024

FILE 愛

 痛みの中で目を覚ますと、にじんだ視界の向こうにみえてきたのは、心配そうにわたしをみつめる目だった。
「誰?」
 かつて、母が注いでくれたようなまなざし。愛されているということを意識することすらなく、ありのままのわたしという存在の、そのすべてが受け入れられていることを諭しているかのような、それを見るだけで安らぎに包まれる慈愛の瞳。
「おかあさん? おとうさん?」
 夢の世界に置き忘れていた意識が戻ってくると、そのまなざしの主が誰なのかがわかった。それが誰かを身体が理解した瞬間、爆発的な涙がやってきた。
 まなざしは、わたしを包み込んだ。羊水の中、ひたすらに生きることを求めて成長しつづける胎児のように、すべてを許された存在として、わたしはそこに在ることを許されていた。
「芳明」
 あなたの胸にひたいをくっつけると、心臓の音が響いてきた。やわらかい鼓動が頭を震わせていく。やさしい深い音。生きているという証拠の音がわたしに届いたよ。おかあさんのおなかの中で、分離感を知らずに、ただただ宇宙と母親とひとつだった頃に聞いていた音が。
 そっと伸ばされたあなたの手が、思慮深げにわたしにふれた。髪をなで頬に流れる涙をふき取るあたたかい手に、止まることを知らない泉のように涙はあふれつづけた。
「芳明」
 あなたの腕の愛おしさに、生命を感じた。ひたいを胸にぎゅーっと押しつけると、頭をなでてくれたね。わたしははじめて手を伸ばして、あなたを抱きしめた。やさしい腕がわたしを包み込んでくれた。
「一緒にいる。きみが望む限り、僕はずっと一緒にいるよ」
 髪をなでてくれるあなたの指先から、愛しさが流れ込んでくる。流れつづける涙をぬぐう指先は、幼いわたしを慰めた少年のもので、あのときとなにもかわらずにわたしを包み込んでいた。
「夢を見ていたの。いつもとなにも変わらない夢」
「うん」
 あなたは背中をさすりながらうなずいた。
「許しなさい。愛しなさい。幸せになりなさいって 『声』がわたしに言うの。でも、わたしはそれを受け入れることができない。だって、幸せになるって何?
 出来ないよって、わたしは言うの。そして、飛行機は墜落する」
「飛行機?」
「少しずつ、かたちは違っても、いつも同じような展開の夢」
「それで泣いていたの?」
「覚えていないくらいに小さい時から、同じ夢を見ていたの。その夢を見るたびに、わたしは泣いて目覚めていた。一時はその夢も見なくなって普通に暮らしていたんだけれど、忘れていた夢が急に戻ってきたの。芳明の家にいるときだったわ。その夢は強烈だった。
 あまりにもリアルな夢で、冬だっていうのに、わたしは冷や汗でびっしょりになってた。
 目が覚めてからも、そのあまりの衝撃のせいで、ふとんの上で指一本動かすこともできなくて固まっていた。頭の中が動き出す前に体を動かしてしまえば、このイメージがすべて消えてしまうんじゃないかって。それがすごく恐かったの。絶対に忘れちゃいけないことなんだって。
 ある夢では、燃える山から逃げ出す人々とともに走りつづけた。こんなに走ったのははじめてだってくらいに、転げるように坂を下りたの。遠くに見える街は、山以上に炎に包まれていた。真っ黒な煙が空を覆っていて、炎が空を焦がしていたわ。
 何度も何度も、その夢はわたしを襲った。ある時は街のシーンを、ある時は山のシーンを、あるときは海のシーンを、ある時は田舎町のシーンを。いろんな街の滅びの瞬間を見せられてきた。あの人たちの顔、すべてを覚えているわ」
 あなたの腕の中、身体をまるめてちいさくなって、わたしは真っ暗なところにいた。芳明とわたしの鼓動だけが聞こえてきた。身体の奥深いところから、どんどん涙と言葉があふれてくる。
「まるで、わたしが愛することを拒絶したその罰のように、破壊は連動して起きてゆくの。いつも、そうだった」
 そう思い巡らせたとき、なにか大切なことに気づいたような気がした。けれど、それはわたしの深いところで起こっていることで、まだまだわたしはその重要なことに気づくことができなかった。
「愛することを拒絶した罰が破壊?」
「わからないよ」
「僕の幸せは、きみが笑っていることだよ」
「なによ、それ。
 これはなにを意味しているんだろうって考えはじめたとき、あの戦争が起こったの。このまま自分のこころを殺して生きるなんてできないって、そう思って家を出た。
 自分でもどうしていいかわからなかったの。わたしが見つづけてきた夢は過去の戦争なんかじゃなかった。そう遠くない、未来の夢。それを見せられて、何度も見せられて、夢の中ではなにもできなくて。ねえ、あなたならどうする?
