芳明の風景 月光(3)  027

「私はね。いつも、笑っていることに決めたよ。涙を流すのは、世界のためだけにしたの。自分のためには、もう泣かない」
 そういう彼女のそばにいる僕のこころが涙を流していた。
「世界は人のこころの写し絵なのよ。だから、私たちが泣いていれば泣くし、妬んでいれば恨んでいれば、どんどんそれが影響するの。だから、私はいつも笑って、幸せに生きることに決めたの。
 目に見えない、感じ得ない物事とか、そういうものを触ってみようと思うことが、祈りでもあると思う。お月さまを見ていると、ただ存在とともに、愛とともにあろう、そう思える。そう思えるようになったよ。
 ありのままに世界を眺めて歩いていくことが、きっとすべてを愛することだって、私はそう思う」
 月が欠け、そしてふたたび完璧な円を描きだすまでの気が遠くなるほどの長い間、彼女はたったひとりで歩いてきた長い巡礼の旅の中で学んだ叡智を僕に教えてくれた。
 満月は全天にその存在を知らしめるかのように、誇らしげに威厳を持ち光り輝いていた。それは、彼女の晴れ渡ったこころを表現しているかのようだった。
「うーん、美しい」
 そういって立ち上がると、彼女は目をつぶり、空に向かって大きく伸びをした。その瞬間、幸せという以外に表現のしようのない、満たされた顔をしていた。そんな彼女の表情を、月の光しか届かない山の中で僕だけが見つめていた。
 両足を大きく開いて、背筋を伸ばし、空に向かって手を伸ばした彼女は、天地開闢の女神のように見えた。その後ろ姿は、この大地と天を分けて支えている大きなエネルギーのように力強く、そしてはかなげにも見えた。
 彼女はそのまま、空に向かって、月に向かって、祈りはじめた。僕は何をしていいのかわからず、彼女の後ろ姿を眺めながら両手をあわせて月を眺めていた。
 月のエナジーを全身に浴び空に手を伸ばす彼女は、夜空を翔るイシスのように美しい。月の女神ダイアナでもなく、愛の化身のマリアさまでもなく、優しさの菩薩の観音様でもなく、彼女をイシスだとそう思った。
「ありがとう。こんなところまでつれてきてくれて」
「いや、僕も興味があったから。それに、こんなところ、ひとりで来れないだろう」
「うん。ひとりだったら、恐くてダメだね。だけど芳明と一緒だと、何も恐くないや」
 そう言うと、彼女はすっと眠りについた。ちいさなテントの中で彼女の幸せそうな寝顔を見ながら、僕は複雑な気分に苛まれていた。
 僕らが恋人同士ならば、これほど幸せな光景はないだろう。幼い頃から家族のように育った僕らは、互いのことをあらかた知りつくしている。けれど彼女は、僕が子供の頃から彼女を大好きだった事だけを知らない。彼女にとって僕は従姉妹であり、数少ない親友なのだろう。こんな風に、山の中のテントにふたりっきりでいても、ぐっすりと眠ってしまえるほどに、彼女に友達として愛され信頼されてしまっている。
 僕は彼女に想いを打ち明けてはならない。それだけが僕が彼女のそばにいる最低限の条件だった。「好き」という言葉は、彼女にとっては呪いの呪文だから。それを彼女に植え付け、今もなお苦しめ続けているのが僕の兄だったから。僕は博史の弟だから・・・。
 僕らの苦悩に、出口はあるのだろうか。

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