005

第二章

FILE  逃避

「人が死ぬところ、見せてやろうか?」
 両肩をすごい力でつかんで、そいつはわたしを引き寄せた。すぐ目の前に、そいつの顔があった。落ちくぼんだ目、青ざめた顔。まっすぐにわたしを見据える両の目は、わたしの目を通り過ぎて、わたしの内側をのぞき込んでいた。位置的には合っているはずの視線が合わず、そいつの瞳の中にはわたしは映ってはいなかった。
 わたしを見ているはずなのに、わたしを見ていない。それでいて、そいつはわたしを見ていた。なにを見られているのだろうかと思う間も肩をつかむ力は強くなっていく。
 ひきずられて、どこか暗いところへ連れて行かれそうで、それはすさまじい恐怖を呼び覚ました。
「ほら、いこう。僕らの部屋へ」
 そいつがそう言ったとたん、その目の中に赤い部屋が見えた。わたしの顔のすぐ前にある濁った瞳が赤く染まり、その中に映し出された部屋もすべて血の色になった。目の中の部屋はどんどん大きくなり、そいつの顔からはみ出してわたしの視界すべてが、赤いフィルタのかけられた部屋になる。
 部屋の真ん中になにかがぶら下がっていて、ゆらーり、ゆらーりと静かに揺れていた。
「いやだ」
 頭を占めようとするその映像から逃れるために目をつぶると、まぶたの内側にその部屋が甦った。
 太いロープで吊されている塊の上部分が少し動いたようだった。
 強く目をつぶると、それが合図だったかのように、鮮明な映像が脳に流れ込んできた。望みもしないのに、その塊へと視界がくぎづけになり、ズームアップされてゆく。それがなんであるかを理解した瞬間、わたしは叫び声をあげた。
 その首吊り死体は、ゆっくりと顔をこちらに向けて、ニヤリと笑った。
 肩をつかむ腕をふりほどいて逃げようとして手をやると、わたしの右手はすっと身体をすり抜けた。目の前にある顔をどけようとしても、わたしの手は空を泳いでいるだけだった。
「なに? なんなの? 死んでるの?」
 肩をつかむ力は、だんだんと強さを増してくる。
「さあ、行こう」
「いやー、わたしは生きるの」
 そう叫ぶと、堅く閉じられた目がひらいて、わたしは自分の部屋で目覚めた。あまりにもリアルな感触の、それでいてありえない夢だった。肩には強くつかまれた感触が強く残っていた。長い長いため息が出てきた。吐いても吐いても、吐ききれないほどに。
 わたしがあなたの家を出てから三年が経っていた。

 その夢を見た翌日、偶然に駅前で会った遠い親戚から、あなたのお兄さんが自殺したことを聞いたよ。自分の部屋ではなく、あなたの部屋で首をくくったことを。わたしの暮らしていた、あの部屋で。
 あまりにリアルな夢の感触とタイミングに不気味さを覚えて、わたしは黒い服を着て電車に乗ってしまった。
 おばさんはわたしを見るなり、目の前のテーブルに置いてあったコップを投げつけた。ガラスコップはわたしの後ろに落ちて砕け散り、水はわたしを濡らした。
「汚らわしい。お前なんて、世話するんじゃなかった。お前が死ねば良かったんだ」
 そう言って、両手で力一杯わたしの髪をつかんだ。
「博史を返しなさいよ。お前が迫ったんだろう。その長い髪で、女の姿で、お前が博史を狂わせたんだ」
 痛さに耐えきれずに「なに?」と叫んだわたしの声に余計に興奮したおばさんはわたしを引きずり回しながら叫んだ。
「見なさいよ、この日記を。この遺書を。
 博史をいいように弄んで捨てたんだろう。お前なんか、生まれてこなければ良かったんだよ。学校にも行かなくなって、引きこもって。世間様に恥ずかしくても、うちはお前を世話したじゃないか。その恩返しがこれなのか?
 なんでお前がうちに来たのか知ってるか? ふたりとも、お前が邪魔だったからだよ。
 お前なんて、誰からも望まれていないんだ。お前を許さない。博史の敵をとってやる」
 最愛の息子の死の痛み、悲しみ、苦しみ、怒りのすべてをおばさんはぶちまけた。わたしは床に押さえつけられ、髪を引きちぎられ、顔中を爪で引っかかれた。
「なぜこんなことに? 博史の狂気は、おばさんの遺伝なのか?」
 殴られながら、わたしはそんなことを考えていた。叫び声に驚いたあなたが奥の部屋から飛んできておばさんを止めてくれなかったら、わたしは殺されていたかもしれない。
 爪で引き裂かれた肌がズキズキと痛んで、汗が傷の上を流れては滲みた。髪はグチャグチャになり、ストッキングは伝線して、あちこちから血を流しているわたしはあまりにも滑稽だった。
 放心して座り込むわたしのもとに、あなたはやってきた。複雑な顔をして、わたしの両手を握ってくれた。
「痛っ」
 手の甲があなたの指に触れられた瞬間、激しい痛みが走った。
「ごめん」
 おばさんの腕を掴もうとして、いつの間にか殴られていたらしい。慌てて手を離したあなたは、なんとも言いようのない顔をしてわたしを見て、黙り込んでしまった。痛みに驚いて触ってみると、右手の甲が不気味に腫れていた。
「絶対にどこにも行くな。ここにいてくれ」
 あなたはそう叫びながら、おばさんを抱えて部屋を出て行った。
「なんなの? わたしはどこにもいかないよ。なんで?」
 そんな言葉が頭の中で回りつづけていた。
 おばさんの怒りの原因を知ったわたしは愕然とした。あいつはわたしとのことを、都合のいい解釈で遺書に書き連ね、家族だけではなく親戚連中すべてにぶちまけて自殺をした。それはおばさんから受けた引っかき傷の痛み以上に、わたしを打ちのめすものだった。誰にも知られたくなかったからこそ、なにも言わずにあの家を出たというのに。今さらになってすべてが明らかになってしまうなんて。
 突然の訃報を聞いて旅から飛んで帰ってきたあなたは、兄の自殺の真相を家族から聞いて、わたしに連絡をすることができなかったのでしょうね。