 夢の中の話だって、起きたら笑って忘れられる? わたしには、できない。
 世界は崩壊するの? わたしはなにをすればいいの?
 だから、いろんなところにいったし、いろんな勉強もしたわ。家を出てから一年間、芳明がわたしを見つけるまで、わたしは世界の仕組みを追いかけていたの。
 結局、あの戦争で世界が滅びることはなかった。でも、わたしの生き方はかわった。わたしは、それを後悔はしていない」
「ひかり」
 あなたの声が額に響いた。わたしは繭の中で眠るさなぎのように、深くやすらいでいた。芳明に抱かれて目をつぶっているのに、その声はわたしの額から頭の中へと入り込み、色を持って蠢きはじめた。
「ひかり」
 芳明が呼ぶわたしの名前を遠い意識の中で聞いていた。こんなにも美しい響きをもってわたしの名前が耳に届くのははじめてだった。蠢きはわたしの身体を支配して、背骨をズンズンと刺激しつづける。涙で溶けだした胸に抱えていたものが、どんどん熱を持ち身体に染み渡り振動をはじめた。
「受け入れることなんて、できなかった。だって、わたしみたいな人間が幸せになんてなれないもの。でも、でも、もうイヤなの。
 確かにそうかも知れないって思う。許せないことが積み重なって、世界はこんなになっちゃったのかもしれない。
 芳明、許すって何? 愛するって何? 幸せになるって何? わたしは知りたいよ。
 もう、それを拒絶した結果、飛行機が墜落するのは、イヤなの。たとえ、夢の中であっても」
 熱くて、身体を揺さぶる震えは、胸から背中にかけて漏斗を横にしたようなカタチに広がっていった。それが広がるほどに脊椎の痛みは増してゆく。けれどそれは不快な痛みではなかった。あなたはそれを知らないはずなのに、背中をさすりつづけてくれていたの。
 芳明の胸から顔を離すと今度はわたしの胸にあなたを抱いた。左の腕であなたの頭を支え、右の手で髪をなでた。芳明の髪に触れ、背中をなでる。人を胸に抱いたのは初めてのことだった。それだけでよろこびが満ちてきて、愛おしい地球をまるごと抱きしめて、慈しんでいるような感覚に貫かれた。
 愛しいものを胸に抱く幸せを味わったとき、おかあさんや、キヨさんや、芳明が、そうしてくれたときにどんなにわたしを大切に思ってくれていたのかということを、やっと知ったわ。
 わたしの胸の中で、あなたも涙を流していた。額から生える芳明の髪、その一本一本さえ、愛しいと思った。あなたの髪に指を通して、わたしはやわらかさを味わった。指に触れる細い黒い糸でさえ、わたしの指に愛を伝えてくる。
 あの家で、わたしの髪はわたしを押さえつけるための道具でしかなかった。わたしにはこの髪を無造作に掴み、引っ張ることはできない。
 あなたの頬に触れ、涙をぬぐった。その指で、わたしの頬の涙もぬぐう。芳明の涙とわたしの涙はひとつになった。指先で少し光るしずく。ふたりの涙。それは、ほんとうに美しいものだった。
 これを愛と呼ぶの? これを幸せと呼ぶの? これが、好きってこと?
 愛し合う人々は、みんなこんな風によろこびを与え合っているの? こんなの知らない。わたしは知らない。
「好きだ、ひかり。好きだよ」
 フーフーと荒い息で、わたしを押さえつけてゆく博史。あの家のことが浮かんできて、わたしの全身から力を奪ってゆく。
「ちがうっ」わたしは自分に言い聞かせた。博史は何度も何度もわたしを「好き」って、「愛している」ってくり返した。でも、違う。あれは、愛なんかじゃない。
 博史はわたしを愛してなんかいなかった。彼のしたことは、愛の行為なんかじゃない。
「なに? 愛って、なに? 
