FILE3 オレンジ色の空  010


 胸が苦しくて、その苦しさに耐えきれなくて、はっきりと目が覚めた。
 目が覚めたというのに、まだ誰かの苦しんでいる声が聞こえてきた。

 ・・・・い
 ・・・やく

 夢の中から、悪いものを連れて帰ってきてしまったんだろうか・・・?

 ・・・しなさい・・・
 苦しそうな声で私を呼び、なにかを告げようとしている。
 誰?なにを言っているの?わからないよ。
 声にならない声が、私を呼んでいる。でも、なぜなのか、誰なのか、何を伝えようとしているのかは、何もわからない。
 目が覚めたという意識があるのに、苦しそうな声が聞こえてくる。

 幼い頃から見続けてきた「世界が滅びる夢」は、容赦なくいろんな街の崩壊を私に伝え続け、多くの人の涙と血を私に見せつけた。
 いつか、この日がやって来る。
 その直感だけが胸に突き刺さっていた。それをどうにかして止めたいと、その夢にうなされるたびにこころの底から願った。
「他の人がもう苦しまなくてよいように。せめてもの願いとして、それくらいは叶えてよ」
 枕に顔を埋めて歯を食いしばりながら、どこにいるかわかりもしない神にそう祈った。
 その朝も、私はどこかの街の終わりの日を見て泣きながら目を覚ました。
 今でもその情景をはっきりと浮かべることができる。誰もいない朝。光さえも射し込まない分厚いカーテンを閉め切ったままの四畳半の小さな部屋。つけっぱなしになっているテレビ。ベッドの脇にはティッシュの固まりが無造作に投げ捨てられていた。それはいつもとなんにもかわらない朝だった。
 眠っていれば恐ろしい夢を見て、起きていれば博史に陵辱される。すべての生活が非現実的だった。

 その日も学校を休んでいた私は、昨夜力任せに打ち付けられた肋骨のあたりをさすりながらテレビに近づいた。チャンネルをまわすと、いくつものチャンネルで同じ光景ばかりが流れている。爆撃機が飛び交うさまが流れ、砲弾が投下されている。くだらないゴシップやつくられた流行の情報ばかりを垂れ流しているテレビが、いつもとは少し違うこと、「戦争がはじまりました」だなんて、そんな突拍子もないことを言い出した。
「戦争勃発!」
「空爆開始」
 それらの文字は、赤や黒のインパクトの強いフォントで、他人事のようにブラウン管に描かれていた。

「あれー?今日は来たんだ。大丈夫なの?」
 昼休みを迎えたばかりの教室は、いつものようにざわめいていた。家にひとりでいることが恐くなった私は、ギリギリとした頭の痛みを我慢しながら制服に着替えて学校に向かった。
「こんな時間に来るのって、珍しいよね」
「昼休みから来るなんて。今日はどうしたの?」
「戦争がはじまったんだって」彼女たちの問いに答えることなく、そういった。
「ああ、何か最近ずっとテレビで言ってたよね」
「なんだっけ?どこ?」
「え?わかんない。なに、戦争って」
「なにそれー、こわー」
「あのさ、昨日のあれ、ビデオとった?うちさ、親うるさくってちゃんと見れなかったんだよね」
 それほど親しくもないけれど、学校に行けばなんとなく寄ってくる女性徒たち。いつもは、話しかけられると、少しくすぐったくて、逃げ出したくなる彼女たちと久々に会話をした。
 私は不安だった。恐くて仕方がなかった。“戦争”という言葉が、こころに重くのしかかっていた。しかし彼女たちは、戦争の話しでさえも軽くこなすと、もう次の話題に移っていた。
「ああ、うち録った、録った」
「けどさ、あんまりだったよ。だって、なんであの子とさ、啓一がくっつくのー?」
「うそ、ほんとに?まだ見てないのに、話ししないでよお」
 突如起こった戦争は、話しのネタとして話題にあがることはあっても、彼女たち女子高生にとっては、ドラマ以上のリアリティをもちえない。
 私にとっても、戦争は遠い遠い昔に終わった物語だった。世界の終わりの夢を何度見せられていても、私にはまだまだ遠い世界だった。戦争なんていうものはテレビや映画の中の世界でしかない。直感で恐怖は感じても、結局のところはどこか遠くで起こっている物語なのだ。実感がまったく湧いてこない。
 戦争や社会問題には、少女たちは残酷なほど無関心だ。彼女たちの瞳には、目の前にあることしか写ってはいない。
 それはもちろん私も同じだった。それでなければ、前年の8月以降くり返し報道され続けていたその危機を知らずに過ごせているわけもなかった。
 16才の現実なんて、そんなものだ。
 でも、その時の私はいつもとは違っていた。胸がどきどきして、急にいろんなことが恐ろしくなって、これまで世界のことを考えたことさえなかった無関心な自分が一番恐ろしいと思った。
 一番後ろの窓側の自分の席に戻ると、私はため息をついて、ふと窓の外を眺めた。

