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クーデターから1000日のミャンマー(その1)

2021年2月1日にミャンマーで軍事クーデターが起きてから2023年10月28日でちょうど1000日、2年9ヶ月が過ぎた。世界ではウクライナ、イスラエルと次々と戦いが起き、日本ではミャンマーのことは忘れられたように見える。しかし、今でもミャンマーでは戦いが毎日続き、悲惨なことが毎日起きている。私はヤンゴンに住む一人の日本人だが、このミャンマーの1000日間に何が起こったか日本にいる人たちにも伝えたいと思う。

まさかのクーデター(2021年2月1日〜2月3日)

2021年2月1日のまだ薄暗い早朝、軍によるクーデターが起きた。第一報を知ったのは、日本のメディアが伝える短いネットの速報だった。驚いてFacebookで調べると、BBCビルマ語放送のページがクーデターのニュースを慌ただしく伝えていた。その直後にインターネット回線が切れ、しばらくして携帯の電話回線も切断された。テレビも全チャンネルが停止していた。すべての情報が完全に遮断されたのだ。こうして2月1日の朝が明けた。

時は3ヶ月ほど前に遡る。ミャンマーでは2020年11月に国会議員を選ぶ総選挙が行われた。アウンサンスーチー率いる政党NLD(National League for Democracy / 国民民主連盟)が大勝してそれまでの5年に引き続き、次の5年間の政治を担うことになった。しかし、その結果にミャンマー軍は不満を持った。軍のお抱え政党であるUSDP(Union Solidarity and Development Party / 連邦団結発展党)は予想よりも大敗し、軍に有利な憲法を持ってしても政権を奪還することができなかったからだ。

しばらくして、軍がクーデターを起こすのではという噂が出てきた。ちょうどその頃、アメリカの大統領選挙ではトランプ大統領が選挙不正を訴えて大きな騒ぎになっていた。同じようにミャンマー軍が選挙不正を言い出したのだ。アメリカではほんの僅かな得票差で新大統領が決まったが、ミャンマーではNLDとUSDPでは大きな得票差があり、誰も軍の言うことなど信じなかった。それに、曲がりなりにもミャンマーでは2011年から選挙による民主主義が10年間続いた。いくら軍の権力が強大なミャンマーといえど、今の世の中でクーデターなど起きるわけがない、単なる噂話だとほとんどの人たちが思っていた。

ところが、国会議員が招集されて新しい政権が発足する2月1日に軍はクーデターを決行した。ロシアのウクライナ侵略と同じ、「まさか」であった。ヤンゴンで自由気ままな生活をしていた私にとっても、その日から世界がひっくり返ってしまった。

クーデターの日から3日間、街はひっそりとしていた。40代以上の人たちは1988年の民主化運動を思い出していた。ミャンマーでは1962年以降続いてきた軍の独裁に対して国民が立ち上がったのが1988年だった。それは中国の天安門事件の前年の出来事だった。多くの国民が街頭に出てデモを行った。しかし、軍は丸腰の人たちに向かって実弾を発砲し、抗議は鎮圧されてしまった。数千人の犠牲者が出たと言われているが、未だに詳細は不明だ。

この88年を思い出し、誰もが息を潜めていたヤンゴンの街だったが、インターネットの世界は違った。Facebookを見ると、軍を非難する声ばかりだった。悲鳴に近い叫びや軍への罵詈雑言で溢れかえっていた。そんな中に、「鍋をたたこう」というメッセージがいくつも流れてきた。クーデター発生の翌日、2月2日の夜8時にそれは始まった。突然、ヤンゴン中がけたたましい音に包まれた。

ミャンマー暦の新年(毎年4月が新年となる)の風習として、「悪鬼」を追い払うために鍋をたたく習慣があった。それは、ヤンゴンではとうの昔に忘れ去られた古い風習だったが、突然この鍋たたきが復活した。悪鬼が現代に蘇ったからだ。

大規模デモへ(2021年2月4日〜2月下旬)

