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FILE 夢

 許しなさい
 愛しなさい
 幸せになりなさい

 あの日、わたしは龍の海にすべてを捨てた。けれど海に飛び込んだわたしの背中には、まだ羽が生えていなかった。ううん、白く美しかった大きな翼を、わたしは失ってしまっていたの。とっくの昔に。扉は閉ざされたままで、この命を海に投げ出して、すべてを終えることを許してはもらえなかった。
 そして『声』は言う。「許しなさい。愛しなさい。幸せになりなさい」と。
 許すことは、できるかも知れない。世界を癒すために博史を許さなければならないのだとすれば。けれど、愛して、幸せになることは、わたしには難しい。大切な芳明に抱きしめられただけで、あんな風になってしまうわたしなんかに、そんなことは無理なの。
 男の人が恐い。誰かが「好きだ」というたびに、こころは恐怖に怯えてしまう。あの男が植え付けた狂気の種にわたしはふるえつづけている。そんなわたしが人を愛するなんて、できるわけがないよ。それに、わたしのような汚れた女を愛してくれる人がいるはずもない。
 セックスが愛の行為だなんて。わたしには理解できない。わたしにとってのそれは、恐怖と痛みと屈辱をともなう、強きものが弱きものの尊厳を奪うためにする行為だ。本当はそんな考えは間違っていて、わたしが見たことも味わったこともない、愛という深い想いから発する行為があるのかも知れない。けれど、わたしはそれを知らないし、試してみようとは思えない。
 問題はセックスだけじゃない。わたしはきっと、本当にこころの底から人を愛することも、愛されることもできないだろう。そんなわたしが、どうやって世界を愛するというの?
「許しなさい。愛しなさい。幸せになりなさい」
『声』は繰り返す。針の飛んだレコードのように、ただそれだけを。
「できない。許すことはできても、世界を愛することはできても、わたしには幸せになる権利なんてない。わたしなんかが、幸せになれないよ」
 そう考えた次の瞬間、夢は突如場面を切り替えた。胸が切り裂かれるような痛みがわたしを襲った。
そして、いつものシーン。
 飛行機は墜落し、すべての乗客は死に絶え、その大地に生きる人々も逃げ惑い足を引っ張りあい、やがて息絶えた。空を自由に舞う巨大な鳥の残骸も山も人もすべてが燃えていた。
「やめて、お願い」
 わたしの言葉は今夜も届かなかった。誰ひとりとして助けることはできなかった。なんのためにわたしは存在しているのだろうか、なんのために生まれてきたのだろうか、なんのためにわたしは今を生きているのだろう。
 痛くて苦しくて、耐えきれなくて目が覚めても、そのこころの痛みはいつまでも消えることはない。
 それは、わたしの夢。小さい頃からくりかえしくりかえし見せられた夢。どんどんリアルさを増してゆくその夢は、こんな山奥にまでわたしを追いかけてやってくる。
「お願いだから。もうこんな夢を見せるのは止めて。わたしにどうしろというの?
 お願いだから。この夢を止める方法を教えて。止められないのなら、どうすればいいのか教えて。わたしにほんとうのことを教えてよ」
 わたしは、夢の中で夢に願っていた。

芳明の風景 涙

 目を覚ますと、彼女の目から涙がこぼれていた。まだ空は暗いままで、月の明かりがあたりを少し照らしていた。僕は涙がつたう彼女の頬を指先で拭った。
「いったい、どんな夢を見ているんだろう。僕にはその夢さえも、取り除いてあげることができないのか。彼女の見ている夢の世界を見ることができればいいのに。
 僕が世界を創造できるなら、彼女が立っているその世界に僕も一緒に生きていきたい。そして彼女の重荷を取り払ってあげたいよ」
 彼女の寝顔を眺めながら、僕は夜空の月に祈りをささげた。
 ゆっくりと目を開けた彼女は僕が横にいることを確認すると、ふっと力を抜いて無邪気な子供のように泣きはじめた。はじめは静かに、やがて声を上げていつまでも泣きつづけた。僕は彼女に手を伸ばし髪をなでた。
 彼女は僕の両腕の中に滑り込んできた。そして僕の胸に顔を埋めて泣いていた。僕はこの世界の中で一番愛する、大切にすべきものを胸に抱き、夢の中の人たちが彼女を慈しみながら呼んだように、彼女の名をそっと呼んだ。


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