004

FILE 『声』

 胸が苦しくて、目が覚めた。
 その強烈な圧迫感に耐えきれなくて、はっきりと。
 目は覚めたというのに、胸の中ではまだ誰かの声が響いていた。夢の中からなにか得体の知れないものを連れて帰ってきてしまったのだろうか。わたしを呼ぶものは、なにかを必死に告げようとしていた。
「誰? なにを言っているの? わからないよ」
 いつもの部屋の、いつもとなにも変わらない朝。胸の中でわたしを呼びつづける声だけが、非日常の訪れを知らせていた。
 その朝も、どこかの街の終わりの日を見て、わたしは泣きながら目を覚ました。「世界が滅びる夢」は、いろんな街の崩壊と多くの人の涙と血をわたしに見せつけた。
「いつか、この日がやってくる」
 その直感だけがわたしの胸に突き刺さっていた。「どうにかして止めたい」と、その夢にうなされるたびにこころの底から願っていた。
「他の人がもう苦しまなくてよいように。それくらいは叶えてよ」
 枕に顔を埋めて歯を食いしばり、わたしはどこにいるかわかりもしない神に祈った。
 それはいつもとなんにもかわらない朝だった。眠っていれば恐ろしい夢を見て、起きていればあれがはじまる。すべての生活が非現実的だった。現実なんて、どこにも存在していなかったのかも知れない。
 あれがはじまってからは外に出ることができなくなって、学校にも行くことはできなかった。
 顔中をぬらす涙をぬぐって鼻をかむと、ティッシュをゴミ箱に向かって投げ捨てた。肋骨に痛みが走った。昨夜、力任せに殴られたところだ。肋骨あたりをさすりながら、わたしはテレビに近づいた。立ち上がると、裸の内またを白い液が伝っていった。わたしは枕元のティッシュペーパーをとって、それをぬぐった。片足をベッドにあげて、足の付け根の、白濁液が流れ落ちてくる場所をひらいては、何度も何度も拭いた。擦過傷が出来て血がにじむほどにティッシュで拭きつづけても、きれいになるわけがないのに、わたしはそこを拭きつづけた。頬にはまた、あたたかいしずくが伝っていた。
「また、だ・・・」
 いくら抵抗をしても、結局は力でねじ込まれる。あれがはじまると、わたしの意識は宙を泳ぐようになっていた。ここではないどこかへ、逃げ出してしまう。この身体に起きていることから逃げ出して、これ以上こころが苦しまなくてすむように、わたしはどこかへ消え去ってしまう。
 青い光が降り注ぐ、龍のいる海。何度目かの逃避の末に、そこにたどり着いた。大いなる海を泳ぎ、龍の王様の背中に乗って空を翔る。
 そこでは、わたしはきれいなままで、白い翼を持っていた。背中の翼は青い空を渡る風に揺らめいて、わたしを自由にしてくれた。いつか、ここへたどり着くことができるのだろうか。逃避ではなく肉体を持って、ここにたどり着くことができれば、そこでならわたしは幸せに生きてゆける?
 けれどわたしが身体の中に帰ってくると、夜が明けていたり、とっくにお昼だったりする。わたしの股には血が付いていたり精液がついていたりして、わたしの現実はそんなところに存在していた。

 チャンネルをまわすと、いくつものチャンネルで同じ光景ばかりが流れている。
 爆撃機が飛び交うさまが流れ、砲弾が投下されている。くだらないゴシップやつくられた流行の情報ばかりを垂れ流しているテレビが、いつもとは少し違うこと、そう「戦争がはじまりました」だなんて、そんな突拍子もないことを言い出した。
「戦争勃発!」
「空爆開始」
 それらの文字は、赤や黒のインパクトの強いフォントで、他人事のようにブラウン管に描かれていた。
 戦争がはじまったことを知って、やっとわたしは理解したの。世界の終わりの夢を何度見せられても、夢から覚めるたびに平和を祈っていても、それまでのわたしにとって戦争は遠い昔に終わった物語でしかなかった。直感で恐怖を感じてはいても、戦争なんていうものは、どこか遠くで起こっている出来事でしかなかった。
 家にいることが恐くなったわたしは、白い錠剤をかみ砕いてシャワーを浴びた。頭の痛みを我慢して、ひたすらに道路だけを見ながら学校へと向かった。
 昼休みの教室はいつものようにざわめいていた。窓側の一番後ろの席に座ると、ため息をついて力を抜いた。左のこめかみが痙攣していた。不快な引きつりを指でさすりながら、わたしはふと窓の外を眺めた。
 どんよりとした大きな大きな雲が空を覆っていた。工場地帯のこの街では珍しい風景ではなく、むしろそれが普段の空だった。汚れた空気と、グレーの雲と、無気力な少女たち。
 いつもと違っていたのは、空を覆う雲の色が、黒でもなく、灰色でもなく、白でもなく、鈍いさびたオレンジ色だったということだけだった。
 急激に苦しさがやってきた。胸が強烈な力で締めつけられると、両腕から力が抜け、足がしびれて震えはじめた。胸を押さえる力は、それまで体験したことのない強さでわたしを押し潰そうとする。息をすることがこんなにも大変なことなのかと驚いたほどに。
 なにが起こったのか、なにが起ころうとしているのか、まったくわからないままに、言葉や文字になることのできない言語が頭の中をぐるぐると回転しつづけた。こころの中に沸き起こっている感情の意味を、少しも理解することができなかった。昼休みの教室、喧噪の中で、わたしの意識は途切れはじめ、同級生たちの声も、午後の光もすーっと消えていった。

