徹也の風景 SKA752便 那覇空港発関西空港行き  004

「那覇発関空行きの飛行機。多くの中から選ばれたこの機体」
 その男は、極度に緊張しながら、これから乗り込もうとしているその飛行機を眺めていた。
「恐怖を感じるのは一瞬だ」
 何度も何度も、呪文を唱えるように、自らに言い聞かせつづけてきた。「このミッションが無事に終わったとき、乗客たちはこの飛行機に乗り合わせたことを誇りとして感じるだろう・・・」

「徹也、あなたは神の手なのです。いつも、祈りとともにありなさい」
 徹也の頭の中では、ある男の力強い声が響きわたっていた。彼がなにか行動を起こそうとするとき、いつもその男の声が徹也の胸を満たしている。そして、それが彼の唯一の心の支えでもあった。
「神の命令を遂行するのに、なにを恐れることがあるのです」
 男は、徹也を励ますために優しい言葉をかける。その言葉は、徹也の頭、そしてこころの中でいつも延々とくり返しささやかれていた。
「徹也」
 光の射し込む清浄な部屋で、教祖は優しく声をかけた。
 そこは、信者ならば誰もが入りたいと熱望する、しかし選ばれた一握りの人間しか入ることのできない部屋だ。現に、その部屋にはいることを許された最初の瞬間の幸福感は、何十年を経た今もなお徹也のこころを至福で満たし続けていた。
 世界中に何万人もいる信者。その男を慕う人々を前にしたとき、美しく胸を打つ言葉を紡ぎ出す尊き唇。徹也は、その言葉に心酔し、教祖のためならばすべてを投げ出すことさえできると、その思いをいつも胸に抱いていた。教団への帰依が世界を愛する唯一の方法だという想いが、いつの頃からか徹也の中に根付いていた。
 信者にとっては神から与えられた神託と等しい言葉が、その唇を通して世界に放たれる。ある日、その唇から直々に神託が下った。
「徹也」
 彼は、緊張と幸福のあまり、少し震えながら前に進み出て、教祖のイスの足元に傅いた。
「みことのりをお前に授けるときがやってきました。徹也よ、この神から預けられた御言葉を至福とともに胸に納めなさい」
「はい」
 教祖は徹也の返事を聞くと、満足そうに立ち上がり、薄いシルクの美しいカーテンを開けた。高層ビルの最上階にあるその部屋からは、都会の喧噪が別世界のように見える。この部屋こそが天上のように、神の国のごとくに。教祖は外の景色を眺めながら徹也に声をかけた。
「下界に蠢く人々を見なさい。苦痛の時代に生きる人々を。あの苦しみから衆生の魂を救い出すのです。
 お前が神の国の真なる英雄となる時が来ました」
 ゆっくりと振り向いた教祖は、徹也へとほほえみを向けると、厳しい目でまっすぐに彼を見据えた。
「新しい天を拓き、新しい地を拓くのです。神はその扉をいよいよお選びになられました。そして、その聖地は沖縄であり、扉の鍵は徹也に託されました。
 神は、私たちがその瞬間を少しでも早めることを望んでいらっしゃる。神の下僕のお前にも、それがわかるでしょう」
 周囲に集っていた信者たちはどよめき、徹也はその幸福にうち震えていた。
「ありがとうございます」
「まもなく、待ちに待ったアセンション(次元上昇)が起こります。この苦難多き現世から解き放たれ、老いも病気も苦しみも悲しみもない世界へと、肉体を持たず魂が上昇するときが来るのです。最後の審判が行われ、神の教えに背かずに生きてきた選ばれしものだけが救済されます。
 アセンションが起こるためには、ハルマゲドンと呼ばれる最終戦争が繰り広げられます。しかし、恐れることはありません。
 それらは創造のための破壊なのです。破壊のために繰り広げられてきた、これまでの破壊とはまったく意味合いのちがうものです。もう、時は来たのです。恐れることなど、もうなにもありません。あなたがたは、神に選ばれた下僕なのですから。さあ、皆で祝いましょう」
「範彦様」
「徹也、私がその名を使う時代はもう終わりました。いよいよ宣言の時が来たのです。
 私は在りて在るもの。
 アルファでありオメガであるもの。
 そして56億7千万年の時を経て衆生を救済するもの。
 お前がそのミッションを終えれば、私が私である真実を世界に公表します」
 それは教祖が説きつづけてきた教えの根幹をなすことであった。その瞬間が訪れる事を熱望しつづけてきた信者達にとって、その宣言は魂の永遠なる救済が起こることを意味している。そして、何千年もの長き間、血みどろの争いを繰り広げてきた人類が待ち望んでいる真なる『メシア』の降臨をも意味していた。
「ああ、これで世界中の宗教によるおろかな救世主争いの歴史に終止符が打たれる。一神教はもう争う事を必要とはしなくなり、テロと報復の歴史も、文明の衝突も、すべてが消え去るだろう。範彦様がその存在である事を全世界に公表するその瞬間、世界は興奮と感動に打ち震え、すべての宗教家は開眼しこのお方の足元に跪くのだ」
徹也は頭を垂れたまま声には出さずにその悦楽を噛みしめていた。そのミッションを行う神の手として選ばれた幸福に打ち震えていた。
小刻みに震える彼の姿を見て、その男は右手で彼の肩に触れた。
「なにも恐れることはありません。お前には私がついています。私に降りた神託を受け、ただそれを行えばよいのです。お前は神の指先であり、私の足でもあります。
 我らの神がつくりたもうたこの世界を、神のために破壊し、次なるステージを創造するのに、なにを恐れる。こころを強く持ちなさい。お前は、神なる破壊の手です。
 さあ、祝福を与えましょう。破壊のあとの創造のために。偉大なる神の手として勇敢に命を落としてきた多くの仲間のために。そして、徹也の神なる破壊のために」

「そうだ、何も恐れることはない。何も危惧することさえない。私がこのプロジェクトを無事に敢行すればよいのだ。
 もうすぐ、すべてが終わり、そして新しいことがはじまる。
 私のこの肉体は、今日終わりを告げ、炎にまかれて朽ち果てることになる。しかし、それを畏れることなど、なにもない。それを畏れることは、あの方のおっしゃることを私が信じていないということになる。今日こそが、歴史に刻まれるすばらしき一日となる。私がそれをすることで、人類が何千年も待ち望んだ神の国の扉がひらかれるのだ」

 教祖の命を受けた徹也率いるプロジェクトチームは「神の国の扉をひらく鍵」となる予定の飛行機に乗り込もうとしているところだった。ブーゲンビリアの花があちこちに咲き誇り、ガラス窓の向こう側には美しい青空の広がる那覇空港は、いつもと変わらない慌ただしさに包まれていた。

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