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「私らしさ」って何だろう

GW中は「これから毎日noteを書く!」と意気込んでいたものの、GW直後から私の生活は一変した。
自分で決断したことだったけれど、何だか気分が上がったり下がったり。
心が擦り切れることもあった。
この出来事は今のタイミングでは言えないので、またいつか。

こういう時に、自分を取り戻す何かの手段があればいつもの私に戻ることができるのだろうが、私の場合は完全に奪われた状態だった。
ここ最近、やっとその生活にも終わりを告げようとしており、今日から早速これからの生活に向けて準備を行い、とても気持ちがワクワクしていた。

私自身、東北に2年間いたことで、価値観が180度変わった。
一次産業などにも触れ、いかに私たちの生活がたくさんの人に支えられていることを知った。
こういったこともなかなか言語化しにくい、また数値化しにくいもので、
「共感してくれるにはどうしたらいいのか?」と常に考えていたが、6月上旬に戻って、現地で色々と考える中で言語化することができ、腑に落ちた。

私の非日常は誰かの日常であって、ここではその表裏一体を感じ、

それを踏まえ自分自身を豊かにすることは、ほんの少しの工夫でできると知る。

そして人は一人では生きることはできないからこそ、支えてくれるモノへの感謝の気持ちが生まれ、

その中で自分は何ができるのか?何をしたいのか?考える。

という一連の中で私が考えたのは、

私「らしさ」を殺さない、むしろ伸ばしながら、それが尊重される社会をつくっていきたいなぁ…

という大きなビジョン。

(先週行った海での一コマ)

私自身は東北に行ったことで、これまでの日常が非日常に変わることがあると知ったし、私自身、これまで非日常だったことが日常に変わっていった。
そして東京に戻ってきた時、また非日常が日常に戻る中で、違和感を感じることが増え、身体も崩した。
だからこそ、私自身が日常の中でも非日常を自分の中でつくり出すことの大切さ、無理しすぎる人に対して、無理をせずに「自分らしく」行こうよとメッセージを伝えたいという気持ちが強くなっていった。

現在の東京での日常に対して、違和感を感じながらも、無理をしている人は多いと感じるし、誰かに合わせにいくこともあるだろう。
つまりは等身大の自分ではなく、どこか偽った姿で過ごしているといつか確実に崩れてしまう経験ばかりの私。

そういう意味で、「らしさ」って何だろう?とぐるぐる。
そして、このストレスフルな生活を送る中で、奪われていく「らしさ」があることを思い出す。

そうなると、「これらがないと私ではなくなる=らしさ」と再確認でき、それらを大切に生きていこうという気持ちになるし、逆にこれを奪うのであれば、私がすべき選択ではないことに気づく。

・自然の中に入ること
・発酵の力を目の前で感じること
・自分の手で料理をつくり、(ここではほとんど分からないけれど)作り手の人に感謝してご飯をいただくこと
・発酵食品を積極的に取り入れること
つまりは、自然の近くにいながら家で自炊をして食事をすること。

自炊も余裕がないとできないし、塩麹・醤油麹・甘酒も自分の余裕がないと、また麹がないとつくれない。
(今日やっと麹をゲットできて、とても嬉しく、またそれぞれ仕込むことができて、とてもスッキリした気持ちでいるのです〜)

正直、ここ最近平日夜はコンビニのサンドイッチかおにぎりが多く、腸内細菌を含め身体も何だか優れないことは自明だった。
身体は素直であることを痛感するとともに、一つひとつの作業に込められた意味や過程を見ることでより心のリフレッシュ加減が増していくことも分かった。
単純にモノに興味がない私だからこそ、手を動かしたり体感することが重要なのだと気づきがまた一つ増える。

(今日のお昼は塩麹で漬けたブリに具沢山のお味噌汁でほっこり)

つい使ってしまう、「私らしさ」という言葉。
簡単だからこそ余計に使ってしまうのだけど、それをきちんと咀嚼していくと、新たな世界もつくれる気がして。
(逆にとりあえず使っているのでは薄っぺらい気がしている)

まだまだ遠いと思うけれど、「私なり」の世界をつくっていこう。

ありがとうございます。今の私はたくさんの人生の先輩方にお世話になったからこそだと感じています。いただいたサポートでは、後輩が迷った時に話を聞く際のカフェ代に恩送りさせていただきます。