 一瞬の静寂のあと、子宮の奥まで響かせる重い爆発音とともに、強烈な光が身体を包んだ。
 全世界が発光し、熱を放っているかのような。
 閃光と突風にあおられ、業火の中、人も木も世界もゆらめきながらかたちを変えていった。

 はじめて感じる強烈な恐怖に、細胞が打ち震えた。心臓がそれに耐えることができないと思うほどに血流が激しくなり、頭の上には重石を乗せられ脳みそをギューっと押しつぶされているような圧迫感、全身を切り刻むような痛みが走った。

 世界が燃える。
 すべてが終わる。

 助けて、誰か。
 
 わたしの動揺を映し出したかのように、急に世界がゆれはじめた。あっという間に燃え上がり激しさを増しつづける炎が、ぐにゃぐにゃと世界を揺らしてゆく。

 あの夢が意味しているのは、このこと?
 この戦争を引き金にして、あの終末の世界が来てしまうというの?
 いやだ。

 ガクンと身体が揺れると、わたしの意識は教室に戻ってきた。叫び声を上げた自分の声に、身体が反応をしたようだった。驚いたわたしはあたりを見回した。相変わらず、世界はぐらぐらと揺れている。こんなにも激しく揺れているのに、なにも変わらずに、みんな普通に休み時間を楽しんでいた。斜め前の席でひとりマンガを読んでいる男子も、教卓を囲んで話しをしている女子たちも、ろうかで遊んでいる男子たちも、オレンジ色の空もなにも。
「なに、これ?」
 わたしは両手で肩を掴み、自分の身体を確かめた。なにも揺れてはいない。身体も世界も。それなのに、ぐらぐらとなにかが動いていた。
「なにが揺れているの?」
 揺れているのは身体だけではなく、その中身だった。
 身体は微動だにしていないというのに、魂だけが居心地悪そうに動いていた。身体と魂がずれてしまっているような気持ちの悪い感覚に驚いた。
「助けて。助けて」
 怖くなってしまったわたしは、頭を抱えて机に突っ伏して、髪をかきむしりこころの中で助けを求めた。
「けど、誰に? 一体、誰が助けてくれるっていうの? 誰でもいい。お願い、助けて! 」
 そう強く、こころの中でわたしは叫んだ。

「見て」
 そのとき、はっきりと聞こえてきた。
「なに? 誰?」
 突然聞こえてきた『声』は、まんまるなあたたかい光でわたしを包み込んだ。
「その目を見開いて、きちんと見て。起こっていることを知って」
「なに? 見るって、なにを?」
「もう大丈夫だから。何も怖れることはない。そのこころが見ている世界を、見えないふりをするのはもうやめて、ほんとうの世界を見なさい。そして、まっすぐ生きてゆくの。こころのままに。自分自身を信じて歩いてゆきなさい。
 生きなさい。
 許し、愛し、幸せに生きてゆきなさい」
 たったそれだけを言うと『声』は、わたしがなにを聞いても、こころで叫んでも、返事をしてくれなかった。
「わたしのこころが見ている世界? 一体なんのこと?」
 そう思いながら、ふたたび外を見た。
「地球が怒ってる。大地が泣いている。空が傷ついている」
 強烈な印象がわたしのこころの中で踊りはじめた。なぜ突然そんなことを感じたのか、自分でもわからなかった。
「許し、愛し、幸せに生きる? どうやって?」
 視線を窓の外から教室の中に戻したとき、わたしのこころは決まっていた。
「どうすれば幸せに生きることができるかなんて、わからない。でも、1つだけわかる。あの家にいる限り、わたしに幸せなんてやってこない。
 このことの意味は、きっと、いつかわかる日がくる。きっと、いつか」
 わたしは、そのまま身体を動かした。
 うす汚れたオレンジに空が染まったその日、わたしは家を飛び出した。そして教室にも、二度と戻ることはなかった。


芳明の風景 驚愕

 空港へとつづく道沿いに車を止めた僕は、コンピューターの画面に映し出される文字を追っていた。時間は刻々と過ぎていったけれど、そのファイルから目を離すことはできなかった。
 軽い気持ちで読みはじめてしまったファイル。彼女が読むなとクギをさしている理由はあまりにも重かった。
「誰のことだ? なんなんだ?
 まさか・・・」
 彼女が名を捨て、家族を捨て、親戚を捨て、過去のすべてを捨て、僕さえも捨てようとした理由。そこには、これまで誰にも明かさなかったであろう彼女の秘められた想いが書き連ねてあった。
 僕はなんてバカだったんだ。
「こんなにもそばにいたのに」
 僕は彼女の苦痛をなにひとつとして理解していなかった。彼女を助けてあげられた唯一の人間は、僕だったというのに。
 パソコンの画面から顔を上げると、フロントガラスの向こうには青い空が広がっていた。けれど、僕の目はそれを映し出すことを拒否した。青い空と白い雲は、目の前に存在していた。でも、それが見えなくなることがある。いや、その美しい世界の存在を受け入れたくないほどに、こころが沈む瞬間があることを、今僕は知る。
 液晶は白い背景に黒い文字を写しだしていた。僕のこころはその先を読むことを拒否した。画面はどんどん明るさを失って、やがて真っ黒になった。コンピューターがスリープをして、僕のこころもフリーズした。


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