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クーデター下でのミャンマー陸路の旅

朝まだ暗いうちに友人の車で北へ向かった。ヤンゴンの街には車がほとんど走ってなかった。クーデターにより車の交通量が減ったからだ。特に暗いうちは、いつどこで軍に発砲されるかわからない。車はヤンゴンの北、マンダレーへと続くハイウェイの入口に近づいた。

陸路で地方へ行くことにした

最後に旅行に出かけたのはコロナ前、もう2年以上前のことになる。今年の2月には軍によるクーデターが起こり、ミャンマーは旅どころではない状況に陥った。私も2年間ずっとヤンゴンに幽閉状態だった。

クーデターが起こったといえ、物流は止まらずに動いていた。地方に避難する人もたくさんいるし、仕事で長距離移動する人もいる。しかし、危険を冒してまで旅行する人はほとんどいなかった。ただ、軍としては社会が日常を取り戻してきたという姿を内外に示したいようで、観光地では旅行客が戻ってきたと政府系(軍系)のメディアで盛んに宣伝し始めている。

私ものんびりと旅行という気分には全然なれなかったが、ヤンゴン以外の地域がどうなっているか自分の目で確かめたかった。空路で有名観光地を訪れるなら比較的簡単に行けるのだが、観光地巡りをしたいわけではない。どうせ地方に行くのなら陸路で途中の様子も見たかった。ということで、少々危険ではあるが陸路で回ることにした。私が乗った車はハイウェイの料金所入口のすぐ近くまで来た。

次々と現れるチェックポイント

それまで軽快に走っていた車がスピードを落とし始めた。前方に数台の車が並んでいた。そこは最初のチェックポイントだった。

銃を抱えた兵士が右前方に立っていた。運転手は車の前後席の右側の窓が全開にした。いかつい顔をした兵士が運転手と友人と私の顔を覗き込みながら、ぶっきらぼうに「どこに行くのか」と聞く。我らが運転手は○×までと手短に答えると、兵士は「行け!」というように銃を振るゼスチャーで通行を許可した。道路脇には屋根だけついた小さな簡易兵舎のような建屋に数名の兵士たちがいた。その前には土嚢が積まれていた。

料金所を通るとマンダレーへと続くハイウェーだ。この料金所を通るのも私にはひさしぶりだ。ガラガラのハイウェーを車は順調に進む。前方にも後方にも車はいない。対向車線にたまに車が現れる。1時間もしないうちに車は速度を落とした。2箇所目のチェックポイントだった。

さっきの兵士とは違って「どこに行きますか?」と、丁寧な言葉で行き先を尋ねてきた。軍人の荒々しさをあまり感じない40代と思える人だ。笑顔を浮かべながらの丁重な扱いに私も戸惑った。「教養のある将校もいるんだな」と、友人がつぶやいた。もしかして、彼は「スイカ」だったのかもしれない。スイカは外は緑色だけど中は赤。緑は軍服を表し、赤はNLD(国民民主連盟)を表す。要は、軍服を着ているが本心はクーデターに反対し民主主義を支持してるという軍人だ。軍の中にはスイカがかなりいるという話はよく聞く。

その後も、いくつものチェックポイントを通った。多くは行き先確認と車内の目視チェックぐらいだったが、中には何も聞かずにそのままスルーのところもあった。1〜2ヶ月ほど前にこのルートを通った人に聞いた話とはかなり違った。

そのころは、多くのチェックポイントで賄賂を要求されたといっていた。しかし、今回はそういうチェックポイントはひとつもなかった。もしかして、ちょっと前ににあったチェックポイント襲撃事件が影響していたのかもしれない。銃を持った兵士にビビっている私と同じように、いつ襲われるかわからない恐怖を兵士たちも感じているのだろう。

今回、多くのチェックポイントでは厳しいチェックはなくスムーズに通ることができた。しかし、旅行許可証を調べるチェックポイントも少数だがあった。また、1箇所だけだが、荷物検査を行ったチェックポイントがあった。そこでは、運転手が別の建屋にある窓口まで旅行許可証を持っていき、それが終わると、兵士がやってきて車のトランクを開けるように命じた。兵士はトランクの中にあるいくつかのバックを開けて中身を調べた。もし、荷物の中に一眼カメラがあったら問題になったかも知れない。今のミャンマーでは、カメラを外に持ち出すというのは非常に危険な行為だ。実際、2週間ほど前にカメラを持っているのを軍に見つかったカメラマンが逮捕された。そして、彼は軍の尋問センターで拷問を受けて死亡してしまった。

季節は巡る

いくつものチェックポイントを過ぎ、今回の目的地のひとつであるシャン州南部のある村の近くまでやってきた。ちょうど今の時期はシャン高原が最も美しい季節だ。標高1,000mほどの高原を走る道の両脇は黄色く鮮やかに染まっていた。小さなヒマワリに似た黄色い花が一斉に咲き乱れるのだ。ミャンマー語ではネーチャーヤイン(直訳で、野生のヒマワリという意味)と呼ばれる花だ。そして、なだらかな高原の上には爽やかな風がそよぎ、地には様々な作物が育っていた。この穏やかな自然には、クーデターも軍も殺戮も関係なかった。いつもと同じように季節が巡りいつもと同じようにネーチャーヤインが咲いていた。しばし、人の世の出来事を忘れて自然に浸った。

市場に行ってみた。ヤンゴンとは違い人の顔は穏やかで、身も知らずの私を笑顔で迎えてくれた。クーデター前はヤンゴンでも同じように知らない人同士でも笑顔で話ができた。しかし、クーデターによって人も変わってしまった。一見日常が戻ってきたかのように見える今のヤンゴンだが、見知らぬ人には警戒して心を開くことはない。

