FILE4  逃避  012


「人が死ぬところを見せてやろうか?」
 両肩をすごい力でつかんで、そいつは私を引き寄せた。すぐ目の前に、そいつの顔があった。まっすぐに私を見据える両の目は、私の目を通り過ぎて、私の内側をのぞき見ていた。位置的にはあっているはずの視線が合わないことにも恐怖を感じ、私のなにをのぞき見られているのかと思うと、ぞっと冷たいものが身体を駆け回った。
 ひきずられて、暗いところへ連れて行かれそうで、こころの底から恐怖が込み上げてきた。
「ほら、あの部屋へ行くぞ。血にまみれた、あの僕らの部屋に」
 肩をつかむその腕をふりほどこうとして手をやると、私の右手はすっとあいつの身体をすり抜けた。目の前にある顔をどけようとしても、私の手は空を泳いでいるだけだった。
「なに? 死んでるの? 幽霊なの?」
 肩をつかむ力は、だんだんと強さを増してくる。
「いや、私は生きるの」
 そう叫ぶと、堅く閉じられていた目が開いた。肩には強くつかまれた感触が強く残っていた。
「博史・・・?」

 私が芳明の家を出てから3年が経っていた。
 その夢を見た翌日、偶然に駅前で会った遠縁の従兄弟から、博史が自殺したことを聞いた。
 それも、自分の部屋ではなく、私の使っていた芳明の部屋で首をくくったのだという。近親者が誰もそのことを教えてくれなかった意味をなにも考えずに、私は葬儀にかけつけた。
 葬式に訪れた私の顔を見た瞬間、走りよってきたおばさんは、目の前のテーブルに置いてあったコップを投げつけた。ガラスコップは私の後ろに落ちて砕け散り、水は私を濡らした。
「汚らわしい。あんたなんて、世話するんじゃなかった。なぜなのよ。お前が死ねば良かったんだ。博史を返しなさいよ。お前が博史を狂わせたんだ。その長い髪で、女の姿で、お前が迫ったんだろう」
 そう言って走ってくると、両手で力一杯私の髪をつかんだ。
 その痛さに耐えきれずに「なに?」と私は叫び、その声に余計に興奮したおばさんは私を引きずり回しながら叫んだ。
「みなさいよ、この日記を。
 私の博史をいいように弄んで、捨てたんでしょ。お前なんて生まれてこなければ良かったんだよ。学校にも行かなくなって、引きこもって。世間様に恥ずかしくても、うちはお前を世話したじゃないか。その恩返しがこれか?
 なんで、お前がこの家に来たのか知ってるのか?ふたりとも、お前が邪魔だったからだよ。お前なんて、誰からも望まれていないんだからね。
 私はお前を許さないよ。博史の敵をとってやる」
 最愛の息子の死の痛み、悲しみ、苦しみ、そして怒りのすべてをおばさんはぶちまけた。私は床に押さえつけられ、髪を引きちぎられ、顔中を爪で引っかかれた。あまりの突然の出来事に親戚たちも驚いて、誰もそれを止めてはくれなかった。
「なぜ、こんなことに? 博史の狂気は、おばさんの遺伝か」
殴られながら、私はそんなことを考えていた。
 叫び声に驚いた芳明が奥の部屋から飛んできておばさんを止めてくれたなかったら、私は殺されていたかもしれない。
 おばさんがおじさんや親戚連中に抱えられて奥の座敷に入ったあと、芳明は放心して座り込む私のもとにやってきた。爪で引き裂かれた肌がズキズキと痛んで、汗が傷の上を流れては滲みた。髪はグチャグチャになりあちこちから血を流している喪服姿の私はあまりにも滑稽だった。
 彼は複雑な顔をして、私の両手を握った。
「痛っ」
 手の甲が芳明の指に触れられた瞬間、激しい痛みが走った。おばさんの腕を掴もうとしていつの間にか殴られていたらしい。慌てて手を離した彼は、なんとも言いようのない顔をして私を見て、なにも言えず黙り込んでしまった。痛みに驚いて触ってみると、右手の甲が不気味に腫れていた。
「絶対にどこにも行くな」
 そう言って、机の上にあった紙切れに電話番号を書くと、無理矢理私のカバンに入れた。彼の携帯番号くらい私は知っているというのに、それだけ芳明も動揺していたのかも知れない。
「どこにも?なんなの?
 私はどこにもいかないよ。なに?なんなの?」
 そんな言葉が頭の中で回りつづけていた。