 どんよりとした大きな大きな雲が空を覆っている。工場地帯のこの街では、珍しい風景ではない。いやむしろそれが普通だった。汚れた空気と、グレーの雲と、無気力な少女たち。ただいつもと違っていたのは、空を覆う雲の色が、黒でもなく、灰色でもなく、白でもなく、鈍いさびたオレンジ色だったということだけだった。
 その空を見たとき、急に胸を締めつけられるような苦しさを覚えた。息をすることがこんなにも大変なことなのかと思ったほどだった。
 なにが起こったのか、なにが起ころうとしているのか、まったくわからないままに、言葉や文字になることのできない言語が頭の中をぐるぐると回転し続けた。自分のこころの中に沸き起こっている感情の意味さえも、その瞬間の私には理解できなかった。自分の中に湧いて来た感情に、ただただ戸惑っていた。
 次の瞬間、いままで見せられてきたさまざまな夢がフラッシュバックした。
 突如の閃光と突風にあおられ、熱波と業火の中で息絶えるさまざまないのち。
これまで感じたことのない恐怖感に、すべての細胞が打ち震えた。心臓がそれに耐えきれるかと思うほどに血流が激しくなり、頭の上から重石を乗せられたように、脳みそをギューっと押しつぶされているかのような圧迫感と締めつけられるような痛みが全身に走った。

 世界が燃える。
 すべてが終わる。
 
 あの夢が意味しているのは、このこと?
 この戦争を引き金にして、あの終末の世界が来てしまうの?
 
 そのうちに世界がゆれはじめた。いや、揺れているのは、自分だった。身体は微動だにしていないというのに、魂だけが、居心地悪そうに動いている。身体と魂がずれてしまっているような気持ちの悪い感覚に驚いた。
「助けて。助けて」
 私は恐怖に打ち震え、頭を抱えて机に突っ伏して、こころの中で叫んでいた。髪をかきむしり、怯えていた。
 そのとき、はじめてはっきりと聞こえてきた。あの夢の中で、夢を見たあとに、いつも苦しみながら私に向かって語りかけていた“声”だ。
「その目を見開いて、きちんと見て。起こっていることを知って」
「見るって、なにを?」
「そのこころが見ている世界を、見えないふりをするのは止めて本当の世界を見なさい」
 たったそれだけを言うと“声”は、私が何を聞いても、こころで叫んでも、もう聞こえなくなってしまった。

 私のこころが見ている世界?一体なんだろうか。そう思いながら私は、ふたたび外を見た。
「地球がおこってる。大地が泣いてる。空が傷ついてる」
 その空を見た瞬間に、そのことが強烈な印象として私のこころ中で踊りはじめた。なぜそんなことを感じたのかは、自分でもわからなかった。けれど、そのことは確固たる事実のように感じられた。視線を窓の外から教室の中に戻したとき、私のこころは決まってしまっていた。

 もう、苦しむ必要はなにもない。自分自身の感じるままに、思うがままに生きていこう。
 なぜそこまでその空につき動かされたのかはわからない。うす汚れたオレンジに空が染まったその日、私は高校を辞めて芳明の家を飛び出した。

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