 愛は恐くないの? 好きは、痛くないの? 愛されることは殴られることじゃない、の?」
 自分の中にこみ上げる幸福感と、とまどいと、浮かび上がって来た過去の苦しみとがぐちゃぐちゃになって、訳がわからなくなった。
「芳明、愛ってなに? 愛ってなんなの?」
 荒くなった呼吸で胸が上下をくり返す。芳明の頭の重さがわたしを締め付けてゆく。
「わたしね、何度も何度も博史を殺したの。何度も何度もよ。ほんとうに彼が死んだ時、わたしにはわからなかった。自殺だっていうことが。そのくらいわたしが博史を殺したの。そう、ずっと思っていた。今も、そう思ってる」
「ひかり?」
 大切な人の頬に手をやり、耳に触れる。
「わたし、あなたのお兄さんを殺したの」
「何を言ってるんだ? あいつは、兄貴は自分で命を絶ったんだよ。きみが殺したんじゃない」
「でも、殺せるくらい憎んでたわ」
「どうして」
「あなただけには言えない。でも、憎悪で人が殺せるなら、わたしは確実に博史くんを殺していた。
 その呪縛から逃げたくて、すべてを捨てるために船に乗ったの。龍宮城ですべてを終えるために。
 龍の王様はわたしを受け入れてはくれなかった。その変わりにキヨさんが迎えに来てくれたの」
 わたしの胸に顔を埋めていたあなたは、両腕に力を込めてわたしを抱きしめた。
「きみそのものだよ。そのまんまのきみが愛だよ。ひかりのすべてだよ」
「知らない、そんなの。わたしは、そんなきれいなものじゃない。わたしは、愛なんて知らない」
 あなたの右手がわたしの髪をなでつづける。やさしい指が頬にたどり着き、その指は頬の肉をつまんだ。わたしの目を真っ直ぐに見つめたまま、芳明の指はこめかみを撫で、髪をすいてゆく。テントの外では虫たちが、ささやくように歌いつづけていた。
「愛そのものが、愛を認知できるわけがない。けど、きみは愛そのもので、まわりに幸せを与えつづけている。僕はそれに包まれてる。きみが生きていることが世界を幸せにしてるんだ」
 わたしの胸に直接響いてゆく音を全身で聞いていた。
 わたしがいることで幸せを感じることのできる人がいる? 芳明は、幸せなの? ほんとうに?
 わたしはここに、この惑星に、生きていていいの? 
 芳明、あなたを好きでいてもいい? こんなわたしが、あなたを好きでいても、いい?
 ずっとわたしのそばにいてくれる芳明。ダメだと言われることが恐くて、わたしはそれを考えることさえ、自分自身に禁じていた。それを言ってしまうとすべてが壊れてしまうのかも知れない。わたしがあなたを好きだなんて、そんなこと。
 芳明がいなくなるなんて。そんなことを、考えるだけで気が遠くなってしまう。そんなこと伝えてしまったら、わたしはまたひとりで生きてゆかなきゃならなくなる。そのことが、わたしは怖くてたまらなかった。
 でも、もう逃げたくない。わたしは知りたい。愛することを。許すことを。幸せになることを。
 声を詰まらせながら、やっとその言葉を吐き出した。
「あなたが好き。もう逃げたくない。芳明が好きなの」
 知りたい。愛することを、わたしは知りたい。
 身体を少しずらして、わたしは下にさがった。彼の顔が目の前にある。彼の顔に手を伸ばした。そして、彼の頬にキスをする。じっと見つめあって、吐息がかかるくらいの場所で。芳明が照れ笑いをしながら、ふわふわのタオルで涙をぬぐってくれた。ドキドキが止まらなくなって、そのまま心臓が破裂して死んじゃうかと思った。わたしはゆっくり近づいて、彼の唇にわたしの唇を重ね合わせた。喜びがズキンと身体を貫いてゆく。
 そっと離れて彼を見た。幸せそうな顔をして、わたしを見つめるその瞳。そう、わたしは知ってる。芳明がずっとずっとわたしのことを好きだったことを。幼い頃からいつもお姫様のように、わたしを大切に守ってきてくれた人。泣いてるわたしに、龍宮城の話をたくさん聞かせてくれた人。
 目を閉じると幼い頃のふたりの夢が浮かんできた。龍の島で、満月の光に包まれて、虫の声しか聞こえない森の中。わたしたちは口づけを交わしながら、蒼い龍の海を泳いでいた。
「芳明、ごめんね。わたしだけが先に龍宮城に来て。龍宮城に行こうねって、約束したのに。
 龍の海を一緒に見ようって言ったのに」
「きみがここまで僕を連れてきてくれたんだよ。ありがとう。僕たち龍宮城に一緒に来たね」
「芳明、ありがとう。芳明」
