見出し画像

クーデターから1000日のミャンマー(その3)

「スマホを盗られた!」
日本人の友人から連絡があった。友人はバスを降りる際、ズボンのポケットに入れていたスマホをスリに盗られたという。ヤンゴンでこのような事件が頻繁に起こるようになったのは、クーデターから1年3ヶ月が経過した2022年5月頃からだ。

経済と治安が悪化するヤンゴン(2022年5月〜)


クーデター前まで、東南アジアで最も治安が良いのはミャンマーだと私は思っていた。ドルキャッシュ、パスポート、スマホ、カメラなどの貴重品を何度かミャンマーで落としたり置き忘れたことがあるが、すべて無事に戻ってきた。しかし、クーデター後のこの時期からミャンマーの治安は急激に悪化した。

東京が日本の中でも特別な都市であるように、ヤンゴンもミャンマーの中で特別な都市である。地方ではミャンマー軍とレジスタンス勢力が至る所で戦っており、住民は軍の攻撃から逃げ回っていた。しかし、ミャンマー最大の都市で海外への表玄関でもあるヤンゴンは、外国人にとってミャンマーという国のショーウィンドウでもある。「平和で繁栄している」ヤンゴンを見せるため、軍は徹底的に管理している。

数人でのデモ活動でも、軍や警察がすぐにやってきて逮捕する。その後、軍の尋問所で激しい拷問を受け、そのまま死んでしまう人もいる。横断幕や張り紙もすぐに撤去される。街は常に監視されていた。

主要な交差点にある警察の派出所は灰色のトーチカのような四角いセメントの塊に変わり、銃眼から銃口がこちらに向いている。警察署や政府関連の建物の前は鉄条網で囲まれ、その奥には土嚢に守られた兵士がいつでも撃てるように銃を構えていた。異様な光景であるが、ヤンゴンに住んでいるとそれが普通の風景となり、異様だとは感じなくなる。

夜になると、自宅に軍が突然現れ、不審な人間がいないかチェックを行うこともある。地区の役所に届け出ていない人物が部屋にいると、そのまま連行されてしまう。親戚や友人の家でも気軽に泊まることができないのだ。

こんなヤンゴンに来た外国人は、表面的には平和で賑わっている街を見て、勘違いしてしまうことになる。平和な街の姿の裏には、恐怖に支配された街があるのだが、外国人の目には見えづらい。

軍は都市部の市民の行動を力で抑えることはできたが、経済はコントロールできなかった。クーデター後のミャンマー経済は悪化の一途を辿った。それとシンクロするように、2021年末から、路上での物乞いが急激に増加した。クーデター前は時々物乞いを見かける程度だったが、多くは職業物乞いで、彼らを統括するグループが存在した。しかし、クーデター後は人通りの多い場所に本当の物乞いたちがあふれるようになった。

チュージョーの破壊

ヤンゴン郊外には縫製工場など多くの工場があったが、クーデター後には閉鎖されるところが増えていった。そこで働いていた人たちは、職を失っただけでなく、自分たちが住んでいるj家が消えていく事態に直面することになった。

彼らが住んでいる地域にはチュージョーと呼ばれる場所が数多く存在し、地方から来た人たちがたくさん住んでいた。チュージョーとは不法占拠を意味し、道路脇や水路脇などの土地の所有が不明確なところに勝手に小屋を建てて住んでいる地区で、いわゆるスラム街だ。

彼らの多くは2008年にヤンゴンに来た人たちだ。この年、巨大サイクロン、ナルギスがミャンマーを襲い、死者・行方不明者は13万人以上、被災者は約240万人に上った。村が流され、水田や畑が塩水に浸かり復興不可能となったところが多い。全てを失いヤンゴンまでたどり着いた人たちがチュージョーに住むようになった。

チュージョーでは一般の住宅地とは異なり、住民登録があまり行われていなかった。このチュージョーに軍から追われたレジスタンスの若者たちが逃げ込んでいると軍は考え、チュージョー自体を破壊することを軍は決定した。次々と重機で小屋を潰し、更地にした。サイクロンですべてを失った人たちは、今度は軍によって再びすべてを失った。彼らの行き先はなく、一部は路上生活者となり、物乞いをするしかなかった。また、幼い子どもたちが物売りとして裸足でヤンゴンの街を歩いていた。これもヤンゴンでは日常風景となった。

