FILE 6 生命の輪(2)  017

 公園で目覚める朝も二日目を迎えた。どうしても眠れなかったあの日々を思うと、身体のつかれも、足の痛みも、少しもつらいとは思わなかった。よほど眠りこけていたのだろう。太陽はかなりの角度まで昇っていた。目が覚めたものの、なかなか身体を起こそうという元気は湧いてこなかった。しばらくベンチに仰向けに横たわったまま、空を眺めていた。青い空がまぶしい。ちいさな葉っぱの緑色がこんなにも美しいということを、私は不思議に思った。
 キラキラと光に照らされた海に手を浸し、この島に二度と戦争がやってこないことを願った。海に向かって祈りを捧げて、歩きはじめた。
 ゆるやかに続く坂道を登り詰めたころ、道の真ん中でまた蝶にあった。ピクリとも動かないままそこにいる蝶を心配して羽をつかみ草の上に置いてあげると、その蝶は森の中に優雅に飛んでいった。その数分後、また歩道に蝶がいた。今度は黒い羽に緑色の光の粉がちらばされたように光輝いていて、黒の中に赤のラインが入っている美しい蝶だった。
「どうしたの?」
 羽をやさしくつかんで花の上に置いてみたけれど蝶は花から降り葉っぱの下に隠れてしまった。その葉の上でまったくうごかなくなった。急に軽く飛んだかと思うと、蝶はまた歩道に降り立ってしまった。ひっきりなしに走り去って行くトラックの風にあおられて、苦しそうに羽をバタつかせている。風を防ごうと、私は右手をかざした。
「元気になって。ね、飛べるよ」
 その時、森の方から一羽の蝶が飛んできた。元気に空を舞う蝶と今にも死にそうな蝶。今の私をたとえるならばこっちだろうと、私は瀕死の蝶を眺めつづけていた。飛べなくなった蝶は、私自身を象徴しているように無様だった。けれど私はそれをかわいそうだとは思わなかった。
「あなたもきっとあんな風に優雅に空を飛んでいたんでしょ。どうしてしまったの?」
 元気な蝶は、死にかけている蝶を気にかけもせずにどこかへ飛んでいってしまった。
「お願いだから。こんなアスファルトの上じゃなくて、せめて土の上で死んで」
 そう強く強く願ったその時、蝶はふらふらと飛び立った。けれど森の方ではなく、車道へ飛び出てしまった。ひっきりなしにトラックが走り去る国道に降りると、そのまま力つきてぴくりとも動かなくなった。
「そんなところで止まっていると、ひかれてしまう」
 私は蝶を助けようとして、ガードレールを飛び越えた。車が次から次へと走ってくる。
「飛び出して助けようか、でも。どうしよう」
 私が躊躇したそのほんの一瞬のうちにトラックが走り去っていった。そして、何台もの大きなトラックがその身体を踏みつけていった。通り過ぎてゆく車の中の人々は、この道路で小さな生命が今断たれたことさえ知らない。
 車が途切れると私は車道に走りよった。黒いボロボロの布きれが張り付いているように、何台もの車に踏みつぶされた身体は無惨にもアスファルトにこびりついていた。あの美しい姿はどこにもなかった。その身体を土にかえそうにも、潰れた内臓が地面にべったりと張り付いていて剥がしとることさえできなかった。
 目の前でひとつの生命が消えてゆくさまを、私はなにもできずに見ていたのだ。あの夢とはちがって、今の私ならあの蝶を助けてあげることができたのに。
 死に場所を探して沖縄までやってきて、こんなところまで歩いてきたのに。私はなにをやっているんだろう。どうして、車に飛び込んであの蝶を助けてあげなかったんだろうか。これから絶つ予定なのならば、この命を蝶のために投げ出してあげることがなぜできなかったんだろう。
 私が生きていることに、なんの意味があるというのだろう。この蝶のかわりに、私の生命を奪えばいいのに。私の生命を奪って、この蝶を生き返らせてくれればいいのに。
 黄色い蝶が踊るように飛んでいた。それはこの島ではじめてみる種類の蝶だった。
 蝶はの輪の中で生まれ、生き、死んでゆく。死んでもなお、アリや虫たちや微生物の生きる糧となって生命の輪の中に在り続けている。
私は? この森がきれいにしてくれる空気をただ惰性で吸って、二酸化炭素を吐いて、その二酸化炭素がこの地球を温暖化してゆく。二酸化炭素を吐き散らし、生命を食いつくして、人を巻き込んで自殺においやって、そしてあの蝶までをも。
 急がなければいけない。一秒でも早く、私のこの醜い生を終えなければならない。私は蝶に別れを告げて、果てしなくどこまでも続く急激な坂を昇り続けた。目の前に立ちはだかるその坂は、人生のすべてのように思えた。けれども、私はあの海へ。龍宮の海へゆくのだ。この身をその海に沈めるただそのためだけに歩いてきたのだから。
 アスファルトで塗り固められたこの大地。絶望と苦痛で塗り固められた、私の道。
 坂を上り詰めると漁港を目指して大きく道をそれた。村内には素朴な家々が立ち並んでいた。どの家も玄関先のちいさなスペースにきれいな花を咲かせている。どこからともなく黄色い蝶が飛んできた。さっきの蝶と同じ種類の蝶だ。
「おなじ蝶? まさかね。あれからずいぶん歩いてきたもの。
 ねえ、連れていってよ。龍神様のもとへ」
 ひらひらと飛ぶ蝶を目で追うと、遠くの漁港の湾内にあるまつられてある岩がみえた。
「あの岩? あれが龍神様のほこらなの?」
 誰と話しているのか、わからなかった。けれど、問いさえすれば答えは胸の中にあふれてきた。
「あのほこらから、龍宮城にいくことはできないの?」
「軽い気持ちで近づいてはいけない。御獄にふれてはいけない」
「でも、私も真剣なの。すべてを投げ捨てて、ここまで歩いてきたんだよ」
「でも、まだだめだ。扉は開いてはいない」
 胸の中の声は、そう厳しく言い残して消えてしまった。
 なにが「まだ」なんだろうか。
 その言葉を無視して、私は漁港の堤防の突端にあるその御獄へと続く道を歩きはじめた。ごつごつとした石灰岩の御獄。その数十メートル手前で、私の足は動かなくなってしまった。いくら、前に出そうとしても、前に出すことができない。
「なぜ? この場所に立ちたくて、歩いてここまで来たのに」
「まだ」といった胸の中の言葉がこころで響いた。
「それならば、いつになれば許されるの?」
 その時、海から強い風が吹いた。その風の行方を眺めるように振り向いた私の目に飛び込んできたのは蝶だった。高貴な舞い方をして、高く高く港の後ろ側の丘に昇っていった。その丘に登れば、この海すべてを見渡せそうな感じがした。そして、その場所はとても清浄な場のように感じた。蝶は風の中で遊ぶように舞いながら、その山を目指してどこまでも昇っていった。私を、呼びながら。


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