FILE5 龍宮城へ  013

 細い月が見ていた。最後の旅に出た私を。
 すべてを終わりにするために。なにも残さず、消え去るための地を求めて、私は南へ向かう船に乗っている。湿った暗い籠の中に閉じ込められ続けたような、そんな人生を締めくくるのには北のほうがお似合いかもしれない。けれど、私は南に向かった。

 私はやっぱり狂っているのだ。ずっとずっと、子供の頃から、ずっと。
「世界が滅びる夢」だなんて、結局はただの自殺願望でしかない。今になってみれば、そう思う。いろんな街でいろんな人が死ぬ様を見つづけてきた。私は夢の中でたくさんの人を見殺しにしてきた。泣き叫ぶ人を、苦痛にうめく人々を、何の手立てもなく、ただ見殺しにしてきた。そんな世界にならないように、だなんてそんなことを思っていても、何も出来ないんであればただの偽善でしかない。思っているだけじゃ、何の足しにもならない。私が存在している価値なんて、何一つとしてありはしない。

 滅びゆく街を見つづけるその一方で、幼い私は見たこともない海の夢を見つづけていた。行ったこともない南の島のその海。深い蒼。空のきらめき。力強い木々。白い雲。舞い踊る魚たち。優雅に泳ぐジュゴン。大空を駆け回る龍の神さま。

 南の島の底にあるという龍宮城。海の底に沈む城であったとしても、見に行きたい。どうしてそんなにもこころ惹かれるのか、自分でもわからなかった。
 家財道具をすべて処分した私は、二度とこの地へは戻らないと決心して、南の島へ向かう船に飛び乗ったのだった。あの海へゆくために。


 強い風が容赦なく吹きつける。広大な海原は旅人たちを甲板から追い出そうとしているかのようだった。私は、髪を振り乱す風に挑みかかるように顔をむけていた。舞い踊るように跳ね上がる潮が甲板を濡らしてゆく。
 この風と潮が、涙を拭い去ってくれないものだろうか。私の身体に刻み込まれた烙印を、あの男の呪いを。すべてを吹き飛ばしてくれるというならば、どんな強風の中にでも私はその身をさらし続けるだろう。

 博史の死後、博史をこころの底から恨みつづけている自分を知った。憎んではいけないと頭では思っていても、怨んではいけないと頭では思ってはいても、結局私は博史を怨んでいた。過去を恨みつづけることは、自分が幸せになることを阻むことだと、家を出てちがう生活を選び、楽しく生きているつもりだった。けれど、なにも忘れてなんていなかった。ただ過去に蓋をしているだけだった。

 私は博史を恨んでいた。心の底から憎んでいる。博史のことを忘れて、今を生きなければ私には未来はないと、そう思ってすべてを捨ててあの家を出たというのに。何も解決なんてできてはいない。何も忘れてなんていない。ただ蓋をしているだけだった。
 憎んではいけないと、頭では思っていても。怨んではいけないと頭では思ってはいても、結局私は博史を怨んでいるのだ。
 あいつが死んで、そのことに気がついた。
「私はあいつが死んでうれしいの? ざまあみろと思ってるの?」
 わからなかった。いつまでも引きずっているのは馬鹿らしいと思いながらも、私は結局あの頃の私のままで、博史によって芳明の部屋に呪縛されているままだったのだ。

「ああ、私は博史を憎んでいる。その憎悪を覆い隠すために、私の笑顔は存在していたんだ。なんて、醜い笑顔なんだろう」
 私は、甲板で打ちひしがれていた。

「私のこの数年は、なんだったのだろうか」
 恐怖の中で何度壊れそうになったことだろうか。あいつの子が受胎するイメージにからめ取られたまま、ひざを抱えて、頭を抱えて、両腕できつく身体を抱えて、流れない涙を待ち望んでいた。私は、まだ16才の子どもだった。胸の中に溜まりつづける冷たい涙が、私のこころを蝕んでいった。このまま消えることができればいいと何度思ったことだろう。恐くて気持ちが悪くて、おぞましくて、けれど誰にも言うことができずにただ強く目をつぶっていた。