また、権利が曖昧な土地(ミャンマーにはよくある)も軍が次々と接収した。軍の将校たちに恩賞として与えるためだ。ヤンゴンの高級住宅地の裏手に位置する地区に、古くから100戸ほど家が建っていた。ある日突然軍がやってきて、立ち退くよう命令された。親の代から住んでいたという彼らの家は重機によって次々と取り壊されてしまった。何も抵抗できない住民の中には、失意で自殺する人もいた。

普通の国ではこのような悲惨な状況は治安悪化や犯罪の増加を招くが、なぜか犯罪はそれほど増えなかった。ヤンゴンでは、警察は軍に抵抗する人間を捕まえることが主な職務で、一般の犯罪者の取り締まりはほとんど行われなかった。強盗や窃盗に遭って警察に届け出ても、放置されることが多かった。警察はクーデター後に軍の直轄組織となり、軍の指示に従って動いたからだ。それでも、不思議と治安の悪化はあまり感じられなかった。

【参考】
不法占拠者の家屋取り壊しで数万人が家を失った

ミャンマーのクーデターでヤンゴンの数千人が家を失った理由


急速な治安の悪化

治安の状況が急に変わったのは2022年5月頃からのことだった。バッグを持って歩いていると、背後からバッグをひったくられることが近くで立て続けに起こった。歩きスマホをしている人も同様にスマホを奪われる事件が続いた。バスに乗っていると、強盗団が乗り込んできて、ナイフで乗客を脅し金品を奪っていった。流しのタクシーに乗ると、知らない場所に連れて行かれ、持ち物をすべて盗まれた。逆に、乗客から刺されてタクシー運転手が死亡する事件もあった。ヤンゴンでは、犯罪の話を毎日聞くようになったのだ。

バス停でバスを待っている間にナイフで脅されて金品を奪われる事件があり、その現場を目撃したサイカー(自転車タクシー)の運転手が犯人と格闘したが、犯人は逃げってしまった。翌日、そのサイカー運転手がナイフで刺されて死亡した。前日のバス停での犯人が刺したのだ。このような事件が日常化し、犯行現場を目撃しても助けてくれる人は少なくなっていった。かつて東南アジアで最も安全な都市だったヤンゴンは、最も危険な都市に変わってしまった。

ミャンマー人女性は外出時には質素な服装を着るようになり、アクセサリーも身につけなくなった。私も外出時は常に周囲を警戒するようになった。ちょっと前までは軍や警察に注意すればよかったが、今は犯罪にも警戒が必要となった。夜間の外出はほぼなくなり、夜になるとタクシーもほとんど走らなくなった。

治安悪化の主な原因は貧困化だが、恩赦による犯罪者の釈放も大きな要因となった。治安が急激に悪化した2022年5月の1ヶ月前、4月に3,000人以上の恩赦が行われたが、政治犯はほとんど含まれてなく、強盗、傷害、窃盗、麻薬関連などの刑事犯ばかりが釈放されたのだ。

そして、日本人が襲われて病院に搬送される事件が起きた。2023年1月14日の夜9時頃、日本食レストランで夕食を済ませた日本人駐在員の男女が、歩いて次の店に向かう途中、ナイフを持った男に襲われた。2人は金品を奪われ、日本人男性はナイフで刺されて倒れた。近くの病院で緊急手術を受け、男性は一命を取り留めたが、刺された場所が少しでもずれていたら命を落とすところだったという。それまでにも日本人が強盗などの犯罪に遭う事例は複数あったが、ほとんどが公表されていなかった。この事件は日本でも報道され、ヤンゴンの危険性が日本人にも認識されるようになった。

貧困化するミャンマー

クーデターが起きた2021年、世界銀行の推定によるとミャンマーのGDPは前年度比マイナス18%に落ち込み、その後も低迷が続き回復の兆しは見えない。クーデター前は1ドル1,300チャット前後で安定していたミャンマーチャットのレートが、2022年の8月末には一時4,000チャット近くまで暴落した(2024年1月時点で3,450前後)。輸入品価格は3倍近くに跳ね上がり、国内産品も2倍以上となった。私が普段購入している5kgの米は7,550チャットから19,500チャット(約850円)へ値上がりし、路上ティーショップのミルクティーも500チャットから1,200チャット(約50円)へと上昇した。物価は2倍以上になったが、多くのミャンマー人は仕事を失い、仕事があっても給与は以前とあまり変わっていない。

こうして、国全体が貧困化した。国連開発計画(UNDP)の発表によると、2022年のミャンマーの貧困率(1日0.9ドル以下で生活する人の割合)は46.3%に達すると予測された。国民の半数近くが貧困層に陥ったのだ。