 ためらいがちな舌が、わたしの唇を訪れる。驚いて、怖くなって、身体を離してしまった。けれど、そこにいるのは、わたしの大切な人。この人はわたしを傷つけない。踏みつけない。そう自分自身に語りかける。わたしは彼の瞳をみつめた。いつだってわたしを映してきたその瞳。彼の目の中にわたしが写っていた。少しおびえて、けれど前に向かおうとしているわたし。
「芳明」
 彼のやわらかい唇にたどり着くようにゆっくりと顔を近づけた。やさしい唇から芳明の想いを感じて、わたしはそっと舌を出してみせる。ぎゅっと抱きしめられて、わたしたちの舌ははじめて出逢った。
 月の光に照らされて、テントの中、寝袋の上、寝ころんだふたりの絡み合う足。軽くひらいた唇が重なりあって、ふたりの舌が静かに言葉を交わす。わたしの身体には芳明の激情が流れ込んできていた。けれど、恐がりのわたしを傷つけないように、芳明は爆発しそうな想いを抑えてくれていた。彼は震える指先で、そっとそっとわたしの身体を旅しはじめた。
 目を閉じると、蒼い海が広がっている。夢に見つづけてきた、おとぎ話の海。ふたりは手をつないで、白く大きな翼をひろげて飛ぶことを選んだ。
 芳明の手を取ると、そっと胸に当てた。ふたりの手は重なったまま、彼の手はわたしの胸の上で固まったまま動くことができないでいた。
「ひかり?」
 わたしはそっと頷いた。そして、彼にキスをする。頬に、首筋に、耳に。大きく息を吐き出すと、彼はわたしを強く抱きしめた。
「好きだ、ひかり」
 何度も何度も聞きつづけたそのセリフに、一瞬にして身体が硬直した。記憶のスイッチがふたたび入れられて、怖くて涙があふれてきた。
「ひかり?」
 わたしの異変に気づいた芳明は、力を弱めてわたしを見た。その瞳はわたしが愛する人のものだった。
 何度もしゃくり上げながら、こみあげる涙で声を震わせながら、鼻水をすすり上げながら、わたしは彼を感じた。わたしを抱きしめるその人から流れ込んでくるのは、恐れから生まれた征服欲じゃない。ただひたすらにやさしいものだった。
「好き。知ってる。芳明はわたしを傷つけない。もう逃げない。好き、あなたが好き」
 芳明の手はわたしの涙をぬぐってゆく。それでも流れつづける涙を、彼の唇が吸い取っていった。わたしたちは、もう一度はじめからやり直していった。頬をなで、髪をなで、抱きしめあった。
「大丈夫、大丈夫」わたしは自分に言い聞かせて、腕の中の愛しい人を見つめながら、彼の手をTシャツの中に誘った。あたたかい手が冷えた身体に熱を持たせてゆく。ゆっくりと身体中の熱が上昇するように、彼の手が上に昇ってゆく。その手が胸にたどり着く頃、わたしたちはふたたびキスをしていた。濃厚な、映画に出てくるような口づけを。
 砂糖でできたはかないお城、お姫様が幽閉された高い塔の突端に触れるかのように、芳明はわたしに触れてゆく。首筋、肩、腕、おなか・・・。彼のキスがわたしを満たしていく。天から光のしずくが舞い降りてゆくように、彼の唇が触れゆく場所の、そのすべてが赦されてゆくことに気づいたわたしの瞳からは、悲しみではない涙が生まれてきた。
 わたしの中、深く閉じこめていたつぼみが、ゆっくりとひらいてゆく。熱くなって、咲きこぼれてゆく。歓喜の薔薇が世界を喜びと愛の赤で染めてゆくように。
 すべてを脱ぎ捨てて、わたしたちは互いの身体を慈しみあった。芳明の肩、腕、おなか、足・・・ そっと手を這わせて硬いものに触れると、彼は身震いをした。荒くなった息で、胸が上下に揺れていた。わたしの太ももの内側に彼の手がやってきた。そのまま滑るように手は奥へと向かってゆく。やがてたどり着いた指は縦の亀裂をなぞり、わたしをひらいてゆく。
「大丈夫?」
 耳もとでそう尋ねる彼の言葉に応えることなく、わたしは彼を握る手に力を込めた。
 わたしは彼に抱かれたまま、涙を流しつづけた。もうそれがなにを意味する涙なのか、わたしにはまったくわからなかった。彼の喜びそのものになろうと、すべてを芳明にゆだねた。深い喜びの泉から湧きつづけるしずくが、わたしのまつげや頬を濡らし、わたしの中心へと入ろうとする彼の指をすべらせた。
 わたしの奥深くまで芳明の指が入ってきて、そっと動きはじめると、わたしは今までついたことのない溜息を吐き出していた。
 わたしの中で自在に動く彼の指が、その場を刺激するたびに、わたしの額に光が射し込んできた。
「これは? なに?」
 まぶたを閉じていても、まばゆい蒼い光が注がれゆくのがわかる。
「ひかり? 大丈夫?」