 おなかの中に博史の子がいるかもしれないという思いから逃れられなくなり、腹を突き刺す決心をした。包丁を握りしめて、おなかを見ては思い直し、この包丁が向かう先は自分ではなくあいつだと鈍い瞳の中で決断を下し、歯をかみしめて口の中に血を流した。朝も昼も夜も。

 忘れることなど、できるわけがない。いくら忘れようとしても。
 新しい月が巡り来て、血が流れ落ちてくるたびに安堵した。その赤い血を見るたびに、目からは流れぬ涙のような気がしていた。血を極端に嫌う博史は、月経の時だけ私を解放した。女としてうまれてきたことにすら憎悪を抱いていた私が、唯一の安らぎを得ることができるのは、皮肉にも生理の期間だった。子を宿すことのなかった子宮がそのベッドを解放し、次の着床へと向けて繰り返される肉体の不思議。白い濁液が何度この身体を貫いたことだろう。けれども私の子宮は博史の精子を拒否しつづけてくれた。唯一神に感謝したことは、あの精液が子宮の中ですべて死に絶えてくれたことだけだった。

 家をでても、どこにいても、博史の幻影は私を追いかけてきた。名前を捨てても、家族を捨てても、過去を捨て去ろうとしても、博史のことだけは捨て去ることができなかったのだ。それは、恐怖と憎悪とさまざまな意識が交錯した私の過去で、博史側に刻みつけた子種よりもたちの悪い種だった。

 芳明と再会した私は、芳明と私だけの小さな空間に安らぎを覚えた。博史にもっとも近い芳明に。おかしなことだったけれど、窒息しそうな身体に、呼吸する場所を与えてくれたのは芳明だった。家を出てからの一年間、名を捨てた私はなにをやっていたのだろう。今になっては、なにも思い出すことができない。

 あの日、電車で芳明が私を見つけてくれるまで、あの改札で腕をつかんでくれるまで。私の身体はどこへ行っていたんだろう。


 夢におびえて眠ることさえ出来なくなった私は、船の上での2回の夜を星を眺めて過ごした。こころの奥底の蓋をしただけの憎悪に気づいてしまった私は、この旅に出たほんとうの意味をつかんだ。それは龍神様の海に還るための旅だ。これまで多くの人に向けられた笑顔や、やさしさは、すべては憎しみの根っこから育まれた花だった。私の人生は、なんだったのだろう。人と接する資格など私にはない。私には生きてゆく価値などない。私に残されているのは、自らこの生を終わらせる潔さだ。

 毛布にくるまったまま、身を小さく折り畳んでいた。あのころ、小さなベッドでいつもそうしていたように。灰色の毛布、この毛布にくるまれば姿が消えればいいのにと夢想した。けれど、どこにもなかった。私を助けてくれる魔法の毛布も、優しい手も、どこにも。


 暗い黒い海、月のない星だけが瞬く空。いくつもの星が流れては消えてゆく。美しい光をかすかに残して。船のエンジン音だけが響く甲板で、私はさざ波を眺めていた。
 地球がまわり、夜が来てやがて朝が来る。そんなシンプルかつ壮大な宇宙の流れの中に身を浸していると、私のこれまでの人生のすべてがちっぽけで愚かに思えてきた。
 うなされて泣きながら目覚める夜も、いつかは必ず終わりを告げる。そんなかすかな希望を胸に秘めて、あけてゆく空を眺めていた。


 朝日を浴びる海は、その受け取った光を大気の中にきらめきとともに映し返し、また慈しみ育むものたちをその大いなる懐に抱いて、太陽から受けた惜しみない愛をひたすらに世界に放射し続けていた。
 私の龍宮城がいよいよ近づいてきた。静かな興奮に私は満たされていた。明るい陽射し、エネルギーに満ち溢れた緑。
 ここは神さまに愛された土地だ。