私の友人で、外国人相手の旅行会社を経営していた人がいる。その会社は、年間数百人の外国人観光客を受け入れていたが、クーデター以降は客がゼロになった。友人は、クーデター後もスタッフに給料を支払いながらしばらく頑張っていたが、収入が全くない状況が続き、最終的に会社を休業することになった。

ツーリストガイドとして働いていた知り合いも仕事を失った。バガンには英語をはじめとする多くの外国語専門のツーリストガイドがいたが、現在では彼らも英語教師など別の職を探して何とか生計を立てている。中には行方不明になった人もいる。

CDM(市民的不服従運動)で職を辞した元公務員の人たちも苦労している。私の知り合いの元教師は、手作り石鹸をFacebookで販売し、細々と生活している。彼女のようにFacebookを活用してオンラインビジネスを始めた人たちも多い。一方で、生活のために仕方なく元の公務員の職に戻った人たちも少なくない。

オンラインビジネスとデリバリー

石鹸販売を始めた元教師のように、Facebookを利用したオンラインビジネスを多くの人たちが始めるようになった。わずかな資金でも事業を開始できるし、顧客もわざわざ外出する必要がないからだ。クーデター後は外出そのものが危険になり、人々は何でもオンラインで購入するようになった。また、スマートフォンでの送金が大きな役割を果たした。一時期、自分の銀行口座からの現金を引き出すことさえ困難な時期もあり、1日に引き出せる最大20万チャット(約15,000円)を手にするために一日中銀行に並ぶこともあった。しかし、スマートフォンを使った送金ならすぐにできた。

こうして、クーデターがきっかけとなり、ミャンマー経済のオンライン化が急速に進展した。しかし、オンライン化することすべてが良いわけではなかった。レジスタンス勢力への資金流出を恐れた軍は、銀行口座の監視を強化した。ある会社では、数百万円相当が入っていた会社の口座が、何の理由もなく凍結された。いくら当局に問い合わせても「わからない」という回答で今でも凍結されたままだ。さらに、レジスタンス組織と関係があるとされる口座への送金疑惑で逮捕される人が増えた。

デリバリー業界も活況を呈している。コロナの時期に増加したフードデリバリーは、クーデター後に爆発的に増えた。食品だけでなく、オンラインショップの商品も彼らが配達している。ヤンゴンの街中を歩けば、自転車に乗る若者たちを数多く見かけるが、彼らの大多数がデリバリーの仕事をしている。デリバリー業は、失業した若者たちの新たな仕事の場となっている。

毎日が停電

この経済的困窮の中で、さらなる困難をもたらしたのが停電である。ミャンマーは昔から電力不足に悩まされている。ヤンゴンでも毎日の停電は当たり前で、ほぼすべての家庭で停電時に使用する車用のバッテリーを常備している。2011年の民政移管後、海外の支援を受けて電力事情は徐々に改善されてきたが、クーデターにより状況は一変した。

以前は停電がほぼなかった6月から10月の雨季も、毎日4時間の計画停電が実施されるようになった。ミャンマーは水力発電の割合が高く、クーデター前は雨季の停電はほとんどなかった。しかし、今では私が住んでいるような比較的電力供給が恵まれている地域でも4時間の停電、郊外では8時間や10時間の停電が普通だ。乾季から暑季には、条件のいい地域でも1日4〜12時間の停電が発生するし、郊外では電気が来るのが1日にわずか2〜3時間ほどのところもある。

停電が頻発すると、工場にも大きな影響が出る。工場の停止を避けるために発電機を使用するが、燃料費が経営に重荷となる。さらに、燃料を入手するのも困難になってきている。最近では12月に入ってから石油不足が生じ、ガソリンスタンドの営業停止が増えてきた。地方では1ヶ月以上電気も石油も供給が停止している場所が多い。

苦境に追い込まれたキリンビール

民主化と経済発展の波に乗り、2015年にミャンマーに登場したのがキリンビールだった。キリンは697億円を投資し、ミャンマー・ブルワリー(MBL)の株51%を取得して子会社化した。MBLは「ミャンマービール」ブランドで市場シェア80%を誇っていた。当時、キリンによる海外投資の成功例として日本でも注目されていた。しかし、クーデターによって状況は一変した。MBLは元々ミャンマー軍傘下のミャンマー・エコノミック・ホールディング・リミテッド(MEHL)が保有する会社だったのだ。MEHLの取締役にはミャンマー軍の将軍が名を連ねていた。事実上、キリンビールとミャンマー軍が共同でビール会社を経営していたのである。