 甘い息を吐きながら、わたしは頷く。かき回されてぐらぐらになりながら、どこにも行ってしまわないように必死に彼にしがみついた。背中をのけぞらせながら、宇宙の中をたゆたっていた。わたしの身体は、そこにあるのに。芳明とともに、そこにいるのに。けれどわたしは、遠き場所に立っていた。
「こわい」
 自分がどこかへ消えてしまいそうで、すべてに溶け出してしまいそうで、それでも彼の手は止まってはくれない。
「大丈夫だよ、力を抜いてごらん」
 言われるままに力を抜くと、かさかさと寝袋が音を立てる。わたしの足のあいだに移動してしまった芳明は、わたしの足をもっと大きく開いた。わたしの中で旅をする指は動きを止めることなく、ちいさな生き物のように踊りつづけていた。耐えきれずに目をつぶると、深い海の彼方、龍が身体をくねらせて翔ていた。深い瞳、おおきな力でわたしを見据える。
 わたしの中に、深く芳明が入ってきた。わたしたちはつながってひとつになり、指をからめあって手をつないだ。彼はわたしを見つめてキスをする。彼でいっぱいになったわたしは、揺り動かされながら、はじめての幸せを感じていた。
 わたしの上になって腰を動かしてゆく芳明の後ろに明るい光がさしてきた。外は真っ暗で月の明かりしかないはずなのに。わたしは抑えきれずに声を上げながら、その光を見ていた。
 この喜びを、一体なににたとえればいいのだろう。
 いのちが煌めいて、世界が歓喜し風は甘く薫り水はとろけた。わたしはよろこびそのものになる。森の中に深い『声』が響き渡り、それに応えるためにわたしは目を閉じた。
 身体もこころも魂もエネルギー体も振動しつづける。大地とともに在るのに空を舞い、空を舞っているのに大地に身をゆだねている。個は全となり、全は個となり、そのすべてを失い、手に入れる。見ているものが、見られるものとなり、内側が外側となってゆく。揺らめき、煌めき、縮小し、拡大する。 『声』は、壮大な映像をわたしに見せた。それは、一瞬の中の永遠。わたしのすべての細胞に、そのヴィジョンが刻み込まれた。宇宙が生まれるより前の、その音の中に包まれて、わたしの細胞はバラバラに分解され、きらめく色を与えられ、ふたたび組み立てられてゆく。芳明に抱かれ愛されるその身体を、高き場所から眺めていた意識は、この惑星にもたらされた愛の喜びのなかにとけ込んでいった。
 そしてわたしは蘇生してゆく。
 わたしたちは歓喜そのものとなり、たくさんの喜びを吸い込んで、たくさんの喜びを吐き出した。胸からわきつづける喜びの蜜は、とどまることなく溢れつづけて、わたしは今にも埋もれてしまいそうだった。
「芳明」
「好きだ、ひかり」
 そういって、芳明はわたしを強く抱きしめた。その言葉にかけられていた呪術は、もうわたしに恐怖をもたらすことはなくなった。
 わたしたちは、振動の中に溶けあって、どこまでも深く泳ぎ、どこまでも遠く翔けていった。

 その朝、陽が昇り世界が光で満たされると、すべてが変わっていた。
 わたしの身体とこころは、昨日の朝と違っていた。わたしは愛することを知った。愛されることを知った。人を抱きしめて髪をなでることの幸せも、抱きしめられてキスされることの喜びも。
「人を愛することを知るというのは、こんなにも美しいことなの?」
 わたしは木々に問いかけた。木々はなにも答えることなく、そっと風に葉を揺らした。
 わたしは世界にとけ込んでいた。喜びも、悲しみも、この惑星が抱えるすべての想いを抱いて呼吸をしていた。それを知ってしまったら、人を傷つけることなんてもうできない。
 彼に抱かれながらたゆたった宇宙の果て。なにもかもが、そこではひとつだった。果ての果て、そのまた果ての宇宙がはじまる前のなにもないところでは、そのすべてとなった。
 ふたたび、蒼い惑星に戻ってくると、この惑星を包み込む大気のような存在になって、人類が瞬間瞬間に味わいつづける、莫大な数の喜びや悲しみで明滅する感情の色を眺めていた。その喜びに涙を流し、その悲しみに涙を流した。それは静かな雨となって、海や大地に降り注いでいた。
「わたしは、許して、愛して、幸せに生きることを選ぶよ」
 もう、なにひとつわかつことはできない。破壊を選択する手さえ、わたしとひとつだということを、わたしはもう知ってしまったから。


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