 船を下りる準備をするために甲板から2等の大部屋に戻り、飲み物を買おうと財布を見た私は愕然とした。すべての紙幣とキャッシュカードが抜き取られていた。サイフの中にのこされていた小銭と、ポケットの中に入っている小銭。それが全財産だった。
 頭の中が真っ白になって力をなくし、私は崩れ落ちた。一体なにをして、これほどまでに神に嫌われてしまったのだろうか。
 神の祝福を受けた大地に高揚する心のまま降り立とうとした私は、またしても奈落の底に突き落とされていた。私が生きている限り、すべては悪い方向にしか向かってゆかないのだろうか。自分に課せられたあまりにも悲惨な日々。それを考えると、もう、自分の運命を悲しむゆとりさえなかった。犯人を捜す気力さえ、もう私には残ってはいない。
 急激に空腹感が襲ってきた。博史が死んで以来、ここ数日ほとんどなにも食べられなかった。いざ、お腹がすいても、もう私にそれを満たす術さえもない。
 残されていたのは、龍宮城へ向かおうとする、そのこころだけだった。


 船が港に停まり、次々と人が降りてゆく。積み重なったコンテナの錆びた朱色が青い空とのコントラストを描き出している。
「ああ、私はどうしてこんなところに来てしまったんだろう。ここは、私のようなれた女が降り立つような場所ではない」
 長い階段を下りて沖縄の大地に降り立った瞬間、強烈にそう感じた。それでもここには、誰ひとりとして私を知る人はいない。私のおぞましい過去も、博史のことも。 

 待合所の壁に掲げられている全島案内図を見ても、私が目指すその地名はそこに書かれてさえいなかった。
 夢の中の景色を実際に見にゆくために沖縄までやってくるなんてほんとうにバカげていた。龍が踊るそのほこらが本当に存在しているはずがない。ふつうに考えるとそのことを信じている私は、やっぱり狂っている。
 龍神様のほこらまでどれだけの距離があるのか、この島がどれだけ大きいのかもまったくわからない。それでもいい。今私がたったひとつやりたいと願うことは、あの海へ行くことだ。北の町だということだけしか、海のきれいなところだということしか、そして人魚が泳ぎ、龍宮城への入口があるということだけしか知らないその地へ。ゆこう。
 バスに乗るお金さえなくなってしまった私は、バス路線図だけを頼りに、大きな道を歩いて行くことにした。バス停の黄色い看板を目印に、ひとつひとつの通過ポイントとして。
 ただただ、その海を見たいと思った。
 風は吹きつけて、陽射しは刺すように厳しかったけれど、それほどまでのつらさは感じなかった。もう今の私には一歩づつ足を前に出していくことのほかには、なにもするべきことはない。

 モンシロチョウがひらひらと飛んでいる。あの蝶のように、私も自由に飛べればいいのに。そう思いながら重い足を前へと出しつづけていた。
 延々と続いている道を歩きつづけると、米軍基地のフェンスがはじまった。がじまるの街路樹がひたすらにどこまでも続いている基地のフェンスと同じように続いている。

 ひっきりなしに走り続ける車の排気ガスにまみれながら、ただ前を向いて歩き続けた。灼けたアスファルトからの熱が、肌に染み込んでゆく。乱反射する光が目に飛び込んできて刺すように刺激をする。帽子もなにも持っていない私は、頭にタオルを巻き付けた。
 大型店舗が並ぶ街を抜けると、歩いても、歩いても、歩いても、どこまで歩いても、どれほど歩き続けても、フェンスの道が続いていた。その米軍用地と沖縄の街を遮断する切れ目のない檻。それは、求めても求めても手の届かない、私の平穏な日々と同じに思えた。

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