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先生、わたし、お母さんになったよ。

私は、半袖を着ることが出来ない。水着を着るときはラッシュガードが欠かせないし、友人と温泉に行くことすらままならない。

精神的にとても不安定だった時期、セルフハームを繰り返していた。いわゆる自傷行為である。初めてそれをしたのは、確か中学1年の頃だったと記憶している。場所に拘りはなく、人に見せることもなかった。痛みを感じられれば、それで良かった。自分を罰したいといつも願っていた。不浄な生き物だという思いが拭えなかった。

切り裂かれた傷口から流れ出すものを見るたびに、なんとなく許されたような気がしていた。


やめなければ、といつも思っていた。でも、やめることが出来なかった。少しの期間我慢出来ても、すぐにまたぶり返してしまう。我慢している期間が長ければ長いほどに、その反動は大きかった。10針以上も縫うような深い傷を付けたこともあった。それでも案外命に関わることもなく、外科の先生に手術室で説教されながら傷口を縫われていた。私は抑揚のない声で謝罪を繰り返していた。

「ごめんなさい。迷惑をかけて、ごめんなさい。」と。


何故こんなことをするの?と何度も聞かれた。その度に答えに詰まった。そんなの、私が一番教えて欲しかった。

やりたくない。もう繰り返したくない。抜け出したい。何度もそう思い、その度に剃刀やカッターナイフをコンビニのごみ箱まで捨てに行った。自宅のごみ箱に捨てても、拾ってしまうから。拾えない場所まで、わざわざ車を走らせた。

でも皮肉なことに、それと同じ場所で新品が売られていた。それも、24時間。

だめだ、我慢しろ。だめだ、だめだ、買ってはだめ。

そう唱え始めたときは、大抵もう手遅れだった。店内を行ったり来たりする。カッターナイフを手に取っては、また戻す。出口へ向かおうとして、また立ち止まる。

衝動に負ける。

レジで支払う数百円を勿体ないと思う感覚すら消え失せていく。銀色に光るそれをお守りのように抱えて自宅に帰る道中、胸の中は変に高揚していた。

一時の欲望を満たす。そうして繰り返した後に残るのは、ただならぬ後悔と醜い傷痕、そして汚れた寝具だけだった。


過去、両親からあらゆる虐待を受けていた。その環境から逃げるように家を飛び出し、私は自由になったはずだった。もう誰にも殴られないし、誰にも罵倒されない。凌辱されることもなければ、何かを強制されることもない。それなのに、何故いつまでもこんなふうなのだろう。私はいつになったら解放されるのだろう。いつになったら、みんなみたいに「普通」に生きられるのだろう。

普通になりたかった。大学に進学した同級生たちの話を聞くたびに、劣等感に苛まれた。進学校だった高校で、私は学年トップを争っていた。100点以外を取ってくれば体罰が待っている。ぎりぎりまで睡眠を削り、命がけで勉強した。当然の結果だった。でも結局は、心が先に限界を迎えて壊れた。私には「中卒」という学歴コンプレックスだけが残り、偏差値70を越えていた模試の結果なんて何の意味も持たなくなった。


傷だらけの身体は、付けられた古傷なのか自ら刻んだものなのかの判別も付かなくなっていた。刻むたびに押し寄せる後悔は、少しづつ私の中を蝕んでいった。そして、気が付いたときには重度のうつ病を患っていた。


自ら呼んだ救急車で運ばれ、閉鎖病棟に入院となった。檻の中の居心地はあまり良くなかったけれど、その檻は昔よりは遥かに安全だったから、それだけでもマシだと思った。食事と排泄を規則正しく管理され、窓は数ミリしか開かず、主治医の許可がなければ外出は一切許されなかった。刃物は当然持ち込み禁止。ムダ毛の処理すらままならなかった。それも全て、私にはどうでも良かった。

白い壁を見つめながら、幾日もただ呼吸をしているだけの日々が続いた。しかしそれがしばらく続いたある日、その衝動は唐突に訪れた。

切りたい。

爪をぎゅっと腕に押し付ける。でもそんなものでは全然足りなかった。もっと分かりやすい痛みを強く欲していた。内側から溢れるどろどろの感情を抑え込む術など、私にはなかった。


主治医との面談が迫っていた。その衝動を告げたら退院は間違いなく延びてしまう。それだけは避けたかった。私は必死に平静を装った。自分を刻みたいが故に、嘘をついてまで退院を望む。そんな自分に気付いた瞬間、絶望的な気持ちになった。どうして。どうして、こんなにも生きることは苦しいのだろう。

叫び出したい衝動が内側から突き上げてくる。声を喉の奥で押し殺す。私の得意技だ。タバコで焼かれたときすら悲鳴を上げることなく堪えて生きてきた。叫びたいときに叫ぶことを、一度だって許された試しなんかない。押し殺すのが正解だ。叫ぶな。口をつぐめ。誰にも何も明かしたらだめだ。明かした途端に私は終わる。軽蔑の眼差しで見られる。

だって、私は汚いから。


親のすり込みほど洗脳に向いているものはない。私は夜毎父親にそうすり込まれた。悪いのは私で、汚いのは私。そう、教え込まれた。


◇◇◇

主治医との面談は、狭い個室で行われた。年若い、男性の医師だった。男性というだけで、私の身体にはいつも余計な緊張が走る。

敬語ではなく、砕けた口調で話す人だった。高飛車な雰囲気ではないものの、揺るぎない意志をその目に宿していることは一目見て分かった。

当たり障りのない日常会話を少し繰り返した後、主治医は単刀直入にこう切り出した。


「感情を、言葉にする練習をしよう。」

続いて、こう聞かれた。

「自傷行為を通して、あなたは何を伝えたいの?」


唖然とした。何と答えるべきか分からず、そもそも何を問われているのかもよく分からなかった。

「伝えたい想いがあるはずだ。それを言葉に出来ないから、代わりに傷付けてしまう。あなたは、何を伝えたいと思ってる?どんな気持ちを分かって欲しいと願ってる?」

どんな気持ち?私の気持ち?

