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『結婚』を、もっと自由に

彼とのつきあいも、もう10年以上になる。「そろそろ結婚?」とか「そんなに長くつきあってて、何で結婚しないの?」とか聞かれると、そのたびに「結婚しないことってそんなに不自然なのか?」という疑問が頭に浮かんでいた。

周りの人は「結婚」というワードを出しながらも、実はその先のことを言っているように思う。無言の圧を感じるのだ。「子供を産める年齢には限りがあるのに、そんなにのんびりしていていいの?」という圧だ。実際、そのようなことをはっきりと言葉にする人もいる。女である私には子供を産む願望や意思が当然あるものだ、という前提で話しているのかもしれない。

私は、今の段階では、子供を産むことをそこまで強く望んでいない。子どもを産む/産まないの選択について思うところは『「2人の子供を見てみたい」』というnoteを書いたときからあまり変わらず、やはり「怖い」という気持ちが勝っている。彼との子供ができたら、きっと愛しいだろうし、幸せだろう。だけどそのエゴのままに産んでいいのだろうか?という思いもある。これは他の人のことは関係なく、あくまでも私自身の問題だ。「私が望んだから産まれてくる命」への責任を負う、その覚悟が本当にあるだろうか?

それに、これから産まれてくる子供が生きる社会は、幸せだろうか?今の政権は日本を戦争ができる国にしたがっているように見えるし何かと不穏だし、巨大地震の発生確率が年々増加していくことなんかも、やっぱり怖い。もし何かが起きて、経済的に困窮して、子供に不自由な思いを強いることになったら?それに地球温暖化の進行による本格的な異常気象で、自分の子供が高齢になる頃には地球は人類が住めないような環境になってるんじゃないか、とかも思う。…こんなことを考えてもしかたないのかもしれないけれど、今の日本が「安心して子供を産んで育てられる社会」とは思えないということも、大きな理由の1つだ。

子供を積極的に望んでいないということもあって、いつからか疑問に思うようになってしまった。結婚って何だろう。そしてなぜ日本で結婚するには同姓になることを強制されなければいけないんだろう。生まれてからずっと自分の一部だった名字を理不尽に奪われてしまうことを思うと、言いようのない不自由さを感じた。「同姓」が家族の絆だとか言う人もいるけれど、何だか得体のしれないものに縛られる感じがするのだ。

今はもう未来感すらある2018年なのに、とっくの昔(戦後)に廃止された「家制度」を引きずっているような現状の婚姻制度の重たさは、時代に即していないのではないか。

「同姓が嫌なら事実婚でいればよい」と謎理論を展開する人もいるけれど「事実婚がベスト」だと思って選んでいる人が果たしているだろうか?あくまでも自分たちにとっては現状の婚姻制度よりは「ベター」だから、何かと不都合もある事実婚を仕方なく選んでいるのではないか?もっと自由で、今何かを我慢している多くの人がベストだと思える新しいパートナーシップの形を、救済策として、そろそろ日本も考えていくべきじゃないのか?そう思うことは果たして「わがまま」なのか?時代はこんなに流れているのに。

疑問や不満がない人はもちろん現状の婚姻制度で何も問題ないのだろう。こんなこと、何も疑問に思わずに済むのなら、そのほうが幸せなのかもしれない。だけど「なぜ?」と考えてしまうことは自分でも止められない。

名字を変えたくない気持ちについては『婚姻届けを出す?出さない?』というnoteでも書いた。名字問題に関しては、自分の感情に折り合いをつけようとしつつあるけど、事実婚に関するこういう記事(ビジネスジャーナル『事実婚、消える法律婚との差?メリットの多さに関心高まる「妻(未届)」』)を読むと、やっぱり変えないで済むならそのほうが…と考えてしまう。 結婚に伴う改姓が苦痛だ、という感覚は彼への愛情とは別問題なのだ。

「何の抵抗も不満もなく改姓した(何が嫌なの?)」という友人もいれば、「改姓について何とも思ってなかったけど、実際に結婚して名字が変わったら悲しさがこみ上げてきた」という友人もいる。どの感覚もそれぞれの真実であり、同じ女性でも考え方や反応はさまざまだ。やっぱり、現状の『結婚』の型は、窮屈でないとは言えないだろう。

夫婦同姓を強制し、9割強が夫の姓を選ぶ/選ばざるを得ない日本。国連からも再三の是正勧告を受けているのに、自民党が消極姿勢を崩さないこともあり、なかなか国会での議論が進んでこなかった。

