FILE14 出会い  41

 それは梅田のスクランブル交差点を渡っているときだった。人でごった返す道をうつむいて歩いていた私は、信号のメロディが途切れたのに反応してふと顔をあげた。すれ違うたくさんの人混みにまぎれて目と目があった。その瞬間、ざわめきは静まり返った。
 その人と私の間の数メートルという空間は、真空パックで瞬間が封じ込められてしまったかのように、なにもかもが動きを止めていた。空気さえも動くことを禁じられているかのような静けさで、動いていたのは私の鼓動と運命の輪だけだった。

「やあ」
 息をすることさえ、忘れていた。
 夢の中でしか存在しないと思い込んでいたその人が、目の前にいた。人混みの中から突如あらわれて、彼はまるで私たちがその場所で待ち合わせをしていたかのように、気軽に、当たり前の様子で私に声をかけてくる。
「危ないよ」私の手を取って赤に変わりかけた道路を走り出した。私は一歩一歩踏み出してゆくその足の感覚さえも失いながら、ただ彼に導かれて走りつづけた。
 ああ、彼は、実在していたんだ。
 彼が私の名を呼ぶ声を遠くに感じながらも、あれ?これは夢だろうか。いつの間に私は眠ってしまったのだろうかと、考えていた。
 あなたも私のことをしっているの?私の夢の中だけに存在する人ではなかったの?実在の人物だったの?・・・。

「大丈夫だった?」
 電話をかけて席に戻ってくると、彼はその言葉と裏腹に心配のカケラもないような笑顔で私にそう言った。私たちは、互いを認めるとすぐ近くの喫茶店に入った。ウエイトレスの運んできた水を見た瞬間に、強烈なのどの渇きを感じて、それを一気に飲み干した。
 ふー。っとため息をついた途端に、自分がなぜこんな繁華街に出てきているのかを思い出した。「たまにはうまいもんでも食おう」と言い出した芳明との待ち合わせで街に出てきていたのだった。彼と話しはじめる前に、芳明に断りの電話を入れなくてはいけない。そう思った私は、携帯電話を片手に店の外に出た。家に戻れば芳明には会える。私は今、目の前にある奇跡を逃したくはなかった。
「お決まりですか?」
「あっ」
 ウエイトレスが少し苛ついた顔をしながら、私にメニューを差しだした。
「あなたは決まった?」
 彼が軽くうなずく。
「じゃあ、エスプレッソ」
「すいません、ないです」
「ああ、ごめん。じゃあホットコーヒーで」
 開いただけで見てもいなかったメニューをぱたんと折り畳んで、メニュースタンドに立てると、私は頭の中が真っ白になっていることに気がついた。
 勢いのままお店に入ったはいいものの、一体何から話していいのか、まったくわからない。彼の顔を間近で見ると、その美しさに固まってしまった。なめらかな白い肌にやわらかそうな髪が降りてきて、そのくもりのない瞳のすぐ上で少し弧を描いている。もっときれいな格好をしてくれば良かったと自分を恥じた。
 普段人と話すときは必ず目を見て話しをする私も、彼の目を見続けるのは無理だった。
 私は髪を右手で撫でるように触りながら、彼のまっすぐな視線から自分の目をそらした。髪を数回触り終えて手持ちぶさたになってしまった右手が、今度は水のコップを持ち上げ唇へと運ぶ。その時、さっき一気に飲み干してしまったことを思い出した。
 完全に動揺している。
 仕方がないか・・・。
 私は流れにあらがうことをあきらめて、すべてを導きのままに任せることにした。
「ひさしぶりだね」
彼はそう言った。

「名乗るべき名前がないんだ」
 名前を尋ねると、彼は少し困った顔をしてそういって、少しうつむきながらため息をついた。そのため息のつき方さえも胸にしみた。
「なぜ?」
 そう聞こうとして、私は口を閉ざした。
 初対面の人にその理由を聞かれてペラペラと話しが出来るならば、最初から名を捨てる理由などないに等しい。
 そのことを頭で理解はしているつもりでも、私のこころは台風に煽られる海のように波立った。私は、心底困ってしまっていた。出会って何分も経たないうちに、これほどまでにこころを奪い取られてしまったことなど、これまで一度たりともなかったから。
 なぜ彼は、私に名前を教えてくれないんだろうか。
 ほんとうに名前がないの?彼が名を告げるほどの価値が私にはないのかしら?
 そんな疑問があとからあとからわいてきた。私は、自分が名前を捨てて以来、人にしつづけてきたことの罪深さをはじめて知った。
 彼を表現する言葉は、きっと百通りもある。だけど、彼を「彼」と固定するものがない。それは、切なくて苦しいことだった。名前をつけるということは、自由いであやふやで自然のままに存在しているものに、記号という枠をはめることだ。そして、その記号は相手を縛り付け自分のものにしたような錯覚に陥らせる魔法の力を持っている。名前をつけるという事は、残酷でそれでいて美しくもあり、責任をともなうことだった。
 彼に名前をつけたいと願った。私だけが知る彼の名を。それは、はじめて感じた所有欲だった。名をつけられることを拒否してきた私だったが、名をつけるという行為をせずにはいられなかった。
「好きに呼んでくれていいよ」
 そう言った彼の言葉を真に受けた私のこころの奥底からは、美しい響きを持つ言葉が浮かび上がってきた。
『ティダ』
 世界を照らす“太陽”と。
 その瞬間、私のこころの中は甘く波打った。
 「ティダ」と、そうこころがつぶやくたびに、しずかなさざ波が起こる。そのような甘美を、私のこころはこれまで知ることはなかった。
 その言葉は、その日以来強力な魔法の言葉となった。


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