FILE 6 生命の輪(1)  016

 まぶしさに驚いて目が覚めた。身体を起こすと、おじいさんやおばあさんがずいぶんのんびりとした歩調で歩いているのがみえる。静かにおだやかにあいさつを交わすその人たちを見ていると、もう天国に来てしまったかと思えた。けれど、死んでも天国になどいけるはずがない。だから、ここが天国ではないのは私が一番よく知っていることだった。
 海のそばの公園についたとき、ほんの少し休憩をしようとベンチに寝ころんだのだ。そこまでしか、記憶がない。そのまま眠りこけてしまったのだろう。知りもしない場所で、しかも公園で夜を明かすなんて。けれど、恐怖も何も感じる間もなく眠りにつけたことにほっとした。こんな風に眠れたのはいったいどれくらいぶりだろう。私は驚いた。
 そのときになってはじめて、私は夢を見なかったことに気がついた。あいつが死んでから、毎晩夢を見続けていた。あいつに犯され、そしてあいつを殺す夢を。こんなにもスッキリと気持ちよく目が覚めたのは、あの夢を見なかったからだ。一日中歩き続けて身体はつかれているはずなのに、公園の堅いベンチで一夜を開かしたというのに、それでもこころは軽くなっていた。
 水道で顔を洗い、手と足を洗った。すこし冷たい水が、昨日までの疲れを少し吹き飛ばしてくれた。カラになったペットボトルに水をそそぎ入れ、ごくごくと飲んだ。船に乗る前からほとんど何も食べていないのに、不思議なことにお腹は空いていなかった。この調子で、龍宮城までたどり着けるだろうか。
 私は歩きはじめた。どこまでも続いていくその道を。

 しばらく歩いてゆくと、道の真ん中に黒い何かが落ちていた。ベルベットのような真っ黒の羽に、高貴な真紅の身体をした蝶だった。陽射しで熱せられたアスファルトの上で、ヒクヒクとけいれんをしている。身体が傷ついているようには見えないのに蝶は動かない。
 死にかけているのかもしれない。それにしても、こんなアスファルトの上で生命を終えるのはあまりにもかわいそうだ。そう思った私は、その蝶をしばらく眺めていた。まったく動く様子がない。
「草の上に眠らせてあげよう」
 羽をつかもうとしたその時、蝶は飛び立った。ふらふらと飛びながら、私の方に向かってくる。顔の前で空中停止したかのような錯覚を私にあたえると、次の瞬間には森の方へ飛んでいった。どこまでもどこまでも。黒い点になって、その姿が見えなくなるまで遠くへと飛んでいった。
 その後も同じ種類の蝶が私に向かって真っ正面から飛んでくる。恐くて目を閉じたり避けたりすると、ひゅーっと私の顔をかすめて飛んでゆく。とても不思議なことに、その村の山道に入ってからずっと、何羽も何羽もの蝶が私の顔近くを通り抜けていった。
 国道は海岸線に近づいたり遠くなったりをくり返しながら、島を南北に縦断している。山道をこえ、海辺に着いた私は、重たい靴を脱いで水の中に足をつけた。はじめてふれる沖縄の海の水だった。水が冷たくて心地よい。ガラスやゴミやいろんな漂着物が落ちている海岸を裸足で歩いた。靴の形に縮こまってしまっていた足が、水に触れ空気に触れて呼吸をしているようだった。
 浜辺に打ち寄せる波がさまざまな海藻を運んできている。岩にぶつかる波のしずくを見ていると、急に思い出したくないことを思い出してしまった。
「あんたなんか死ねばいいのよ」
 あの日のおばさんの憎悪に狂った鬼のような顔が頭から離れない。おばさんはあの日以来何度も何度も、頭の中で私を責め立てた。
 こんなにもきれいなこの海で、どうしてこんなことを思い出してしまうのだろう。いっそこのままこの海に身を投げようか。このまま死んでしまえば、もう二度とそのことを思い出さなくてすむから。
「こんなにきれいな海なのだから、もうここでいいじゃないか」そう思う私と「こんなところへ飛び込んでも龍宮城へは行けない。ここまで来た意味がすべて失われてしまう」というふたつの気持ちが交錯していた。
 そのまま砂辺にいれば、すぐにも身を投げ出してしまいそうだった。龍宮の海へ行きたいというひとかけらの思いに支えられて靴を履くと、海岸から道路に戻り北へと向かって歩きはじめた。
「好きだ、好きだ」
 私を追い抜いていく車のエンジン音までが、あの男の興奮した吐息に聞こえてくる。
 つらくて、複雑な気持ちで、それから逃げたくて、私はどこまでも走って、走って、走った。止まってしまうともう二度と歩けないような気がして、その声をかき消すために走りつづけた。けれど、走っても走っても、どこまで逃げても声は追いかけてきた。いつまでも、いつまでも。
 走り続けているうちに、再び浜が見えてきた。夕陽を浴びた美しい浜だった。道をそれて、私は再び海岸に出た。美しい浜で水はグリーンに輝いていた。
 傾きはじめた太陽が、木々も小島も砂浜も、目に映るすべてのものをほんのりオレンジ色の光に包みこんでいる。
 海に沈む夕陽を見たい。美しいものでこころを満たして、この世のすべてのおぞましいことを忘れ去りたい。そう願った。けれど立ち止まることのできない私は海を眺めながらゆっくりと歩き続けた。そのとき、海ではなく山に日が沈む場所まできてしまっていることに気がついた。蛇行した海岸線を歩いて行くうちに、いつのまにか方角が変わってしまったようだ。
「ああ、この海岸じゃ海に沈む夕陽が見えない。海に沈む夕陽が見たいのに」
 けれど、そこまで引き返して行く元気はなかった。
「さっきの岬まで戻ろうか?」
 そう思ったとき、自分がおかしなことを考えている事に気がついた。そう、私は夕陽を見に来たのではない。龍宮城へ行くためだけに歩いているのだ。その海へこの汚れた身体を静めるためだけにここまできたのだ。夕陽を見るために沖縄に来たわけではない。この世の美を見たところで、私の世界はもう終わろうとしているのだから。
 けれど最後に一度だけでいいから、美しい夕陽を見たいとも思った。おそらく日が落ちるまでにはあと30分は余裕があるだろう。あの時、あの美しい浜で立ち止まっていればよかったのに。私は自分の考えのなさを悔いて時計を巻き戻したくなった。
 そのとき、時刻を知らせるチャイムが集落に鳴り響いた。のんびりとした響きを聞いているうちに、歩きすぎたことを後悔をしている自分に気がついて、私は驚いた。
 生きたい、死にたい。
 グチャグチャの頭の中はいろんな感情に翻弄されていた。
 消え去りたい、すべてを忘れたい、ほんとうは生きたい。
 なにを考え、そして本当はなにを望んでいるのか、もう私にはわからなくなってしまっていた。

 木々の向こう側に太陽が沈んでゆく。空には龍の腹のようになった雲が翔けていた。オレンジ、蛍光オレンジ、ピンク、赤。その龍がいろんな色に変化をして行くさまは、涙が出るほどに美しくて、私の胸を締めつけた。
 生きることも、死ぬことも、それらに付随するすべてのことを忘れ去るように、ほんの一瞬でも忘れ去れることができるように。海岸に座ってただただ、空を眺めていた。



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