国連は2003年、同規定を差別的だと廃止を求め、09年に再勧告、(2016年)3月には3度目の是正勧告をしている。(中略)夫婦同姓を義務付けているのは世界を見ても日本だけだ。トルコ、インド、タイなど諸外国では法改正で夫婦同姓規定を廃止する流れができている。(日経スタイル「「男女が同じ選択肢を」 夫婦同姓、国連は改善勧告」より)

「まだ自分がどうしたいか分からないけど、同姓か別姓か選べたほうがいいかも…」と思う若い人には、積極的に選挙に行ってほしいと思う。

そんな中、先月サイボウズの青野慶久社長が選択的夫婦別姓の実現に向けて訴訟を起こした。最高裁の判決が出るまで数年はかかる見込みだけど、青野社長たちが提示する「呼称だけ別姓」案などはかなり現実的だと思う。これでやっと日本が変わる…そう信じて、期待したい。

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さて、いろいろと疑問を提示してきたものの、現実問題として、そろそろ『結婚』に対してどういう立ち位置を取るか覚悟を決めなければいけないかな…と思いながら、今このnoteを書いている。

理由は、彼が周囲からの「何で結婚しないの?」攻撃に耐えきれなくなってきているから。軽い気持ちでそういうことを突っ込んでくる人には「ほっといてくれ」と言いたいのだけど、世間的には「いつまでも彼女と結婚してあげないなんて無責任、彼女がかわいそう」とどうしても思われてしまうらしい。彼が責められる理由なんてないのに、そんなことを好き勝手に外野から言われ続けた結果、彼の中に「早く結婚して、みんなの言う『一人前』にならなければ」という強迫観念が少しずつ芽生えてきてしまったようなのだ。

「男は結婚して『守るべきもの』があったほうが仕事を頑張れるものだ」という持論を吹聴している方々もいるらしく、彼も「そうかもしれない」と信じ込みそうな勢いなのだけど、仕事なんて、自分の人生のために頑張ってほしい。一方的に「守る」なんて意気込まずに、半人前どうしで寄り添って支え合う関係でいいじゃないか。

当事者である私たちが結婚に焦りを感じていなくても、「結婚して当然派」の周囲の人は、自分たちの「常識」を遠慮なくぶつけてくる。結婚観なんて人それぞれ違うはずなのだから、当事者どうしが自分たちの人生に照らし合わせて考えればいいことなのに…。極めてプライベートな事柄であるにも関わらず、他人の『結婚』にまで気軽に口を出すのは、「みんなと一緒であること」に安心を覚える昔ながらの日本人の国民性ゆえなのだろうか。もっと自由な結婚観が当たり前になる社会は、いつになったら日本に到来するんだろう。

そんな周囲からの圧力に日々さらされている彼の心労に配慮すると、事実婚にしろ法律婚にしろ、いずれかの形で「夫婦」になる決断をしないといけないのかな、と思うのだ。(実体はもう完全に事実婚なので、事実婚を選ぶとしたら、住民票を同一世帯にして公に証明できるようにする、というだけだけど…。)

…と言いつつ、これ以上はまだ具体的な考えがまとまりそうにないので、ここから先は、気持ちを整理するためにも、とりあえず『結婚』に関する形式的なあれこれについて、思うままに書いてみる。外側から考えていくことで、本質に近づけることもあるかもしれない。私は『結婚』をどう捉えているのか。

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昔から「憧れる」ことのなかった、結婚のイメージ

婚約指輪はいらない。結婚指輪もいらない。結婚式や披露宴も挙げなくていいし、ドレスを着たウエディングフォトさえも別に撮りたいと思わない。夢のない結婚観だけど、結婚は夢でも何でもなく、日常の続きでしかないと思う。

結婚する前も、した後も、そこに浮かぶイメージは私たちのゆるく幸せな日常だけだ。だから結婚がまるで人生における幸せの絶頂かのように見せなければいけない(と感じてしまう)結婚式や披露宴を、自分たちが挙げることに抵抗があるのだ。また、私も彼も普段から指輪を身につけることがないので、「結婚に際しても指輪を買う必要はない」という共通認識を持っている。

指輪や結婚式やウエディングドレスというものに憧れを持つ人がいるのと同じように、それらに全く興味がない人もいて当然だ。私たちは完全に後者で、そこに莫大なお金や時間をかけるなら、2人で一緒においしいものを食べに行ったり、あちこち旅行したり、もっと心から楽しめることをしたいと考える。

「結婚する=指輪をする」???