  *

 まるでそうしたかったから肉体を捨てたかのように、わたしがこの世界の中で一番会いたくないその男は、どこまでもどこまでもつきまとってきた。わたしにくっついてきては、卑屈に笑っている。
 夜、人の気配をふと感じて振り返ると、博史くんがそこにいる。一体どんな方法で神か悪魔に取り入ったんだろう。わたしは自分の部屋にいながらにして、あの部屋に連れて行かれる。あなたが集めてきた世界中の民芸品であふれかえるあの部屋に。
 精気のない青い顔をしてうつむいていた博史くんは、わたしがその部屋にやってきたことを知ると、部屋の梁にロープをくくりつけはじめた。ベッドに横になっていたわたしは、眠っているふりをして彼の行動を眺めていた。
 なかなかロープが結べなくて、彼はイライラしはじめた。あなたのお兄さんをこんな風に言うのはなんだけど、やさしくて勉強ができるだけの、ほかにはなんの取り柄もない不器用な人だった。もたついている手からロープをとりあげると、わたしは椅子に昇ってしっかりと梁にくくりつけた。
 博史くんはだまってうなずくと、椅子の上に立ってその輪に首を通した。身体を支えているのは小さな椅子。それを蹴る勇気がない博史は、輪を首にかけたままじっと椅子の上からわたしを見ている。ぞーっとするような目で。生命を抜き取られてしまうような目で。うなだれて肩を落として。
 いらついたわたしは、その椅子を蹴りあげた。
「ウグッ」
 声にならない声を出しながら、首にロープをめり込ませた博史は手足をじたばたさせている。けれど、それも少しの時間だった。最後の瞬間に、凍りつくような冷たい笑顔でわたしを見ると、あいつはすべての力を失った。
 生臭く腐臭を発する空気を身にまとい、地獄の底に引きずり込まれてゆくような、身体を硬直させる力を持った目で、わたしをその部屋に貼り付け閉じ込めようとする。こんな男に取り込まれてたまるものか。わたしは力を振り絞って身体を動かした。
 強い力で閉ざされていたまぶたが開いて、ようやく悪夢から逃げ出すことができた。手にはきつく縛ったときのロープの食い込んだ痛みが残っている。足には、あの椅子を蹴ったときの感触が残っていた。
「ああ、あの椅子を最後に取り払ったのは、わたしだ。
 博史を殺したのは、わたしだ」
 泣きながら目が覚めて、わたしは自分の記憶を反芻した。
 目が覚めた場所はあなたの部屋ではなくて、今のわたしの部屋だった。あたりまえのことのはずなのに、わたしは目が覚めるたびにほっとした。夢から覚めたあとも、動くことができずにただただベッドの上にいた。
「わたしが、あの男を殺したの?」
「いや、殺してはいない。あいつは、自殺したのだ」
 何度も自分に言い聞かせても、わたしには博史くんを殺していないと言い切る自信がなかった。
「あいつは、自殺したのか? それとも、わたしが殺したのか?」
 あまりにもリアルな夢を見つづけたせいで、夢と現実の境目がわからなくなっていた。実際にその現場に立っていたら、わたしは迷うことなくそのイスを蹴り倒しているだろう。その想いがいっそう罪悪感を加速させていた。
「あの椅子を最後に蹴ったのはわたしなの? 博史なの? ほんとうのことはなに?
 わたしは博史を殺したの? 殺したかったの?」
「きみが好きだ」
 そう言いながら、泣いて謝罪をする。土下座をしながら、床に涙をばらまいて。その次の瞬間には、狂気にも似た笑いを浮かべながらわたしを組みしいて服を破っていく。わたしは狂気の夢の中で何度も何度も何度も何度もその男に犯された。
 寝ても覚めてもそいつはわたしを苦しめた。夜中にあなたの部屋から逃げ出して目を開けると、ぼやーっと部屋のすみに立ってわたしを眺めていた。


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