クーデターから4日目、静かだった街に変化があった。最初は学生たちによる数十人の小さな抗議デモだった。それが日を追うごとに参加者が増え、またたく間に大規模デモになった。数日後にはヤンゴンだけでも百万人以上(と思われる)デモに膨れ上がった。数百人もの大きなグループは大学生たちだった。会社、近所、家族、友人たちで参加した数人程度の小さなグループも無数にあった。彼らは自分たちで作った思い思いのプラカードを持ち、抗議の声を上げていた。こうしたデモ隊がヤンゴン中のいたるところで抗議していた。さらに、デモ隊を支援する人々もたくさんいた。

町の食堂は弁当を提供し、商店は飲み物やパンを配っていた。果物屋はフルーツを提供し、自宅で茹でたゆで卵を配っている人もいた。もちろん、全て無料だ。医師たちは救護隊をかって出た。また、大きなゴミ袋を持った人たちがゴミ拾いをしていた。皆、自分たちにできることは何かを考え、自ら行動していた。

こうして、ヤンゴン中の人たちが街頭に出て連日大規模な抗議活動をしていた。街は経済活動も行政機能も止まってデモで溢れていた。私は毎日そうしたデモの中に入っていったが、不思議と混乱や危険は全く感じなかった。軍の理不尽なクーデターに抗議して街頭に出た人たちは民主主義国家にふさわしい「善き国民」であろうと努力していたのだ。普段は歩行者よりも車優先だったヤンゴンの車が、人が渡り終えるまでずっと待っていた。すれ違う人々は3本指を立てて(映画「ハンガー・ゲーム」で登場した、独裁者へ立ち向かうシンボルで、タイや香港のデモでも見られた)お互い意志を確認するようにうなずきあう。皆が同じ目的で集まった仲間たちで、心がひとつになっていた。

こうした抗議運動はヤンゴンだけでなく、ミャンマー中のあらゆる地域、国境地帯の小さな村でも行われていた。この頃、多くの国民はこの抵抗が必ず成功すると思い、街は希望に溢れ、みな助け合っていた。このときの私は、軍は譲歩するしかないと思っていた。圧倒的多数の国民から猛烈な反発を受けた軍、軍がクーデターを完遂するには多くの国民を犠牲にするしかない。いくら絶対的な権力と軍事力を持つミャンマー軍でも、同じ国民に対してそこまではできないと思ったからだ。

もうひとつの抵抗活動、CDM(2021年2月上旬〜)

クーデター翌日に生まれたもうひとつの抵抗運動がある。それはCDM(Civil Disobedience Movement / 市民的不服従運動)である。ミャンマーでは、公務員が自主的に職場を放棄することで行政機能を麻痺させ、軍の統治を崩壊させることを目指している。ガンジーによる「塩の道」に代表される非暴力・不服従運動は、最も有名なCDMの一例である。

このCDMは誰かの指令によってではなく、自然発生的に始まった。幾人かの公務員が自発的に勤務拒否を始め、それがきっかけで多くの公務員を巻き込む運動へと発展した。

特にCDMへの参加者が多かったのは医療関係者、教師、鉄道職員などであった。これらの職場では半数以上の人たちがCDMに参加していた。CDM参加者の多さに驚いた軍は、各職場の幹部に軍人を急遽配置し、逮捕などをちらつかせて公務員を脅迫した。私がよく知っている公務員も、「CDMに参加したら逮捕するぞ」と軍から派遣された上司から強迫され、CDMを諦めざるを得なかった。

国民を繋いだインターネット(2021年2月上旬〜)

クーデター後、軍はテレビ、ラジオ、新聞、雑誌などのメディアを掌握し、情報統制を行った。しかし、ネットは軍の統制下にはなかった。ミャンマーでは既に多くの国民がスマートフォンを通じてインターネットに親しんでいた。特にFacebookが大人気で、メールアドレスを持っていなくてもほとんどの人たちがFacebookアカウントを持っていた。軍によってメディアのライセンスを剥奪された独立系メディアは、Facebookを通じてニュースを届け、一般人は地元の様子をFacebook上に報告した。こうして、ミャンマー中の情報が即座に広がるようになった。また、軍がどこで何をやっているか、誰もが映像で見ることができる。残酷で直視できないような映像を毎日国民が見るようになったのだ。軍に対する怒りがより一層蓄積されていった。

