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3月28日、昼間の街と人と私。

3月末の東京の気候は、着るものに迷う。特にこの1か月、仕事漬けでほぼ外に出ていなかったので、今日の外出前に何を着ればいいのか予測を立てにくかった。

iphoneの天気予報では昼過ぎの気温は14℃。冬物のコートを着ようか着まいか迷って、ベランダの窓を開けた。

寒くはないけれど、吹く風にまだそこまでの暖かさが含まれていない。

瞬間、これまでに越えてきた幾度もの3月の空気感がふわっと体内を駆け巡った。何となく肌が覚えているものだ。完全に春仕様にしてしまうと少し肌寒いだろうと、コートを着ていくことに決めた。

玄関を出て、鍵を閉めて、ドアノブを一度引いて確かめる。振り返って見えた空はどんよりと曇っていた。

エレベーターを待つ間、耳にイヤホンを差し込む。最近ずっと聴いている、先週買ったばかりのアルバムを初めて外の空気の中で聴いて、空模様とは関係なしに気分が上がった。

エレベーターで1階へ降り、駐輪場を抜けて外へ向かう。まだ屋根があるところから、目の前の通りを歩く老夫婦が透明なビニール傘を差しているのが見えた。そのビニールには水滴がたっぷりと実っている。

降っていたのか、と思った私の左手には、しっかりと折りたたみ傘。天気予報アプリでにわか雨の予報は把握していた。

何年も使っている折りたたみ傘を開いて、空の下を歩きだす。持ち手が少しがたついていて、使うたびに新しい傘を買おうと思う。でもきっとまた次のにわか雨の時も、私はこの傘を開いて同じことを思うのだろう。

駅までの道で、春の始まりを目から感じる。木に色づく淡いピンク。

時計を見て、少しだけ急ぐ。

道の角にあるタバコ屋さんの店先で、店番のおばあちゃんにタバコの銘柄を告げる男性。その後ろを通り過ぎ、左右を見て細い道路を渡る。

駅までの近道に、神社の境内のほうへと進む。傘を差さずに向こうからゆっくり歩いてくるおばあさんとすれ違ったとき、雨はだいぶ弱まっていた。

駅に着き、上りのエレベーターで、また少し急ぐ。すぐ追い越してしまったご夫婦の顔は見ていないけれど、優しそうな声の2人のやりとりが少しだけ耳に届いて、背中がほんわりと温かくなった気がした。

聞き慣れた発車前の音楽。大体いつもこれくらい、15秒くらいの、余裕とも言えない余裕をもってシートに腰掛ける。

次の駅で乗り換える。階段を上って、改札を抜け、別のホームへ。電車が来るまで4分ほど。右後方に若い女性、右前方にスーツ姿の男性がいる乗車位置で待つ。

そのとき、左のほうから缶の飲み物を片手にフラフラと歩いてくる初老の男性が。少し警戒して音楽のボリュームを下げながらも、その場を動かず待つ。その男性は私の左横1メートルほどでピタッと止まり、缶をあおり、またフラフラと前に進む。ホームの端を歩き、今度は私の右斜め後方2メートルの位置へ。視界のすみで男性が缶をあおった気配を感じる。次の瞬間、カラン、と空き缶をゴミ箱に捨てる音がした。

そこにゴミ箱があったとは。一人ほっとして、警戒を解き、音楽のボリュームを戻すのと、電車がホームに滑り込むのは同時くらいだった。

そこまで混んでいない車内。5分後、もう一度乗り換えるため電車を降りる。

前を歩く私服姿の男性の右手には黒いスーツケースと、スーツ。黒い髪にかかるゆるいパーマときれいな赤いスエットの後ろ姿が印象に残った。そのまま男性の1段後ろでエスカレーターに乗る。

エスカレーターを降りてから彼を追い抜き、別の路線へ向かう。ホームに降りる階段で、先ほどの赤いスエットの男性に追い抜かれた。彼はスーツケースを持ってするするっと階段を下りていき、私の目的地とは反対側のホームで立ち止まった。

彼の横を通り過ぎ、反対側のホームを進み、目的地の出口に近い乗車位置を調べて、待つ。スマホから顔を上げると、隣には身長が2メートル以上あるのではと思われる背の高い男性が立っていた。

電車が来て、乗り込む。30分と少しで目的地に着いた。

人生で恐らく初めて降り立つ駅だ。少し出口を探すのに迷いつつも、目的の出口を見つけ、階段を上がる。目の前には帽子を深く被ってゆっくりと上る男性。その衣服のほころびと年季の入った汚れ、外からの風に乗って鼻をかすめる微かなにおい。男性を右からそっと追い抜き、地上へ出た。地上へ出れば、初めての場所でもあまり迷わない。

一歩踏み出せば、人、人、人だ。

平日の昼間、街なかには描写しきれないほどの人の群れがあった。

大きな交差点で横断歩道が赤から青に変わったとき、ほんの一瞬出遅れた。道路の斜め反対側のビルを見ていたからだ。誰かの腕が私に少し当たる。私の腕も誰かに少し当たった。

楽しそうな人、忙しそうな人、ぼーっとしている人、ギラギラしている人。

その横断歩道で、あらゆる人の日常と非日常が交錯していた。久しぶりの街の雑踏から立ち上るそんな気配に一瞬圧倒されそうになりながらも、街からはじき出されないよう、何てことないかのように、私は私の楽しい非日常へと足を踏み出す。

次の瞬間には、私もいつものように街の一部に溶け込んでいた。

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