 なにも知らずに葬式にやってきた私は、おばさんの怒りの原因を知って愕然とした。あいつは私とのことを、都合のいい解釈で遺書に書き連ね、家族だけではなく親戚連中すべてにぶちまけて自殺をした。それはおばさんから受けた引っかき傷の痛み以上に、私を打ちのめすものだった。
 博史は私への思いを遂げられないまま、会社で出会った女性に恋をした。博史は会社の金を使い込んでは彼女に貢ぐようになっていった。横領が上司に発覚し、警察沙汰にはならなかったものの、博史は会社を首になった。そして、女にもあっさり捨てられてしまったのだという。ヤケになった博史は、私への妄想をすべてぶちまけて自殺をした。
 誰にも知られたくなかったからこそ、なにも言わずにあの家を出たというのに。いまさらになって彼の死によって、すべてが明らかになってしまうなんて。
 突然の兄の訃報を聞きつけて家に戻ってきた芳明は、自殺の真相を聞いて私に連絡をしなかったのだろう。

 まるでそうしたかったから肉体を捨てたかのように、私がこの世界の中で一番会いたくないその男は、どこまでもどこまでも私につきまとってきた。すでにこの世には存在しない男は、私にくっついて離れようとしないで卑屈に笑っている。
 夜、人の気配を感じてふと見ると、博史がそこにいる。あの男は、一体どんな方法で神か悪魔に取り入ったのだろう。私は自分の部屋にいながらにして、あの部屋に連れて行かれる。芳明が集めてきた世界中の民芸品であふれかえるあの部屋に。
 精気のない青い顔をしてうつむいていた彼は、部屋の梁にロープをくくりつけはじめた。私はベッドに横になったまま、眠っているふりをして彼の行動を眺めている。なかなかロープが結べない。やさしくて勉強が出来るだけの、ほかにはなんの取り柄もない不器用な男だった。もたついている博史の手からロープをとりあげると、私は椅子に昇ってほどけないようにしっかりと梁にくくりつけた。
 博史はだまってうなづくと、椅子の上に立ってその輪に首を通した。博史の身体を唯一支えている椅子。それが博史のこの世とあの世の分かれ目のラインだった。それを蹴る勇気がない博史は、輪に首を突っ込んだまんまでじっと椅子の上から私を見ている。ぞーっとするような目で。生命を抜き取られてしまうような目で。うなだれて肩を落として。
 いらついた私は、その椅子を蹴りあげた。
「ウグッ」
 声にならない声を出しながら、首にロープが食い込んだ博史は手足をじたばたさせている。それも少しの時間だった。最後の瞬間に、凍り付くような冷たい笑顔で私を見ると、あいつはすべての力を失った。
 生臭く腐臭を発する空気を身にまとい、地獄の底に引きずり込まれてゆくようなおぞましい、身体を硬直させる力を持った目で、私をその部屋に貼り付け閉じ込めようとする。こんな男に取り込まれてたまるものかと、私は力を振り絞って身体を動かした。強引に閉ざされていたまぶたが開いて、ようやく悪夢から逃げ出すことができた。手にはきつく縛ったときのロープの食い込んだ痛みが残っている。足には、あの椅子を蹴ったときの感触が残っていた。

「ああ、あの椅子を最後に取り払ったのは、私だ。
 博史を殺したのは、私だ」
 泣きながら目が覚めて、私は自分の記憶を反芻した。
 目が覚めた場所は自分の部屋。あたりまえのことのはずなのに、私は目が覚めるたびにほっとした。目が覚めても、動くことはできずにただただベッドの上にいる。 
「私が、あの男を殺したの?」
「いや、殺してはいない。
 あいつは、自殺したのだ」
 何度も自分に言い聞かせても、私には博史を殺していないと言い切る自信がなかった。
「あいつは、自殺したのか?
 それとも、私が殺したのか?」
 あまりにもリアルな夢を見続けて、夢と現実の境目がわからなくなっていた。実際にその現場に立っていたら、私は迷うことなくそのイスを蹴り上げていただろう。その想いがいっそう罪悪感を加速させていた。
「あの椅子を最後に蹴ったのは私なの? 博史なの? 本当のことはなに?
 私は博史を殺したの? 殺したかったの?」
「わからない」

「君が好きだ」
 そう言いながら、泣いて謝罪をする。土下座をしながら、床に涙をばらまいて。その次の瞬間には、私を組みしいて服を破っていく。狂気にも似た笑いを浮かべながら。私は狂気の夢の中で何度も何度も何度も何度もその男に犯された。
 寝ても覚めてもそいつは私を苦しめた。夜中に目が覚めると、ぼやーっと部屋の中に立って私を眺めている。
 もうやめて、気が狂いそうだ。
 人を呪って、死んでゆくなんて。
 私が何をしたというの? なぜ、そんなことをするの?

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