虹と、やさしさと
「見て、あっち、すごい空。」
母が指さす方を見ると、ただならぬ雰囲気の黒い雲が遠くの空を覆っている。
「怖い、怖い。降ってくるかな。」
最寄り駅まで、車で10分もかからない。しばらく走ると、また母が言う。
「あ、虹。」
運転席の母の向こうを見ると、青い空と白い雲を背景に、虹の足の部分だけがすっと空から地上へ降りてきていた。いや、地上から空へ伸びているのだろうか。その先は雲の中へと続いていて見ることはできないけれど、久しぶりに目にした鮮やかな配色に心が躍った。
思いがけず虹を見ると、無条件にうれしくなり、その瞬間を記憶に残したいような気持ちに駆られる。
カメラを起動し、何となくシャッターを切ってみる。
少しブレた写真をながめ、本物の虹に目を戻す。
撮った写真自体にあまり意味はなく、写真を撮るという行為が「覚えていよう」という意思を世界に示す、ちょっとした儀式のようなものだった。
「向こうの方は降ってたのかな」
そんな会話を交わしながら、すぐに地元の駅のロータリーに到着した。
「気をつけて」
「またね」
母の声に見送られ、改札をくぐる。
特急券の座席番号に目を落とす。
2号車3D、窓側。
見慣れた電車が上りのホームに滑り込み、何を思うでもなく、乗りこんだ。
平日の夕方で、車内は半分ほど埋まっている。
座席の前まで来ると、通路側にはスーツ姿の男性がリラックスして座っていた。窓側の席にカバンが置いてある。
「すみません」
声をかけ、席を空けてもらう。
座席に深く座り、バッグからお茶と本を取り出す。ほんの少しだけ背もたれを倒すと、電車が走り出した。
車窓の向こうに目をやると、さっきの虹がまだ遠くに見えている。違う角度からも見えたことがうれしくて、またこっそり写真を撮った。
『電車から見えたよ』
簡単なひと言を沿えて、母に写真を送った。
イヤホンを耳に挿し、本を開き、文字に目を走らせる。
30分ほど経ったころ、かすかに声が聞こえた。
隣の男性が通路に立つ年配の男性と話している。特急券を確認し合っているようだ。
(座席の間違いかな。こういうの、たまに見かけるな。)
そう思ってまた本に視線を戻しかけた時、嫌な予感がした。イヤホンを外し、2人のほうを振り返る。
「座席、2Dで合ってますか?」
年配の男性に聞かれ、急いで確認する。私の席は…
やってしまった。1つ後ろに座っていた。
「あ…!すみません!」
あわてて荷物をまとめて立とうとすると、年配の男性はフッとほほえみ
「1つ前ですか?じゃあ私、前でいいですよ。」
そう言ってくれた。
やさしい返答にホッとしつつ、恥ずかしさと申し訳なさで、乗車した時ののんびりした自分を恨めしく思った。
(なんで間違えたんだろう…それより隣の人にもひと言おわびを…)
と、ひとり内心わたわたしていると、
「よくありますよね、こういうこと」
隣のスーツ姿の男性の声が、さわやかに小さく響いた。
ハッとして、初めてその人の顔をまじまじと見る。
同い年くらいだろうか。何だかとてもいい顔つきをしている人だった。騒がせてしまった見知らぬ私に、穏やかな笑顔を向けている。その表情は、私の心を見透かしたかのように「気にすることないですよ」と言っている。それ以上でも以下でもない、純粋なやさしい気遣いがまぶしかった。
彼の笑顔につられ、ちょっと苦笑いで頭を下げ、ひと言だけ言葉を交わした。
恥ずかしさを隠すように、下を向いて本に視線を戻し、考える。
彼のようにさりげないひと言を、逆の立場なら私は言えていただろうか?自分には関係ないことだと、本に目を落としたままだったのではないだろうか?別に、それでも何の問題もなく電車は走る。都会なら、知らん顔をしているのが普通かもしれない。だけど…。
本当は、誰かにやさしい言葉をかけることに、都会とか田舎とか、そんなことは関係ないのに。いつの間に「都会の普通」が私の普通になってしまったんだろう。
やさしい気持ちが編み込まれた言葉は、柔らかくてずっと触っていたくなるボールのようで、思いがけず受け取るとやっぱりうれしかった。
ふと、さっきの虹が頭に浮かぶ。
見知らぬ彼の淡く鮮やかなやさしさを、覚えていようと思った。
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