そんなものあったっけ。私に伝えたい想いなんてあったっけ。

「切りたい気持ちだけ。それだけ、です。」

そう答えた。他の答えが見つからなかった。

「本当に切りたいと思ってる?」

「え?」

「感情は、そのまま言葉にして良いんだよ。辛いときは辛い、寂しいときは寂しい。そのまんま、言葉にして良い。寂しいからって腕を切っても、その感情は誰にも届かない。その伝え方は、自分も周りも傷付ける。負の感情だからこそ、ちゃんと声に出して身体の外側に出してあげよう。僕らは、それを聴くためにいる。もう一度聞くね。あなたは、どういうときに傷付けてしまうの?」


私の、そのままの感情。

「言ってしまいたい」と「言うな」が頭の中で攻めぎ合う。すり込まれたものが顔を出す。でももう、いい加減楽になりたかった。本当は、ずっとずっと、救われたかった。

喉元までせり上がってきた言葉を、目をぎゅっと瞑って無理矢理押し出した。


「……辛い。」

「うん。」

「辛い、ときです。」

たったの、三文字だった。その三文字を絞り出した瞬間、嗚咽が漏れた。堪えることもせず、私はひたすら泣き続けた。

言葉に出すことは許されないと思っていた。表に出すことは許されないと思っていた。

私は罰を受けるべきだ。その考えが拭えなかった。


「それで良い。よく言えたね。よく頑張った。」

身体を振り絞るように泣き続ける私に、主治医はそう言ってティッシュの箱を差し出してくれた。ぐちゃぐちゃな顔のままそれを受け取り、鼻をかんだ。そして、また泣いた。落ち着くまでの間、その人は黙って待っていてくれた。


負の感情を抑え込まれて育った私は、それを表に出すことを禁忌だと思っていた。親元を離れても尚、その考えに縛られていた。記憶に攻めさいなまれる夜も、現実に起こる理不尽な出来事も、全て飲み込むしか術はないのだと思っていた。

でもその人は、それを表に出して良いと言ってくれた。自分たちは、そのために居るのだと言ってくれた。


「閉じ込めていたものを表に出すとき、出す側も受け止める側も、相当なエネルギーを使う。だから、誰彼にそれをして良いわけじゃない。僕を信用してくれるなら、僕はちゃんとあなたの気持ちを聴く。だからあなたにも約束して欲しい。もしまた自分で自分を傷付けてしまったら、そのことを隠さずにちゃんと僕に話すって。」

一瞬答えを躊躇った私の心中を見抜いたように、主治医はこう続けた。

「そのときには、僕がちゃんと叱ってあげるから。」

口調はふざけていたけれど、その目は真っ直ぐに私を見ていた。目をそらすことが出来なかった。そらしてはいけないと思った。


この人のことを、少しだけ信じてみたい。


そう思えたこの日から、私は私の中にある様々な感情を表に出す練習を重ねた。色々試してみた結果、私に一番向いているのは「書く」ことだった。

ノートに手書きで書きなぐったもの。原稿用紙にびっしり書いた小説やエッセイ。誰にも見られないように鍵をかけたネットの中に書き連ねた文章。その全てが、私の内側から生まれたものだった。書けば書くほど、身の内が軽くなった。本当の意味で、許されたような気がした。


感情を表に出しても良いのだと、教えてくれた人がいた。下手くそな私の出し方に、根気強く付き合ってくれた人がいた。

その人は、私の弱さを責めなかった。負の感情に無理矢理蓋をしたりもしなかったし、間違っているときはちゃんと叱ってくれた。

その人は、他人だった。家族でも友人でも恋人でもなかった。でもだからこそ恐れを捨てて、内面をさらけ出すことが出来た。


容赦なく襲いかかってくる衝動は、いつしか「書きたい」という欲にすり変わった。私の左腕は古傷だけになり、生傷が刻まれることは無くなった。


◇◇◇

「ねぇ、このきず、どうしたの?」

まだ幼い我が子が、お風呂場で不安気な顔でそう尋ねてきた。

「うん……これね。転んじゃったの。お母さん、色々下手くそだったから、いっぱい転んじゃったの。」

「もう、いたくない?」

「痛くないよ。もう治ったから、大丈夫だよ。」

それを聞いて、ホッとしたような顔で息子は笑った。そして、優しくその傷痕を撫でてくれた。

「おかあさんがころばないように、ぼくがてをつないでてあげるね。」

「ありがとう。」

浴槽で抱きしめた我が子は、柔らかくてとても温かかった。



生きるのが下手くそだった。何度も何度も転んでしまった。それでも今は、この小さな掌が私をいつも守ってくれる。


大切なことを教えてくれた人がいた。そのおかげで、私は今日も「忙しい、忙しい」と言いながら、小さな掌を追いかけ回している。


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