芳明の風景 夢と現実(2)  031

 洞窟の中に入り平らになっている岩を見つけると、彼女をとりあえずその上に座らせた。動揺した彼女をそのまま表現しているかのように、いつもはきれいに纏めている髪がほどけてくしゃくしゃになってしまっていた。ここまで歩いてくる間に彼女の髪留めが外れて、どこかに落としてしまったようだった。僕はリュックを降ろしてペットボトルを取り出した。
 ピチャーン。
 水滴が水たまりに落ちて洞窟内に響きわたる。その水の音と彼女の荒い呼吸としゃくりあげるヒックヒックという小さな声しか聞こえてこない。この中は、さっきとなにもかわってはいない。ついさっきまでは、満足して歩いていたこの小道。あれから、ほんの少しの時間しか経っていないというのに。今は、すべての力をなくしてただ座っているだけだった。一体、どちらが夢で、どちらが現実なのだろうか。
 ペットボトルのキャップをあけると水をコップになみなみと注いだ。この冷たい水を飲めば彼女も少しは落ち着くだろう。頼む、落ち着いてくれ。僕は無言で彼女の前にそのコップを差しだした。
 彼女は力無くコップを手に取ると、両手で包み込むようにしてただ眺めていた。彼女の瞳からは、ポロポロと涙がこぼれ続けている。
「飲みな、まずは。泣くのはそれからだ」
 こくんとうなずくと彼女は一気に飲み干した。何度も何度も深呼吸を繰り返すと、彼女はようやく落ち着きを取り戻しはじめ、長い髪を手ぐしで整えようとしていた。
 僕はこんな彼女を見たことがない。いつも明るくて、脳天気で、たまにとてつもなく突飛なことを言い出して、それでいて真面目でちょっと堅すぎるところもある彼女。彼女が泣いて取り乱して崩れおちるさまは、バベルの塔が目の前で崩壊するよりも衝撃的だった。「取り乱してごめんなさい」
 僕は首を横に振りながら、一生懸命に笑顔をつくった。暗い洞窟の中で、僕のその表情が彼女に見えたかどうかはわからない。それでも、僕がそばにいることで、僕がほほえんでいることで彼女のこころが少しでも落ち着いてくれればいい、そう思っていた。
「私、この風景を何度も何度も夢で見たことがあるの」
「何度も?」
 こんな情景を見ているなんて。そんな夢は、悪夢以外のなにものでもない。
「うん」
「まさか。君はこれが起こるのを知っていたの?」
「ちがう。・・・・・。でも、わからない」
 暗闇の中で響いてくる彼女の声には戸惑いと怯えがまじっている。震えている彼女の肩は僕の肩と触れあうくらい近くにいるというのに、なんだか急に彼女が遠くにいってしまったような気がしてならなかった。
「それで、昨日あんなにお月さまに祈りを捧げていたのか?」
「そうじゃないよ。ここに来たいと思ったのは、ただの直感だよ。そうじゃなかったら、こんなことにあなたを巻き込んだりしない」
「さっき、飛行機が墜ちたってぶつぶつ言っていたけど、それはどういうことなんだ? なにか知ってるの?」
「でもね、でもね。私・・・」 
 首を振りながら、彼女はまたしても泣きはじめてしまった。 
「私は、世界がこうならないように、それを止めたくて。どうすれば戦争や環境破壊を止められるのか、ずっと考えていた。それは知ってるでしょ。
 でも、私が何もできないうちに、世界の謎すらも解くことができないうちに、こんなことになってしまった。遅すぎたのよ。私が、気づくのが」
「おい、まてよ。君が悪いわけじゃないだろ。自分一人を責めて泣いていたってしょうがない。
 たとえ世界が滅んだとしても、それは君のせいじゃない」
「ちがーう」
 彼女の苦痛にまみれた絶叫は洞窟の中で反響し、なんどもなんども繰り返し僕らの耳に、僕らのこころに響きわたった。彼女は泣いて泣いて、泣きじゃくっていた。横にいる僕も、あの光景を消し去れるほどの言葉を彼女にかけるなんてできるわけがなかった。
「それは、私のせい。
 世界が滅んでしまったとすれば、それは、止められなかった、私の責任」
 ひとしきり泣いた彼女は、すべてを吐き出すようなため息とともに、静かにそう言った。
「覚えていないくらいに小さな時から、私は同じ夢を見ていたの。その夢を見るたびに、小さな私は泣いて目覚めていた。一時はその夢も見なくなって普通に暮らしていたんだけれど、その忘れていた夢が、急に戻ってきたの。なんの前触れもなく高校生の時に。思春期を迎えていたし、家が混乱していたというのもあるかも知れない。でも、その夢は強烈だった」
 彼女は、昔から何度も何度もみせられてきたという「世界が滅びる夢」を語り始めた。
「冬だっていうのに、私は冷や汗でびっしょりになってた。あまりにもリアルな夢だったの。目が覚めてからも、そのあまりの衝撃のせいで、ふとんの上で指一本動かすことが出来ずに固まっていた。頭の中が動き出す前に体を動かしてしまえば、このイメージがすべて消えてしまうんじゃないかという恐怖にかられた。それだけは、ダメだって思った。

 ある夢では、燃える山から逃げ出す人々とともに走り続けた。こんなに走ったのははじめてだってくらいに、転げるように坂を下りたの。でも、遠くに見える街は、それ以上に炎に包まれていた。真っ黒な煙で空中を焦がしていたわ。
 あの街は名護だった。今、わかった。ここから名護が見えるとか、見えないとかそういうことはおいといてさ、とにかく私は直感でものを言ってるよ。それがあたってるか、外れているかはわかんないけど。
 名護はね、一瞬にして壊滅した。人々は逃げる間もなく、死んだわ。それが、今日見たシーン」
 一気に話し終えると、彼女は急に僕の方に向きなおした。その目の中からは、戸惑いも恐怖も姿を消していた。いつもの彼女の、熱く未来を語るときの瞳のまんまだった。そして彼女は目をつぶり記憶を反芻するように、ふたたび話しを続けた。
「何度も何度も、そのおぞましい夢は私を襲った。ある時は街のシーンを、ある時は山のシーンを、あるときは海のシーンを、ある時は田舎町のシーンを。さまざまな街の滅びの瞬間を何度も何度も見せられてきた」
 僕はいたたまれずに懐中電灯を揺らしながら、その光が照らし出す岩盤を眺めていた。
 静かな洞窟に彼女の告白が染み込んでゆく。失われてしまった世界へのレクイエムのように、彼女の語りは静かにいつまでも続いた。残響が残るはずもないくらいにひそやかな声なのに、僕の心の中の動揺がそう感じさせるのか、洞窟の中は彼女の声でいっぱいになっていた。

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