キリンがMBLに投資した当時、批判の声はほとんどなかった。私も含め、多くの人々はミャンマービールを普段から愛飲していた。ロヒンギャ問題が浮上し、欧米からの批判が高まっても、私はミャンマービールを飲み続けていた。当時の私はミャンマー軍の本質を理解せず、知ろうともしなかった。無知だったのだ。

クーデター後、ミャンマービールはスーパーの棚から姿を消した。スーパーだけでなく、酒屋やレストランも同様だった。軍系企業の製品に対するボイコットが始まり、ミャンマービールが最大の標的となった。かつて国民から愛されていたミャンマービールというブランドは、一夜にして国民から最も忌み嫌われるブランドに堕ちてしまった。キリンにはミャンマー撤退しか道が残されていなかった。

キリン以外にも、トヨタ、スズキ、KDDI、大手商社、ゼネコンなどの日本の大手企業が進出しているが、みな厳しい状況だ。また、中小の日本企業も多かったが、続々と撤退した。「ラスト・フロンティア」と呼ばれていた頃のミャンマーは幻のように消えてしまった。

日本のODAにも甚大な影響があった。クーデター以降、新規案件は停止し、既存案件の継続のみとなった。日本大使館やJICA、ゼネコンが盛んにPRしていた日本のODAだが、クーデター後は隠れるようにして既存案件の事業を続けている。既存案件の継続自体が非難の対象となり、軍系企業との取引が問題視されたからだ。

【参考】
キリン、ミャンマー事業の売却発表 合弁企業に224億円


苦しむミャンマー人と、好景気に沸く「送り出し機関」

危機に陥ったミャンマー経済で、好景気に沸く業界がわずかながら存在する。それは、海外への出稼ぎ労働者向けの仲介業である。ミャンマーにいる若者は二つだけ道が残されていた。海外に出るか、レジスタンスとして軍と戦うかだ。出稼ぎ先は隣国のタイが最も多く、非合法まで含めると500万人いるという調査がある。人口の1割近くがタイに働きに行くという、驚きの数字だ。日本も出稼ぎ先として非常に人気がある。このため、技能実習や特定技能の制度で日本に労働者として送ることのできる「送り出し機関」がヤンゴンに次々と設立された。

同時に人気を呼んだのが日本語学習だ。日本で就労するためには一定レベルの日本語能力が必要で、日本語能力試験(JLPT)の受験者が急増した。2023年度7月のJLPT受験者数はミャンマーで9万人に達し、中国に次いで世界第2位となった。前年の受験者数が13,789人だったことを考えると、1年で約6.5倍に増加している。

日本の技能実習制度には制度欠陥(3年間は転職できないなど)があるため、一部では現代の奴隷制度などと揶揄されることが多い。それでも、希望が見えないミャンマーの若者たちにとっては羨望の働き先だ。特に、技能実習とは別の制度である特定技能制度では転職が可能であり、人気が集中するようになった。この制度で日本に行くには、各業種で定められた技能試験に合格する必要がある。しかし、ミャンマー国内での受験枠が少ないため、バンコクやマニラへ受験に行く人たちが増えている。

ただ、そんなに簡単に日本へ行けるわけではない。一定の日本語能力(JLPT N4またはN5合格)が求められ、これが難関となって挫折する人も多い。さらに、不正な送り出し機関も存在する。生徒を集めておきながら、ほとんど日本の会社を紹介しない機関や、規定外の費用を徴収する機関がある。

ミャンマーから日本へ就労する際、ミャンマー人本人が送り出し機関へ支払う金額の上限は、技能実習で2,800ドル、特定技能で1,500ドルとされている。しかし、日本語授業料やパスポート・VISA代などの様々な名目で追加費用を請求する機関が後を絶たない。こうして、過大な借金を抱えて日本へ行く人たちが増えている。

私にとってヤンゴンで不思議なことがひとつあった。ショッピングモールでは買い物をする多くの人たちを見るが、彼らがなぜお金を持っているのか不思議だったのだ。それは、海外からの送金が理由のひとつだった。私の周囲のミャンマー人を見渡しても、家族や親戚が海外で働いている割合がとても高い。かつてフィリピンが出稼ぎ国家と呼ばれていたが、今やミャンマーがその地位を占めている。

送金と税金

出稼ぎ国家となったミャンマーで、彼らの稼ぎに目をつけたのがミャンマー軍だ。兵器や燃料を海外から調達するには外貨が必要であるが、膨大な戦費と経済不況で軍も外貨不足に陥った。そこで、海外で働くミャンマー人に、毎月収入の25%をミャンマーの銀行を通して家族などに送金することを義務付けた。この義務を果たさなければ、パスポートの更新ができなくなる。もし、パスポートが期限切れになると、現地で不法滞在者となってしまう。この25%というのはかなり大きいが、銀行送金自体には問題がないように思える。しかし、そこにはミャンマーの特殊な事情が隠れている。

