芳明の風景 月光(2)  026

「芳明、いま何時?」
 そういって、彼女は僕の腕をつかむと時間を調べた。
「いまから、壮大な物語がはじまるから。その目で、そのこころで、ちゃんと見るんだよ」
 振り返りながら、僕に向かってそう語りかける彼女の目は、真剣そのものだった。
「なにをするつもりなの?」
「月に魔法をかけるの」
 僕のとなりにぴったりと寄り添うように立つと、両手を月にむけて掲げて、僕の視界から月を隠してしまった。かわりに僕の目を奪ったのは、彼女のしなやかで細い指だった。その両手からも、月の光はこぼれてくる。彼女の手も、白い月の光を浴びてはかなげに光っていた。
「私は、お月さま大好き。芳明は?」
「うーん、昇りかけの月とかを見ると、その大きさに驚いたりすることはあるけど、普段はあんまり気にしてないよ」
「でもね、お月さまはいつも、私たちのことを見ているんだよ」
 両手で月を隠したまま、彼女は話しを続けた。
「芳明。あなたはなにがあったとか、どうしたのとか、そんなことを一言も聞かなかったね。だけど、ただ一緒にいてくれた。それが一番うれしかったの。
 私は自分でも、なにをしたのか、なにをしようとしたのか、ほんとうはまったくわかっていなかった。自分自身になにが起こっているのかも」
 僕は、彼女の告白をただ黙って聞いていた。
「私はただ、龍宮城へいきたかったの。そこでなら、もう苦しむことなく生きてゆけるのかなって。
 人を恐いと思う。そのこころを持っている私が恐いよね。だけど、男の人が恐いというその気持ちは拭いきれない」
 彼女の、そのこころの奥底には誰にものぞくことのない深い谷が存在していた。それでも普段の彼女は、まわりにいるすべての人に喜びをわけてしまうような不思議な微笑みを絶やすことはなかった。
「愛するって、どんなことかわからないって、私芳明に泣きついたことがあったでしょ。ほんというと、それは今でもわかんないよ。愛するということの意味も知らないまま、こんなに年をとっちゃった。
 でも、いろんなことを模索して、悩んで、葛藤し続けることが生きるってことなんだと思うとね、その必死さが愛なのかなって、思うようになった」
「みんな愛するために生まれてきたんだ。出会って、別れて。その中で、傷つけたり傷ついたりもするけれど、愛して愛されたことは消えやしない。愛していいんだよ、愛されていいんだよ」
 実をいえば、僕にだって愛の本質がどういうものかなんてわかってやしなかった。第一、愛そのものを理解している人間なんてこの世界にどれだけいるというんだ?
「あいつが君をいくら愛していると叫んだところで、そんなものを愛とは呼ばない。ほんとうに好きならば、君を傷つけたりなんかしない。僕は、君が傷つくようなことをしようとさえ思えない。
 あいつは君を愛してなんかいなかった。君にこれほどの苦しみを背負わせるために命を絶つなんて、愛していれば出来るはずがない。どうして、誰もそのことを君に教えなかったんだろう。たった、たった一言で、君のこころが救われたかも知れないのに」
「救われる?」
「ああ、そうだよ」
「誰かの一言で救われたりなんて、ほんとにするのかなあ?」
「少なくとも、僕は今断言する。君はなにも悪くなんかない。
 だけど、君の選択はまちがっていた。死んでしまうということは、とても簡単に思えることかも知れない。けれど、簡単なことじゃない。永劫に刻みつけられる罪だ。誰も人を殺すことなんてできない。君が君を殺すことも」
「なんでこんなことが自分の身に起きるの? ってあまりにもびっくりして笑うしかないようなこととか、想像もつかないいろんなことが起こると、どうして? って思うことあるよ。でも生きて行くしかないんだよね。目の前にある人生を生きて行くしか、それしかないんだよね。
 生まれてきたからには死ぬまでは生きなくちゃならないってやっとわかった。どうせそうならば私は笑って、踏ん張って、たまにはへこたれたって、それでも笑って生きていたいなあ」
 この島がこんなにも彼女のこころを開放し、こんなにも強くした。彼女はほんとうに龍宮城にいったんじゃないだろうか。そして、龍の神さまから大きな大きな生命の秘密を教えてもらったに違いない。
「きっと人間も、ほんとうは月と同じリズムで暮らすのが一番いいんだよ。一年に一三回、ゆっくりとまるくなって、ゆっくりとなくなって。そうやって満ち欠けをくり返して、月は何度も何度も生まれ変わっていくんだよね。
 身体のサイクルを考えると、お月さまにあわせて生きていくのがいいんだと思う。
 人間も、覚醒して、そして忘れて、また傷ついて。そして生まれ変わって、そうして何度も何度も、おなじことをくり返してきた。みんな。誰もが」
 それは彼女が沖縄にいる間キヨさんから学んだ自然のサイクルにあわせたシンプルな生き方だ。沖縄だけではなく、世界中の先住民がそのサイクルで今も暮らしている。太陽暦を使っている文明人だけが、忘れてしまっているリズムだった。
「むりやり太陽のリズムに合わせるから、精神のバランスが崩れてストレスがたまってしまうんだ。誰かが勝手に決めた時間に、僕らは閉じこめられているわけだ。こころも身体も精神も。精神バランスを崩した人間は、それを取り戻すために、別に必要でない「なにか」に頼るんだ。それが、宗教だったり、組織だったり、学歴だったりする。けれど、それに上手く適合できなくて、精神を病んでしまったり人を傷つけたりする。人はなんて弱いものなんだろう」
「お月さまは、いつも私の話しを聞いてくれる。私がつらいときも、さみしいときもね、いつも空で笑って輝いてる。月の道を見ていると、私もその道を通って月に帰りたいって、そう思う」
「君は、かぐや姫なのか?」
「そんないいもんじゃないけどね」
 そういいながら、彼女が僕の目の前から手をどけると、まんまるだった月は、その姿を変えていた。
「なに?なにをしたの?月が欠けてるよ」
「こうして、お月さまも生まれ変わるの」
 空に染みいるような声でそうつぶやいた。僕は呆気にとられたまま、ぽかんと口を開けて欠けてしまった月を見ていた。彼女はずっと挙げ続けていた手に血を戻すようにぶんぶんと振り回している。
「すごいねー」今度は座り込んで、空を見上げている。
「一体、なんなんだ・・・」
「月蝕」
 あまりにも惚けたまんま空を見ている僕の姿を見て、笑いをこらえきれなくなった彼女は、吹き出しながらそういった。
「まさか、ほんとに魔法だと思った?」
「まさか・・・」
 僕らは、欠けてゆく月を眺め続けていた。

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