村にも軍の影が・・・

傍目には平和で幸せそうに見えるこの村であるが、実際には軍の影も侵入してきていた。近くの村で起こったことだ。夜中に20〜30人の兵士が車でやってきた。周りの騒ぎを不審に思った一人の村人が様子をうかがいに外に出た。それを見つけた兵士が何の警告もなしに彼に向かって発砲し、村人は亡くなってしまった。後で村で囁かれた噂では、村にダラン(密告者)がいて、村の中にPDF(People's Defence Force / 国民防衛隊)への支援者がいると軍に情報を流したらしい。それで軍がやってきたのだ。ところが、犠牲になった村人はPDFとは全く関係がない人だった。

結局、PDF支援者も見つからなかったし、そもそもPDF支援者がいたかどうかも疑わしい。また、誰がダランかも藪の中だという。

こういう悲劇があったといえ、シャン州南部は他の地方と比べると今のところ平穏だ。同じシャン州でも、北部シャン州は毎日のように軍と衝突が起きている。シャン州南部の平穏もいつまで続くかわからない。

次はミャンマー第二の都市、マンダレーに向かった。

重苦しいマンダレー

チェックポイントは1箇所だけでマンダレーに到着した。時間は午後3時、空は快晴、なのにマンダレーの街は重苦しい空気が漂っていた。繁華街を通っても多くの店が閉まっている。人通りも以前の半分くらだろうか。

マンダレーの中心にある王宮の周りを車で一周してみた。王宮跡は皇居のように堀で囲まれていて市民の憩いの場でもあるのだが、人が少ない。また、王宮は一辺1マイル(1.6Km)の正四角形であるが、その四隅には土嚢が積まれて銃を構えた兵士たちがいた。

マンダレーといえばバイクだ。以前はバイクが溢れている街だったのが、明らかにバイクの数が減っている。以前の半分くらいだろう。それに、二人乗りが少ないのだ。奇妙なことに二人乗りの後ろはほとんど女性だ。例のトンデモ法が効果を発揮しているようだ。

1ヶ月ほど前にバイク二人乗り制限法というような通達を軍が出したのだ。二人乗りの場合、後ろに男を乗せてはいけない。もし見つけた場合は発砲も辞さないう。実際に二人乗りしていたバイクに軍は発砲したという事件が起きた。そのバイクに乗っていた男性は死亡した。二人乗り禁止法の理由を軍は説明していないが、後ろ乗った男が軍に爆弾攻撃を行うことができるからだと言われている。

日が暮れて外の食堂に夕食を食べに行こうと思い、車で市内を走った。薄暗くなり始めた午後6時過ぎであるが、人々は早めに自宅に戻り多くの店が閉まっていた。目当ての食堂が閉まっていて次の店を目指す。そこも閉まっていた。しばらく街をさまよい、やっと開いている食堂にたどり着いた。10テーブル以上あるけっこう大きな食堂だったが、客は我々を入れて3組しかいなくて寂しい夕食となった。

ヤンゴンへの帰路

ひしぶりのマンダレーだったが、2泊3日でここも後にすることになった。朝6時頃にホテルを出てまっすぐヤンゴンへと向かった。ヤンゴンを出たときと同じように、ハイウェイには車が少なかった。ただひとつ奇妙なことがあった。全然チェックポイントに出会わないのだ。数日前にヤンゴンを出たときは、すぐにチェックポイントが出現し、その後も40〜50分おきに次々と車を止めて行き先を聞かれた。ところが、マンダレーからネピドーのあたりまではひとつもチェックポイントがなかった。

その代わりでもないが、我々の車は軍の車列を次々と追い越していった。数えてなかったので正確な数はわからないが、50台は下らないだろう。その多くはトラックで、幌をピッタリと下ろして何を積んでいるか全然わからない。中には軍なのか民間なのかはっきりとしない車両もあったが、ナンバープレートがなかったので軍関連の車両だと想像がつく。軍の車両はナンバープレートを外しているからだ。

ネピドーを過ぎたあたりから、チェックポイントが復活した。数日前にヤンゴンを出たときとほぼ同じ場所にあった。それらのチェックポイントを特に問題もなく通り、ヤンゴンに到着した。

旅行許可証と賄賂

結局、今回の陸路の旅でチェックポイントは合計18箇所だった。そのうち、15箇所は行き先を尋ねて車内を目視チェックする程度ですぐに通ることができた。残りの3箇所は旅行許可証の提出があったが、身分証明書やパスポートの提示はなかった。また、1箇所は車のトランクを開けて荷物検査があった。

現在、陸路での移動の場合は基本的に旅行許可証が必要だ。ただし、ミャンマー人が自分の居住する場所や実家に戻るなどの場合はこの許可証がなくても通れると聞く。旅行許可証は、自分が住んでいるヤックエ(地区の役所)で発行してもらう。または、仕事で移動する場合は関連する所轄省庁からの発行となる。

私が経験したのはミャンマーの一部地域だけで、全ての陸路で同じような検査体制かどうかはわからない。それに、時期によっても大きく異る。

つい最近、カレン州のパアンからヤンゴンに戻ってきた友人の話だと、多くのチェックポイントで賄賂を要求されたという。逆にいえば、賄賂さえ渡せば車の中に誰がいても何を積んでいてもそのままスルーで通ることができるのだ。今まさにカレン州ではカレンの民族軍であるKNUやKLNAと軍との間で大規模な衝突が起きている。それにも関わらず賄賂で通行できるなど、ミャンマーの軍はどうなっているのだろうか。

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