなこと出来るわけないじゃない」
「そうさーね。いろんなかたちがあって、みんな違う。平たいのが平和なわけじゃないさ。そのでこぼこをムリからに平らにすることが平和じゃないさ。でこぼこも、丸も三角も四角もそのまんまを受け入れること。そのまんまで認めあって、つながっていくこと。おおっきな和の丸、それをみんなが持てばいい。それが和合さね」
 キヨさんの言う和合。そんな考え方で世界を見たことは一度もなかった。

 僕らは龍宮城の入り口にやってきた。彼女が命を終わらせるために、飛び込んだその海へ。
 僕はその海を前にして、立ち尽くしていた。このうつくしい空と海でさえ、彼女の苦しみを溶かすことはできなかったのか。そう思うと、僕になにがしてやれるのだろうか、そんな想いがわいてきてまた僕の勇気を奪っていく。
 振り向くと、彼女は砂浜でしゃがみ込んでいた。タオルを首に掛けて、麦わら帽子をかぶって、髪の毛をひとつに束ねて、Tシャツに短パン姿で、ビーチサンダルをはいた足を砂にまみれさせて。すっかりこの島になじみきってしまった彼女は、真剣な顔をして砂をほじくっている。
「よしあきーっ」
 指を止めた彼女は、おっきな声で叫んだ。太陽に照らされて、流れる汗で顔中をキラキラさせて、太陽よりもまぶしい笑顔を僕に向けた。右手にはちいさなヤドカリが、突然のことに驚いて足をバタバタさせている。
 僕は苦笑しながら近づいていった。この人を心配する前に、僕は自分のことをどうにかしないといけないな。彼女がいるからこの島にいるなんて、そんなつまらない生き方はやめるのだ。どこにいても、誰といても幸せで、それでも互いに必要だからその人と一緒にいる、僕はそういう風にこの人といたい。
 それには、僕が強くならなくちゃいけない。じゃあ、どうやって? まだわからないけれど、僕はそれを探し始めることを決めて、ヤドカリを受け取った。僕の手の中で大暴れをすると、砂の上にぽとんと落ちた。
「かわいいね。いっぱいいるよ。」
 自殺しようとまで思いつめて、この岬にやってきたことがあるなんて、すっかり忘れてしまっているのか、彼女は砂浜にばらまかれた貝をつかんでは、陽に照らしてまぶしそうに眺めていた。


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