軍はこれに対し、FacebookやTwitterなどのSNS、および軍を批判するメディアのWEBサイトへのアクセスを通信会社に命じてブロックした。しかし、VPNという特殊なソフトを用いることでこのブロックを回避できることを国民が知り、軍の圧力は効果を失った。

ミャンマーでは既に金融システムがインターネットで繋がっていた。ミャンマー経済・社会がインターネットなしでは運営できない状況になっていたので、軍はインターネット自体を止めることができなかった。中国ほどの技術力と資金があればインターネットの情報をコントロールすることもできたが、その両方ともない軍はインターネットに対しては無力だった。

急速な治安の悪化と自衛(2021年2月中旬〜4月)

2月13日の夜9時頃、ヤンゴン中で一斉に犯罪が発生した。私の住んでいる地域でも住民により3人の犯罪者が捕まえられた。友人たちに電話で確認すると、他の地区でも強盗、放火、毒薬投棄などの騒ぎが起きていた。信じがたいことに、ヤンゴンのほとんどの地区で同時刻に犯罪が起きていた。

この日以降、治安は急速に悪化した。刃物を持った人間が住宅地に出没し始めた。夜中には兵士たちが路上にある車や自転車を破壊して回った。しかし、警察は全く動かなかった。住民たちは自分たちで自衛するしかなかった。自警団を組んで自分たちの地区の出入り口を24時間監視するようになった。

同じようなことが1988年の民主化運動のときにもあった。暴徒が街中を暴れ回った。これを仕組んだのは軍だと言われている。治安が悪化すれば、軍による実力行使を正当化することができるからだ。今回も軍が仕組んだと言われている。同日同時刻にヤンゴン中で一斉に犯罪を起こさせることができるのは軍だけだ。

また、日中は軍はデモ隊に対して兵士を配置し静観していたが、夜は違った。NLDの国会議員や党員、Facebookで目立っていたインフルエンサー、独立系メディアのジャーナリストなどを夜中に次々と逮捕し始めた。夜は魑魅魍魎が跋扈する世界となった。

軍による虐殺が始まる(2021年2月下旬〜4月下旬)

2月中旬あたりから、軍はデモ隊に対して催涙弾などで威圧し始めた。そして、2月の末になると、状況は一変した。武器を持たない平和的なデモに対して、自動小銃やサブマシンガンでデモ隊の人々を無差別に撃った。それは治安維持という範囲を超えて、虐殺であった。

軍は妥協するだろうという、私の当初の予想は完全に外れた。軍は自分たちの権力を守るために国民がいくら犠牲になっても構わないと決意したのだ。ヤンゴン郊外では、デモの参加者が一度に何十人も軍に殺害されるということも起きた。そして、大量逮捕も始まった。逮捕された人たちの中には、拷問で命を落とした者も多かった。歯をすべて抜かれたり、顔に酸をかけられたり、内蔵が全部抜き取られたりした遺体が家族の元に戻ってきたのだ。Facebook上にそうした映像があふれていた。底しれない残虐さに私も恐怖を憶えるとともに怒りで震えた。

今の軍は外国人であっても容赦しない。私も薬や貴重品を入れた緊急用のバックバックを用意した。備蓄用の食料も用意した。この準備をしながら、東日本大震災のときのことを思い出した。福島原発が爆発して東京が汚染されるかもしれないと、みな緊迫して避難用品を準備していた。

この時点になると、国民の意識が大きく変わった。それまで、国民が求めていたのは、ミャンマーをクーデター前の状態に戻すことであった。兵士たちは兵舎に戻り、選挙結果に基づいて国会を開きNLDが政権につくことだった。しかし、軍は虐殺により自らルビコン川を渡ってしまった。もう後戻りも妥協もできない地点まできてしまった。そして、「春の革命」(Spring Revolution)というスローガンが出てきた。クーデターを起こしたミャンマー軍を解体することを求めるようになったのだ。

ミャンマー軍は1962年のクーデター以来、ずっとこの国の政治・経済を支配してきた絶対的な存在だった。2016年から5年間続いた民主的なNLD政権も軍との妥協の産物だった。軍と妥協しなければ民主化どころか国家が成り立たない、軍を倒すなど夢物語だと誰もが思っていた。それはミャンマー人だけでなく、日本を含む外国政府もそうだったし、外国人のミャンマー専門家の多くがそう思っていた。