小さい頃は「結婚する=指輪をする」という慣習はごく普通のことだと思っていた。でも、いざ自分の結婚について考え始める年齢になると「なんでみんな結婚したら当然のように指輪をするんだろう?」と疑問を抱くようになった。婚姻関係にある2人は指輪をしなければいけない、というルールもないのに、純粋に「指輪をつけたい」「相手にもつけてほしい」と思う人が多いのだろうか。その指輪が高額であるほど嬉しかったり、そこで相手の気持ちを推し量ろうとしたりするのだろうか。

「指輪をもらって喜ばない女性はいない」という認識の人は多そうだから、彼はもしかしたら職場の先輩などに「指輪ぐらい買えよ~」とか言われるかもしれない。でも、私が本当に指輪を欲しいと思っていないことを、彼はよく知っている。世のカップルがどうしているかは関係なく、私と彼の場合は、おそろいの指輪は高いお金を出して手に入れる価値のないもの、なのだ。

その代わりというわけではないけれど、おそろいのマグカップやお茶碗などは、これからも増えていくのだろう。結婚の記念に「いいもの」を買うとかじゃなくて、2人で出かけた日にたまたま寄ったお店で、気に入ったデザインのものを見つけて色違いを買ったりするのだ。誕生日や記念日やクリスマスなどにも特に贈り物をし合うことがない私たちにとって、日常の中で一緒に買うささやかな品物が、少しだけ特別なものになる。

「結婚する=式を挙げる」???

私自身は結婚式に憧れはないけれど、友人の結婚式や披露宴に招待されれば、喜んで駆けつける。きれいなドレスを身にまとった幸せそうな友人を見れば嬉しくなるし、つきあいの長い友人ならやっぱり感動もする。両家のご両親も嬉しそうだし、お祝いの席の幸せな空間はいいな、と思う。

ただ、自分にはあの「花嫁役」はできないな、と冷静に思うだけだ。そもそも人前に立ったり注目を浴びることが得意ではないというか嫌いなので、大勢の友人・知人・親族の前でニコニコしながら手を振って登場したり、キャンドルサービスで各卓を回ったり、写真を撮られながらファーストバイトをしたり、両親への感謝の手紙を読み上げたり…という各種演出をこなすなんて、考えただけでおなかが痛くなりそうだ。そんな大役を見事に笑顔で勤め上げる友人たちを見ては、すごいなあと思ってきた。私には絶対に無理だ。

結婚式や披露宴は何のためにするのか?

2人のけじめのため、互いの親に晴れ姿を見せるため、両家の親族を紹介するため、お世話になった人をもてなすため、大勢に祝福してもらって実感を得るため、感謝の気持ちを伝えるため、などなど、いろんな考え方があるのは分かる。

準備の大変さを2人で共有することで、新生活に向けてお互いのことがもっと分かるようになるのだという人もいる。プレッシャーや緊張を乗り越えて当日を楽しめれば、きっと達成感もあっていい思い出になるのだろう。

それでも、やっぱり私の心の底から出てくる言葉は「式や披露宴はやりたくない」だ。育ててくれた親をはじめ、周囲の人への感謝の気持ちや、パートナーを大切に思う気持ちを、みんなの前で大々的に発表するのは気が引けてしまう。大切な人に伝えたいことがあるなら、個人的に伝えるチャンスや手段は他にもいろいろあるはずだ。

無理をして自分が望まないことをやると、少しでも想定外のことがあったときに負の感情が生まれてしまう気がするし、自分自身が楽しめる自信がないことは、無理をしないにかぎる。

「親のために挙げる」という選択肢は私にはないのだけど、「親子」について思うところはまた別の機会に書こうと思う。

結婚とは?

「結婚」という言葉で連想するのは、ウエディングドレスでも指輪でもなく、縁側で仲よくお茶を飲んでいるおじいちゃんとおばあちゃんになった2人の姿だ。別に縁側でお茶を飲みたいわけではなくて、一緒に年を重ねて、穏やかに楽しく暮らしたい、ということだ。それぞれの人生を、寄り添いながら生きるだけ。

制度として『結婚』を考えると不自由で悩ましいけれど、結局、個人的な思いはいたってシンプルなのだ。一番近くにいたい人/いてもらいたい人と、できるだけ長く一緒にいたい。いつか死んで骨と灰だけになった後も、一番最初に触れてあげたい/触れてほしい。

以前、既婚の姉に「結婚って何?」と聞いたら「契約だよ」という潔い返事が返ってきた。そうなんだけど、そうじゃなくて…という気持ちでいっぱいだったけれど、やっぱりこの問いへの答えはきっと、人それぞれなのだろう。

『結婚』を取り巻く概念が、もっと自由になったらいいのに。そうしたら、もっと軽やかに生きられる気がする。

…長々と書いてきたけど、やっぱりまとまらないな。難しく考えすぎてる気もするし、もっとシンプルな答えが出るのを待ちたい。『自由』の捉え方の問題なのかな。

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