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第四章
FILE まかいの中の生命


 芳明、覚えている?

 あの頃は、あなたにまだ伝えていなかった。わたしが見てきた「夢」のことを。
「おわりのはじまり」が、あの龍の海だったということをわたしは誰にも言えなかった。
 恐かったんだ。それを口にすると、ほんとうに空から飛行機が落ちてきてしまうんじゃないかって。
 このきれいな島が真っ赤に染まってしまうんじゃないかって。
 ほんとうは、いつもいつも恐かったんだ。

     *
「あんたは、人のことをする前に、自分のことをしなさいよ」
 出かけようとするわたしを呼び止めてキヨさんは厳しい口調でいった。
「なに?」
「ほら、ずっと溜めたままでさ。自分のこともできていない人間が、大きなことをやろうと思ってもダメさ。みんな身の丈にあったことしかできないよ。まずは、自分のこころを整理しなさい」
「おばあ」
「お前は自分だけで生きているわけではないよ。目の前にあるものは全部地球のかけらさ。地球の恵みさあね。あんたも、その中のひとつなんだよ」
 わたしはいつのまにか、龍の海を守るために基地の反対運動にどっぷりとはまり込んでいた。さまざまな思惑が複雑に絡まりながら造り上げられてきた、基地と平和という大きな問題。わたしはなにをすればいいのかわからず、いろんな運動家のひとたちと話しをすればするほどに、わけがわからなくなってしまっていた。
 わたしはなんて無力なんだろう。壊される山や汚されてゆく海や、人々の痛みを取りのぞきたいと願っても、なにをすればいいのかちっともわからなかった。
「でも、それと反対運動とどういう関係があるの? だって、これを止めなければ、あの海は壊されてしまうんだよ。龍のほこらだって。おばあ」
 玄関にいるわたしを部屋に戻すと、キヨさんは台所に行ってお茶をいれてきてくれた。お盆にはふたつの湯のみと、なにも入っていないお茶碗がひとつのせられていた。
「こんな話し、玄関先でなんてできないさ。まずはお茶を飲みなさい。
 黙っていれば、あの海が埋め立てられてしまうことは、おばあもわかっているさ。
 でも、それとこれとは別だよ。反対運動をするために、あんたはここに来たかぁ? 生きるということは、愛することを身体で学ぶってことであるさ。それを学んだ上で運動をしなければ、対立を生み出すだけじゃないかねえ」
 おばあの話はわかるけど、わたしは基地を止めなければならない。止める方法は、わからないけれど・・・
 キヨさんがいれてくれたさんぴん茶を飲み干して、わたしは湯のみをテーブルに置いた。それを待っていたかのように、キヨさんはわたしにお茶碗を渡した。
「それはなんね?」
「これ? お茶碗」
 わたしがそう言うと、キヨさんは首を横に振った。
「なに? まかい?」
 覚えたての方言でそれを呼ぶと、キヨさんは首を縦に振った。
「なんで『まかい』っていうか知っているか?」
 今度はわたしが首を横に振る番だった。
「お前が今まで食べてきたものの中で、生命じゃなかったものはあるか?
 肉や魚だけが生命ではないさ。野菜も米も生命だよ。お前が食べるために、生命は生を終えているわけさ。この椀の中に盛られる前に、殺され切り刻まれ焼かれ煮られて、そうしてやってくる。人間から見ると、この椀の中はおいしそうなごちそうさ。
 でもさ、自分が切り刻まれる立場になってごらん? それは地獄さ。魔界だよ」
 ゆっくりゆっくりとキヨさんは、子どもに話して聞かせるように言葉をつないだ。わたしはキヨさんの言葉の意味をしっかりとつかみ取ろうと、両手の中にあるまかいを見つめていた。
 からっぽのまかい。生命のいれもののまかい。
「そんなに重たいもの、いつまで抱えて歩くわけ? いい加減手放せばいいさ。
 それにしがみついているのは、ほかの誰でもない。お前だよ」
 ひとつひとつキヨさんの言葉が、たくさんの生命と絡まり合って、わたしの両の手の中で浮かんでは消えてゆく。
「憎悪もまた、執着だわけよ。
 いくら世界を愛そうと必死になっても、自分自身を愛することができないならば、そんなものは嘘さ。
 怨念や憎悪。抱えているものを解放しなさい。そのことが、なによりもまず先にすることさ。
 一番大切なことから、逃げてはいけないさ。光も闇も、すべては自分のこころの中にあるんだよ。
 自分自身から逃げつづけながら世界の平和を願って祈りを捧げていたって、なんの力にもならないさ。今のお前の祈りなんて自己満足なだけで、なんの役にも立たない。お前のこころの中の、それを和合できないうちには。
 全部吐き出しなさい。こころの中にあるものを、膿になって腐りきって、臭くなる前に。プツプツと発酵して、ガスを生み出しているその記憶を」
 まかいの中に、ぽたりぽたりとわたしの涙が落ちていった。ドロドロとした感情を抑えて抑えて、殺して殺して、なにも知らないふりをしているわたし。
「そんなにむずかしいことじゃないさ。大丈夫、お前にはできるさ。
 人を許すことは、自分の過去を許すことさ。傷を癒すことは、世界を癒してゆくことだよ・・・」
 ヘドロのように固まってひどい臭いのする腐りきった感情が、ボタリと重い音を立てながら垂れ落ちてきた。髪や顔や全身をどす黒く染めながら、わたしは魔界の中で泣いていたり卑屈に笑っていたりした。コールタールのように固まった感情が、ボタリボタリと重い音を立てながら落ちてくる。
「お前が幸せに生きることで、殺して食べた生命たちを供養するのさ。人は、食べなければ生きてはいけない。どう食べて、どう生きるか、それがほんとうに大切なことさ。食べることは、生命の輝きを身体に取り入れることで、その生命の経験を受け取ることであるさ。魔界のものを、おいしく食べることで神さまの世界に昇華させることができるのが人間だわけ。生きるということは、たくさんのいのちと一緒に歩いてゆくことだよ。
 外に出て風を感じなさい。草花や虫たちと語り合いなさい。空の青さをこころに写し取りなさい。
 自分とお話しをするんだよ。お前がね、この地球のかけらであって、すべてであるということを知らないのはお前だけだよ。そのほかのものはみーんな、そのことを知っていて、お前が思い出すのを待っているさ。
 いいかげんに自分を愛することを学びなさい。自分を愛することを選ばない限り、お前はほんとうに大切なものを愛することはできないさあ。
 こころをひらけば、自然は教えてくれる。すべては、お前のこころの中に在るんだよ。
 大きなことをやろうと思わなくていいさ。まずは自分がなにものであるのかを思い出せばいい。そうすれば、道はひらかれてゆく。
 なにも、心配はいらない。大丈夫さあ」


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