一方、ミャンマー軍から見ると今の事態はどう見えただろうか。ミャンマーがイギリスから独立できたのは軍の存在があったからだと彼らは自負していた。軍は国を導く責務があるし、国家そのものでもある。その軍を否定する者は国家を破壊する国家反逆者でもある。国を守るためには何としても反逆者たちを排除しなければならない。というのが軍の論理だ。既に国民と軍の間で妥協を論じる余地はなかった。

そして起きたのが、ヤンゴンに近い古都バゴーの虐殺事件だ。軍から町を守るために地元の若者たちが土嚢でバリケードを築いていた。そこに軍が突入したのが4月9日の早朝、薄明が始まる前だった。スリングショット(パチンコ)や火炎瓶程度しかもたない若者たちに対して、無數の銃弾を浴びせ、ロケット弾まで打ち込まれた。暗闇での攻撃も朝を迎えるころには終わった。若者たちはその場で息絶えたか、「戦場」から離脱して散り散りに逃げていった。軍が遺体を運び去ったために実際の犠牲者がどれくらいいたか分からないが、身元の確認が取れているだけで82人の犠牲者だと言われている。その中には中学生の生徒たちもいた。

こうして抵抗運動は鎮圧されてしまった。デモを主導していた若者たち(クーデター前までは、スマホゲームに興じていたようなごく普通の若者)は、ミャンマー軍の本当の姿というものを身をもって知ることとなった。このままだと殺さるだけだと、抵抗活動をしていた多くの若者たちが国境地帯へ逃げた。ミャンマーには古くからミャンマー軍と武力で戦ってきたKNU( Karen National Union / カレン民族同盟)やKIA(Kachin Independence Army / カチン独立軍)などの少数民族軍があり、タイや中国に接する国境地域は彼らの支配地域でもあった。若者たちにとっての安全地帯はそうした少数民族支配地域だけになった。そして、彼らから戦いを学び武力で軍と戦うことを決意した。

ゴーストタウンになったヤンゴンと抵抗の狼煙が上た地方(2021年5月〜2021年6月)

この頃のヤンゴンは何とも形容しがたい雰囲気だった。ちょっと前まではデモ隊が溢れ、多くの国民が街頭で抗議活動をしていたのに、人の姿が街から消えた。目立つのは銃を持った兵士たちだった。商店の多くは店を閉めて市民も家の中で息を潜めていた。

夜8時の鍋たたきは続いていたが、それも徐々に少なくなってきた。鍋を叩いただけで逮捕される人たちが出てきたためだ。また、路上では兵士たちが市民のスマホをチェックするようになった。銃口を向けられると逆らうことはできない。そのスマホにデモの写真やアウンサンスーチーの写真、Facebookへの反軍的な書き込みがあると、そのまま逮捕されることもあった。

こうした締め付けにより、ヤンゴンは息が詰まるような街になった。クーデター以前は、見知らぬ人でも気軽に声をかけることができた街だったのだが、知らない相手には口を閉ざすようになった。

そんなヤンゴンであったが、一部でフラッシュデモと言われる短時間のデモを行う若者たちもいた。少人数で1分にも満たない短時間のデモを行い、すぐに解散するのだ。一見無駄な行為にも見えるが、短時間でもこうしたデモは国民にとって希望へ通じるかすかな光となっていた。

こうして、ヤンゴンでは抵抗運動が潰えたかのように見えた。しかし、地方では全く違う動きが出てきた。普通の住民が銃を持って軍と戦い始めたのだ。たとえば、インドと国境を接する山岳地帯に少数民族であるチン人が住むチン州がある。ここにあるひとつの町で地元住民と軍の間で戦闘がおきたのだ。