クーデター後、ミャンマー中央銀行は「参考為替レート」というものを設定した。現在、このレートでは1ドルが2,100チャットとなっているが、市場実勢レートは3,450チャット(2024年1月14日時点)である。銀行送金での為替は参考為替レートで行われるため、実勢レートとの差額が軍の収入となる。さらに、海外労働者には2%の所得税を課すことになった。日本の東京にあるミャンマー大使館も、一律月2,000円の税金を徴収すると発表があった。海外に逃れても、ミャンマー軍は追いかけてくる。

エスカレートする空爆(2022年10月〜)


ヤンゴンは経済や治安の悪化で苦しんでいるが、それでも地方に比べると遥かにましであった。地方では、軍は「四断作戦」や「アノーヤター作戦」で住民を攻撃対象にしていたが、2022年後半からはその攻撃が一層エスカレートした。

それまでは、地上部隊を支援する目的で、空軍による空爆や機銃掃射、輸送などが行われていた。しかし、2022年後半からは、空軍が単独で住民を標的とした空爆を行うようになった。

2022年10月23日、ミャンマー北部カチン州パーカン地区で、KIO(カチン独立機構)の記念コンサートが開催されていた。出席者にはKIOやKIA(カチン独立軍)の幹部もいたが、地元の人たち数百人が観客の大部分だった。コンサートの真っ最中だった午後8時頃、ミャンマー軍のジェット戦闘機が夜空から会場に爆弾4発を投下した。犠牲者は80人以上で、多くが地元住民だった。

また、2023年4月11日朝、ザガイン地方バジジー村で行われていた行政事務所開所式でも、空爆で悲劇が起きた。午前8時前、戦闘機が現れ、爆弾を投下して多くの人が亡くなった。30分後、ヘリコプターによる機銃掃射が行われた。午後5時半には再度戦闘機が飛来し、遺体を集めていた人々の上に爆弾が堕ちた。この日、バジジー村で160人以上が犠牲となった。その中には、30人以上の子どもたちも含まれていた。「頭は胴体からちぎれ、子供の手足がころがっていた。あたりには小さな肉片がばらまかれていた」と、生存者が語っている。

軍が空爆をエスカレートさせたのには理由があった。ミャンマー軍は地上戦ではなぜか弱かった。そこで、軍は地上戦を支援するために空軍を使った。ところが、それでも地上での戦いは厳しく、兵士たちは次々と命を落としていった。ミャンマー軍は兵力の枯渇に直面していた。結局、軍が選んだのは空軍のみによる攻撃であった。この攻撃では、PDFや民族軍などのレジスタンス勢力を標的にするのではなく、一般住民が多く集まる場所を意図的に狙い、民間人を殺害する方法が採られた。

それは、軍に逆らってレジスタンス勢力に協力するとひどい目に遭うという脅しであった。恐怖をもって敵や国民を制圧しようとする、ネウィン政権時代から続く軍の戦略である。これは一時的には効果がある。地元住民は恐怖により逃げ回り、レジスタンス勢力への協力が難しくなる。しかし、軍に対する憎悪がより一層増すこととなった。

ミャンマー軍による国民の虐殺は、こうした空爆だけではない。毎日どこかで住民の虐殺が起きている。しかし、来る日も来る日も来る日も虐殺のニュースに触れ続けると、感覚が麻痺し何も感じなくなる。それに、ヤンゴンのような、直接被害を受けていないところに住む一般国民は、軍に対する抵抗意識が弱まってくる。仕事をして生計を立てなければならないという現実があるからだ。

こうした時、空爆による無差別虐殺のニュースが報じられると、自分たちは軍と戦っているんだという、本来の現実に引き戻される。軍の空爆は、国民の抵抗意識を弱めるどころか、国民の気持ちはより硬化していった。ミャンマー軍は自らを孤立化させてしまった。

【参考】
「私たちの心は燃えている」:パーカン空爆がカチン人の革命精神を煽る

「誰も私たちを救ってくれないの?」– 目撃者らが語るミャンマー軍によるカンバル空爆

肉片がそこらじゅうにあった:ミャンマー空爆生存者(閲覧注意。犠牲になった子どもの写真を含む)


クーデターから1000日のミャンマー
その1 その2 その3 その4

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?