この町には私も行ったことがある。標高1000mを超す山の上に町があった。この町に軍が車列を組んで侵攻してきた。普通なら軍隊にかなうわけがない。Facebookで発信される断片的なニュースを追った。バゴーの虐殺事件を思い出し、最悪の事態が起きるのではと心配した。ところが、住民たちは軍を打ち負かしたのだ。町に通じる一本だけの車道の上の斜面にチンの人たちが猟銃を持って待ち伏せしていた。ゆっくりと走ってきた車列が直下に来たとき、彼らの猟銃が一斉に火をふいたのだ。猟銃といっても、先祖代々伝わる自家製の先込め式の銃だった。ナポレオン時代に活躍したマスケット銃と呼ばれるもので、軍が持つ自動小銃とは比べ物にならない貧弱な性能だった。

武器の性能差は圧倒的だったが、地の利もあってチン人たちの大勝利だった。驚いた軍は次も兵士たちを送ったがまたもや撃退されてしまった。3度目にヘリコプターや迫撃砲といった重火器、そして途中で捕まえた住民を人間の盾にして町を制圧してしまった。抵抗していた住民たちは軍の犠牲になるか、山の中や他の村へと逃げていった。

こうして軍は町を制圧したが、そこまでだった。チンの山の中にある多くの村には全く手が出せなかった。そもそも、兵力が足りなかったし兵士の士気がとても低かった。町を一歩出ると山の中、いくら優れた兵器を持っていても山の民にはかなわなかった。こうした地方での武力抵抗はチン州だけにとどまらず、あっという間に他の地方にも広がっていった。

新型コロナの大流行(2021年7月〜2021年8月)

ミャンマーでもクーデターの前年、2020年は新型コロナでミャンマー中が大混乱になったのだが、クーデターはコロナを吹き飛ばしてしまった。クーデター後は私もコロナのことなど頭からすっかり消えてしまっていた。クーデターと比べるとコロナなどどうでもいいことであった。

そのコロナの話題が出るようになったのが、クーデターから5ヶ月ほど経った頃、7月に入ってからだった。そして、7月末から8月にかけてヤンゴンはコロナ地獄だったと言ってもいい。私が住んでいる地区でも毎日何人もの人たちが亡くなっていた。ヤンゴン在住の日本人も4人亡くなり、日本にチャーター便で緊急搬送された人が何人かいた。そして、7月も後半になる頃に私もコロナに感染した

元々ミャンマーは医療体制が非常に脆弱だった。それでも、クーデター前まではコロナ防疫は多くのボランティアの力でなんとか支えられていた。それがクーデター後はボランティアの人たちは軍への抗議活動の最前線に立った。このようにして、コロナに対する医療体制は崩壊してしまった。

ヤンゴンで病院に入院できたとしても、そこにあったのは粗末なベッドと酸素吸入機と点滴だけだ。それに、自分で看護人を用意しなければ入院を拒否される。看護は家族が行うか看護人を雇うしかなかった。食事も看護人が用意する。こうした劣悪な環境の病院よりは自宅のほうがましだと、多くの人たちは自宅療養を選んだ。その結果、一家全員感染する家が続出した。重症化した人がいる家では、家族の中で軽症な人が命の綱である酸素ボンベを求めて外を駆けずり回った。

市内にいくつかあった酸素充填所には、長蛇の列ができていた。そこに突然やってきたのは兵士たちだった。並んでいた人たちを追い払い、市民への酸素供給を禁止した。私はそのとき高熱でうなされながら、この記事をスマホで見て絶望した。親しいミャンマー人の友人がコロナで亡くなったと聞いたのもその時だった。友人は私よりもずっと若かった。私が死ななかったのは単に運が良かっただけだ。

消えた鍋たたき(2021年9月〜)

コロナから回復した9月のある夜、鍋たたきの音が聞こえてこないのに気がついた。あれほど毎日たたき続けていたのだが、コロナに感染してからは鍋をたたくどころではなかった。回復した後、鍋をたたく元気はすっかり消え失せていた。ミャンマーの多くの人々が親族や親しい友人を失っていた。私も親しい友人を亡くし、別の親しい友人は両親とも亡くしていた。私たちはまだ深い悲しみの中にいた。そして、鍋をたたくと逮捕されるという恐怖もあった。

静かに雨が降る9月の夜、私はひとつの時代の終わりを感じた。クーデターからずいぶんと時間が経ったかのように思えたが、2月1日からたったの7ヶ月だった。


クーデターから1000日のミャンマー

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